アパートへ帰った克子は、玄関を入って、
「——お兄さん」
と言った。「待ってたの?」
「ああ」
浩志は、さめたお茶を飲んでいるところだった。「勝手にいれて飲んでる」
靴を脱ぎながら、
「どこから出した、お茶の葉? 上等のは高い方の棚にしまってあるのよ」
「知らなかった」
「憶《おぼ》えといてね」
と、克子は上がって、「——もうじき朝ね」
「うん。——ゆかりは都内のホテルに泊まる。もちろん偽名で。記者会見も午後には開くと西脇さんが言ってた。邦子も待ってると言ったんだけど、明日の仕事で、寝不足が顔に出るとまずいだろ。帰って寝ろと言ったんだ」
「可哀《かわい》そうに」
と、克子はスーツを脱いで、息をついた。「ああ、肩がこった」
「何が可哀そうだ?」
「邦子さん。ゆかりさんもだけど。——お兄さんがどっちにも手を出さないもんだから……」
「その話はよせ」
と、浩志は目をそらした。「何しに行ったんだ、お前?」
「話をしによ」
「財界の大物に何の話があったんだ?」
「ゆかりさんのこと、頼んで来たの」
「頼むって……」
克子の話を聞いて、浩志はびっくりした。「——それで夜中の三時に、黒木竜弘を叩《たた》き起こしたのか」
「そう。偉い人ね。怒りもしないで、ちゃんと聞いてくれたわ」
「そうか……。しかし、いくら黒木でも、あの記事はどうすることもできないさ」
「でも、もし……。もちろん、大きすぎる期待を持っちゃいけないけどね」
克子は下着姿で畳に座り込んだ。「疲れたわ。こんな時間にお風《ふ》呂《ろ》にも入れないし」
「寝ろよ。明日は休めばいい」
「お兄さんは?」
「仕事がある」
「私にだってあるのよ」
浩志はちょっと笑って、
「お前も損な性分だよな」
と言った。
「お互い様でしょ」
と、克子が言い返す。「さ、帰って。レディがおやすみになるんですからね」
「分かった」
浩志は、立ち上がって、「鍵《かぎ》は俺《おれ》がかけるから」
「チェーンもかけるの。女の一人暮らしですからね」
浩志が靴をはくのを、克子は立ってじっと見ていた。
「じゃ、何かあったら連絡する」
と、浩志が言って、玄関のドアを開けようとした。
「お兄さん」
「うん?」
浩志は振り向いた。
「お父さんのこと、何とかしなきゃ」
浩志は、ちょっと目を伏せて、
「ああ……。しかし、どうすりゃいいんだ?」
「もし、これをゆかりさんがうまくのり切ったとしても、また何か起こるわ。——私とお兄さんで、何とかしなきゃ」
「お前はもういい。充分にやれることはやったよ」
浩志は、妹の手を軽く握った。「後は俺に任せろ」
「うん……。ともかく、今夜は寝るね」
「今朝だ。もう明るくなりかけてるぞ。早く寝ろよ」
「おやすみ。気を付けて」
克子は、兄の足音が——迷惑にならないよう、極力用心していたが——小さくなるのをしばらく聞いてから、ドアのロックをし、チェーンをかけた。
風呂に入らずに寝るにしても、最小限、やらなくてはならないことがある。
二十分ほどして、やっと布団に潜り込んだ。
布団は冷たかった。——じっと身を縮めて、体温が布団の中にたまるのを待つ。
馬《ば》鹿《か》なことをしたのだろうか?
