「藤原!」
と、大声で呼ばれて、藤原はびっくりして飛び上がりそうになった。
「社長! 何してるんです?」
「心配で来てみたんだ」
と、社長の舟橋は、少し渋い顔で、「順調か?」
「ええ、二人とも今、仕度してます。落ちついたもんですよ」
「そうか。——ちょっと来い」
ここは、赤坂にあるPホテル。
今日は、中沢なつき、さやか母娘《おやこ》の共演第一作、『母娘坂』の制作発表記者会見である。
藤原は、会場の用意ができているかどうか見に行こうとして、控室から、出て来たところだった。
舟橋は、藤原を促して、ロビーの隅へと歩いて行った。
「ここなら大丈夫だな」
と、舟橋は足を止めて、言った。
「どうかしたんですか」
「まずいことになったぞ」
「はあ? 企画に何かクレームでも?」
「いや、あの二人に関してじゃない。企画もいい。脚本も、急いで書かせたにしては、よくできている」
「じゃ、何です?」
「中沢なつきの亭主だ」
「中沢竜一郎さんですか? あの方が何か……」
「なつきとさやかをこの世界へ引っ張り込むのに、池原洋子の手を借りたろう」
「ええ、中沢竜重さんのアイデアで。それは効《き》きました」
「効き過ぎた」
と、舟橋は言った。「目下、池原洋子と中沢竜一郎は、『親密な』交際中だ」
「まさか!」
と、藤原が目を丸くする。
「本当だ。——幸い、今のところは、写真週刊誌も気付いとらん。しかし、もし、ばれたら、なつきもさやかも、映画どころじゃなくなるぞ」
「そ、そりゃそうですね」
「そうなる前に、何とかブレーキをかけるんだ」
と、舟橋は言った。
「分りました。中沢さんに話してみましょう」
と、藤原は肯《うなず》いた。「困ったもんですね。あの年齢《とし》で火遊びじゃ」
「あの年齢だから、火遊びするんだ」
と、舟橋は、もっともなことを言って、「どうしても止まりそうもなかったら……」
「どうします?」
「その時はその時だ。やりようがある」
舟橋は、ポンと藤原の肩を叩いて、「さし当り、あの亭主と話し合え。分ったな」
「分りました」
「池原洋子の方には、事務所を通して、注意しとく」
舟橋は、ちょっと息をついて、「何としても、『母娘坂』は成功させるんだ。大スターが生まれるかどうか、これにかかってるんだからな」
と、力強く言った。
「ワハハ」
と、浜田宏実が笑った。
「笑うな」
と、さやかは不機嫌である。
ここは記者会見の出席者のための、控室だった。さやかは、いささか時代遅れのデザインのセーラー服姿。
覗《のぞ》きに来た宏実が、それを見て、笑ってしまったのである。
「せめて、ドレスでも着たかった」
「いいじゃない。清純そうに見えるよ」
「じゃ、本当は何だってのよ」
と、さやかは苦笑いした。
「あら宏実さん」
と、母のなつきがやって来る。
「わあ、さやかのお母様、シック!」
と、宏実が、落ちついたスーツ姿のなつきを見て、声を上げる。
「これじゃ、戦後間もなくの物語だわ」
と、さやかは言った。「お母さん、挨《あい》拶《さつ》は考えた?」
「藤原さんが考えてくれるんじゃないの?」
「まさか。自分で考えてしゃべるのよ」
「あら、大変」
と、なつきはのんびり言った。「でも、何とかなるわよ」
なつきは、ソファの所へ行って、座り込んだ。
「——度胸だけはベテラン女優」
と、さやかが、母親を見て、感心する。
「生まれつき、素質があったのかもね。さやかも」
「やめてよ。これ一本でおしまい。——ね、高林さんのこと、何か聞いた?」
「あれから、ずっと休んでるのよ。何だか、熱が下がんないとか、連絡が来てるんですって」
「熱が?」
「さやかに振られたショックじゃないの」
「やめてよ、子供じゃあるまいし」
「川野さんも、苛《いら》立《だ》ってるみたい。しばらくは近寄らない方がいいかもよ」
「そうね」
さやかは、いささか気が重い。
ま、熱を出そうとどうしようと、高林は自業自得としても、あの時、少《ヽ》し《ヽ》強く言い過ぎたかな、とも思っていたのだ。
——共演者、監督、プロデューサー、といった面々が控室へ入って来て、急にざわつき始める。
「じゃ、会場を覗《のぞ》くね」
と、宏実が一《いつ》旦《たん》控室を出て行くと、入れかわりに、藤原が戻って来た。
「藤原さんがいないと心細いわ」
と、なつきは言った。
「大丈夫ですよ」
藤原は、そう言って、「あの——今日、ご主人は?」
「うちの主人? 来られないとか言ってたわ。仕事が忙しいんでしょ」
「そうですか」
「主人に何か?」
「いや、そうじゃないんです」
藤原は、気がとがめていたのだ。
自分が、なつきたちをこの世界へ連れて来た。そのせいで、もし、中沢竜一郎が本当に……。
確かに、なつきは、出歩くことも多くなったし、夜遅く帰ることも、珍しくない。夫としては、色々、面白くないこともあるだろう。
——俺《おれ》の責任だ、と藤原は思った。
何とかして、中沢家を、元の通りに戻してやらなければ。池原洋子との浮気が、誰にもばれないうちに、中沢竜一郎をいさめるのだ……。
「そろそろ時間ですので」
と、声がかかる。
「じゃ、行きましょう」
と、藤原は、なつきを促した。
さやかは、母について会場へ入ってみて、仰天した。
凄《すご》い人! 百人? いや、百人どころじゃない!
TVカメラ用のライトが当り、ストロボが光る。
カメラのシャッター音が、やかましいくらいだ。
指定された席につくと、司会者が、挨《あい》拶《さつ》を始めた。
わきに立っていた藤原は、長テーブルの前に下がった、名前を大きく書いた紙を見て、ギョッとした。
〈なつき〉と〈さやか〉の席が、入れ替っている。いや、紙の方を貼《は》るのが、間違えているのだ。
あわてて駆けて行って、紙を貼りかえると、集まった記者たちから、笑いが起きた。
しかし——間違えても、無理はない、と言えたかもしれない。
母と娘であっても、この日、並んだ二人の初々しい輝きは、いずれ劣《おと》らぬものがあったからだ。
なつきもさやかも、落ちついて、しっかりと挨拶を述べた。もちろん、二人とも、多少興奮していたのは確かである。
カメラの、押し寄せるようなシャッター音を聞きながら、二人の頬《ほお》は紅潮して、その微笑は、すばらしく美しかった……。