「何やってんのよ!」
と、空気をビリつかせるような声が飛んで来た。
さやかは、まずい、と思った。
演劇部の練習中である。——何といっても、川野雅子は副部長で、さやかとしては、言い返したりできる相手ではない。
しかも、今は確かに、さやかの方がぼんやりしていて、全然練習に身が入っていなかったのである。
ま、しょうがない。何と言われても、
「すみません」
と、謝っちゃうしかないや。
だが——川野雅子がツカツカと歩いて行ったのは、さやかに向ってではなかったのだ。
「そんな歩き方ってのがある? 何度言ったら分るのよ!」
と、凄《すご》い勢いで川野雅子が怒鳴りつけたのは、高林和也だったのだ。
「すみません」
と、高林は、汗をかきながら頭をかいている。
「あんたが無器用なのは分ってるけど、だからこそ、身を入れて練習しなきゃいけないんじゃないの」
「ええ……」
「一体何を考えてるのよ! 可愛《かわい》い女の子にでも見とれてたんでしょ」
高林は真っ赤になったが、何も言い返さなかった。
「——歩くことは演劇の基本よ! 分ってるわね!」
川野雅子の声はほとんどヒステリックなまでに高くなっていた……。
「気が重い」
と、さやかは言った。
「さやかのせいじゃないよ」
と、浜田宏実が言った。
「そう思う?」
訊《き》き返されると、そう断言もできない様子で、
「うん……。だって、仕方ないじゃないの」
練習も終って、二人は学校を出たところだった。
すっかり夏という感じ。——まだ充分に外は明るい。
「——先輩、お先に」
と、中学一年生の部員が、勢いよく二人を追い抜いて駆けて行った。
「さよなら」
と、さやかが言った時には、もうずっと先の方を走っていた……。
「元気だなあ、一年生は」
と、宏実は言った。
「いいわねえ、若くて」
——二人は顔を見合わせて噴き出した。
「やだね、すっかり年寄りじみて」
と、宏実が笑う。
「色々苦労も多いからね」
「——おい、楽しそうだな」
二人の肩をポンと叩《たた》いたのは、部長の石塚である。
「部長。早いですね」
「うん。どうだ、何か食ってくか」
「珍しい。おごってくれるんですか」
と、宏実が言うと、
「中沢と二人で腕組んで歩いていいなら、おごってやる」
「わあ、いいんですか、そんなことして」
「あそこでカメラマンが狙《ねら》ってるからな」
「え?」
さやかも、初めて気が付いた。——車が停《とま》っていて、その中から、望遠レンズが覗《のぞ》いている。
「いやねえ、全く」
と、さやかは顔をしかめた。
「な? 俺《おれ》と組んで歩いてるところを撮られたら、絶対写真週刊誌に載る」
どこまで本気なのか、石塚の言い方はカラッとして面白い。
「腕組むのはだめです」
と、さやかは言った。「でも、おごらせてあげます」
「そりゃないぜ」
と、石塚はオーバーに言って笑ったのだった……。
でも、もちろん結局はさやかの言う通りになって——三人は、山盛りのクリームアンミツだのくずもちだのに取り組むことになったのだった。
「——川野も、悪い奴《やつ》じゃないんだけどな」
と、石塚が言った。「すぐ周囲に当り散らすのが玉にキズだ」
キズだらけだ、と言いたいのを、さやかは何とかこらえた。
「でも、何で、あんなに高林さんに当るんだろ?」
と、宏美が言うと、
「そりゃ、中沢のせいさ」
と、石塚が言った。「知らないのか?」
「私の?」
さやかはびっくりした。「どうして私のせいなんですか」
「高林を振ったろ」
「振った、って……。それ以前の段階ですけど」
「高林、どうやら本気でお前に熱を上げてるらしい。それで、川野がますます苛《いら》立《だ》ってるってわけだ」
「可哀《かわい》そう」
と、宏美が言った。
「高林さんが? それとも私が?」
「両方よ、もちろん」
と、宏美はあわてて言った。
「——部長、何とかならないんですか」
「俺はそんなところまで目が届かない」
と、石塚は笑って言った。「しかし、中沢はこれから忙しくなるだろう」
「ええ……」
「川野さん、それも面白くないのよね」
と、宏美が言った。「絶対にそうだと思うな」
「そりゃ当然だ」
と、石塚は言った。「しかし、その気持をもろに出すかどうかは、大違いだからな」
「いやだわ、何だか」
と、さやかはため息をついた。「みんな私が悪いって感じで」
とは言いながら、さやかはよく食べていたのである。
「しかしなあ」
と、石塚が言った。「中沢、確かにきれいになったぞ」
「何ですか、いきなり」
「いや、本当だ。人に見られてるっていうのは、一番のホルモン剤なのかな」
「じゃ、前はひどかったんですか」
「垢《あか》抜《ぬ》けしてなかった。——ま、クリーナーでみがいた、ってとこかな」
「ガラス板じゃあるまいし」
「俺も立候補しようかな」
と、石塚は言った。
「え?」
「お前の恋人にだ。——どうだ?」
さやかはポカンとして石塚を眺めていたが、そのうち、声を上げて大笑いしてしまった。
「傷つくなあ、その笑い声は」
と、石塚が苦笑いして、「俺は本気だぞ」
「——部長。だって、私、まだ中学生ですよ!」
「しかし、俺は来年もう卒業だ。今から声かけとかないと、それきりじゃないか」
「それにしたって……」
「安心しろ、俺は高林や川野と違う。恋人だからって、いい役を回してやったりしないからな」
「何だ。それじゃやめた」
「こいつ!」
三人で大笑いになった。
——しかし、もちろん石塚も、冗談でこんなことを言っていたわけではないらしい。
さやかとしては、ありがたいような、困ったような話である。
石塚と別れて、宏美と二人になると……。
「——いいなあ、もてて、さやかは」
「こっちはそれどころじゃないのに」
と、さやかは渋い顔で言った。
「でも、悪い気はしないでしょ」
正直なところ、さやかには分らなかったのだ。
もちろんさやかも十五歳ともなれば、これまでに、ほのかな憧《あこが》れに胸をこがしたりしたことも、ないではない。
しかし、本当の意味で、「恋に身を焼いた」なんて経験があるわけではない。
高林も石塚も、その点では同じことだ。
ともかく、さやかにとっては、ずっとずっと遠い国での話に過ぎなかったのである……。
さし当りは、夏休みからの撮影がある。さやかの頭はそのことだけで一杯だった。