翔とのこと……。いや、まだ翔当人には話していない。黒木竜弘との話で疲れはてて、とてもそこまで一気にやる元気がなかった。
しかし、父親の方へはもう話してしまったのだ。今さら取り消すことはできない。
兄にもそのことは言わなかったが、兄は斉木のことも知っている。翔との仲が、普通に進むとは思っていまい。
布団に顔の半ばを埋めながら、いくらしっかり目を閉じても、眠りは訪れなかった。
——いっそ、ずっと起きていようか。少なくとも、こうして横になっていれば、体は休まる……。
独りで、眠れぬ夜を過ごすときには、克子はいつも思い出す。兄と二人、東京へ出て来たころの日々を。あのころも、十四歳の克子は、夜、よく眠れなくて泣いたものだ。
しかし、兄に甘えることはできなかった。十八歳の兄は、必死で働いていて、いつも疲れきって眠っていたからだ。
そのいくつもの夜が、克子を大人にした。誰《だれ》にも頼らずに生きて行くこと。それが、克子の「信条」になった……。
それは疲れる生き方ではあった。時として、何もかも振り捨てて、平和な、当たり前の暮らしへ身を委《ゆだ》ねたいと思うこともある。でも——そう。「当たり前の暮らし」など、この世には存在しないのである……。
出社はしたものの、午前中、克子は頭痛がして、ほとんど仕事にならなかった。
一睡もしていないのだから当然といえば当然かもしれない。それに、ゆうべの黒木竜弘との話で、すっかりくたびれてしまっていたし……。
それでも、のろのろと仕事は進んだ。休むよりはいい。——休みを取ることを「犯罪」のようにみなしているという、古い体質の会社である。頭が痛いくらいで早退などしようものなら、上役からくどくどお説教されるのがおちだ。
時間はゆっくりと過ぎて行った。——早く昼休みにならないだろうか。
克子はそっと腕時計を覗《のぞ》いては、ため息をついた。——壁の時計を見上げたりしていたら、上司にジロッとにらまれるに決まっている。
目の疲れもあってか、こめかみ辺りの頭痛はきりきりとねじ込むように続いて、克子を苦しめた。こんなものと、おさらばできたら、どんなにさっぱりするだろう、と思うことがある。
いや、ゆうべ徹夜したのは「自分の都合」で、今日、きちんと仕事をしなければならないということは、分かっている。堪えられないのは、「思いやり」というもののかけらもない、この職場の空気だった。
前に、三十過ぎの女性が、生理痛がひどくて早退させてくれと言ったとき、いつもしかめっつらをしている上司が、
「女はしょうがねえな、全く!」
と、吐き捨てるように言った。
その口調が今も克子の耳にこびりついている。
その女性は間もなく辞めて行って、その上司は、
「女はすぐ辞めるからな」
と、ブツブツ言っていたものだ。
克子は、そんな上司の姿に、「父」の身勝手な生き方を重ねていた。——男なんて、こんなもんだ。
もちろん、兄のような男もいるし、斉木のような男もいる。——黒木翔のような男も?
ちょっと微笑《ほほえ》んでみる。翔は「男」というより、「男の子」だ。
でも、翔のような世代の男の子たちが、本当の思いやりの心を持った男になってくれたら……。そうなったら、少しは世の中も変わって来るのかもしれないが。
やっと十一時になった。克子は、ちょっと息をついて、さめ切ったお茶を一口飲んだ。
電話が鳴る。
「——はい。——あ、すみません。——もしもし」
「克子か」
「どうしたの?」
兄からだ。私用電話をいやがるこの職場のことを知っていてかけて来たのだから、よほどのことだろう。ゆかりのことで、何かあったのだろうか。克子は緊張した。
「何かあったの?」
と、克子は少し低い声で言って、受話器を握りしめた。
「今、ゆかりのプロダクションの西脇さんから電話があったんだ」
浩志の声は明るかった。「午後三時からホテルKで記者会見をやるって。西脇さん、仰天してたぞ。今朝、黒木竜弘からいきなり電話がかかって来たって」
「黒木さんが?」
「ゆかりを、黒木グループのイメージガールにする、と言って来たそうだ。当人は今日午後ニューヨークへ発《た》つので、専務が代理で、その記者会見に出て発表するということだったよ」
克子は言葉が出なかった。——信じられない。夢を見ているのじゃないかしら?
「もしもし。克子、聞いてるのか?」
「うん……」
「黒木さんが、事情を説明したらしい。西脇さんが、お前のとこへ改めてお礼にうかがうと言ってた」
「そんなこと——いいのに」
「よくやってくれたな。ありがとう」
と、浩志が言った。「お前——」
「うん?」
「いや……。またゆっくり話そう。ともかく知らせてやりたくて」
「良かったね、ゆかりさん」
「ああ、本当にな。国枝の奴《やつ》、歯ぎしりして悔しがるだろう」
と、浩志は笑った。「お前に借りができたな」
「そうよ。利子、高いからね」
と言ってやりながら、克子の目から涙がこぼれて頬をスッと落ちて行く。
そのくすぐったさが、快かった。
「お兄さん、記者会見、見に行くの?」
「仕事があるよ」
と、浩志は言って、「ま、たまたま外出して、近くを通りかかりゃ別だ」
克子はちょっと笑って、
「こら、さぼり屋め」
と、言った。「後で聞かせて」
「ああ。仕事中に、悪かったな」
「いいの。嬉《うれ》しかった。じゃあ」
電話を切ると、克子の気持ちは、まるで翼が生えてどこかへ飛んで行く感じだった。
苦々しい顔でにらんでいる上司の視線など気にもならない。
午後からニューヨークへ……。間に合うだろうか?
克子は財布からテレホンカードを取り出して、席を立った。このままでは、あまりに恩知らずになる。
克子は足早に会社を出た。後で皮肉の一つも言われるかもしれないが、構うものか!
克子の足どりは飛びはねるようで——頭痛などどこかへふっとんで行ってしまっている……。
わざわざ表に出て、少し離れたショッピングビルの中の公衆電話を使うことにする。
克子は、翔の部屋の番号を押した。
「——もしもし」
少したって、眠そうな翔の声が聞こえて来た。
「翔君? 石巻克子よ」
「あ、克子さん! おはようって……、昼か、もう」
克子はふき出して、
「ゆうべはごめんなさい。お父様、もう出られた?」
「待って下さいね」
ドタドタと音が聞こえる。あわててベッドから飛び出して行ったのだろう。何しろ克子のアパートとは違って広いのである。
少し間が空いて、
「待たせてごめんなさい」
と、翔がハアハア言いながら、「もう出ちゃったそうです。でも、たぶん成田へ向かってるところだと思うんで、車へ電話できますよ」
「じゃあ、番号を教えてくれる? 待ってね」
克子は電話のわきのメモ用紙に、車の電話番号をメモした。
「克子さん」
「え?」
「父にばっかり電話しないで、僕にもかけて下さいよ」
翔の言い方に、克子は思わず笑ってしまった。
「はいはい。これがすんだら、かけるわ」
「約束ですよ。待ってますからね」
「かしこまりました」
と、克子は少しおどけて、言った。
車へかけると、すぐに男の声が出た。
「——黒木さんとお話ししたいんですが。石巻克子と申します」
すぐに黒木の声が、
「やあ、よく分かりましたな」
と、飛び出して来た。「翔の奴《やつ》が教えたんですね」
「あの——何て申し上げていいか。本当にありがとうございました。さっき兄から連絡が……。ありがとうございました」
いざ話そうとすると、こんな当たり前の言葉しか出て来ないのが、もどかしかった。
「いや、そう決めたらすぐ実行できるのが、ワンマン企業のいいところでね」
と、黒木は楽しげに言った。「まあ、詳しいことは、ニューヨークから戻って、また相談しますよ。四、五日で戻ります」
「あんな無茶なお願いを聞いて下さって……。夢じゃないかと思いました、兄の話を聞いて」
黒木は、少し静かな声になって、
「もう、あんたも父親から振り回されないようにしなくちゃいけない。分かりますか? 父親のしたことを、自分のせいだなどと思わんことです」
克子には、黒木の言葉のやさしさが身にしみた。
「苦労すると、人は二通りに分かれる。この苦労を人に味わわせたくないと思う人間と、他人も一緒に不幸にしてやれ、と思う奴とね」
と、黒木竜弘は言った。「私はどっちかというと、後の方かもしれん」
「そんなこと……」
「いや、社員にとっちゃ、ケチでいやな経営者ですよ。しかし、翔の奴を見ていると、少しは考え直さなきゃいかんな、と思えて来る。あんたもそうです。自分のためでもないことに、あそこまで命をかけられる人間は、そういない」
「黒木さん——」
「今、仕事中でしょう」
「はい。でも、ともかくお礼を申し上げなくては、と……。叱《しか》られるのは慣れていますから」
と、克子は言った。
「どうです。うちの社で働きませんか」
「は?」
「いや、秘書室はいつも手が足らなくて困っている状態でね。というより、役に立つ人間が少なすぎる。もしあんたがよければ——」
「でも……」
と、克子はためらって、「翔君のことがあります。いつまでもズルズルと——」
「男と女のことは分からんもんですよ」
と、黒木は言って、「——ああ、分かった」
車の中の誰《だれ》かに答えたのだろう。
「もうじき空港へ着くのでね。では、また帰ったら昼飯でも付き合って下さい」
「黒木さん——」
「今日のお礼に。そう言えば断れんでしょう?」
そう言って、黒木は笑った。「それでは」
「行ってらっしゃい。お気を付けて」
克子は電話なのに、頭さえ下げていた。
会社へ戻る道が、いつもとまるで違う光景に見えた。
いや、黒木の言葉に甘えることはできない。翔との間をはっきり終わらせようとすれば、黒木の所で働くなど、とんでもないことである。
むしろ今、克子の心を弾ませているのは、黒木が克子の生き方について言った言葉の方だった。
——克子は、いつも自分が何か悪いことをして来たような、そんな後ろめたさを抱いて生きて来た。
不思議なことだが、人は辛い目に遭うと、それが「自分のせい」だと思ってしまうことがある。何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に遭うのか、と嘆いている内、こんなことになったのは自分が何かしたからに違いない、と考え始める。
貧しい人、病苦に悩む人が、世の中を恨むより自分を恨んで、閉じこもってしまう気持ちが、克子にはよく分かった。
会社の席に戻ると、上司が何か言いたげに克子をにらんだが、克子の方では無視してさっさと仕事を始める。
その内、上司の方もタイミングを失って、黙ってしまう。克子は笑ってやりたい気分だった。
——確かに、克子も斉木と不倫の恋をしている、という点では、「罪」を犯しているのかもしれないが、黒木の言葉は克子の重苦しい人生に窓を開けてくれたようだった。
それは黒木が金持ちだからとか、実力者だからではなく、「人生の先輩」だからである。
そう。黒木が帰国したら、お昼ぐらいは付き合わなくてはならないだろう。——もちろんこっちがごちそうになるのだ。文句をつける筋はない。
「あ、いけない」
と、思わず声に出して言った。
翔に電話するのを忘れてた!
「——もしもし。翔君?」
昼休み。外へ出てから急いで翔の部屋へかけたものの、向こうは何も言わない……。
「翔君? 怒ってる? ごめんね。つい忘れちゃって。——ね、そう怒らないで何か言ってよ」
すると、何やらクスクス笑う声が聞こえて来て、
「石巻さんでしょ。私、久保泉」
「ああ! 何だ」
あのパーティーで会った、翔の従妹である。
「翔君、今、下でお食事中」
「そう。じゃ、後でまたかけるわ」
「指のけが、どうですか」
「ええ、もう何とも。あなた……遊びに来てるの?」
「大学、創立記念日で休みなの」
と、泉は言った。「さぼってんじゃないんですよ」
「いいわね、学生さんは」
と、克子は笑って言った。
「克子さん」
「え?」
「あんまり翔君におあずけ食わしてちゃ可哀そうよ。見るも哀れにやせ細って——」
「まさか」
「ま、あんだけ食欲ありゃ大丈夫だけど」
「私も、貴重なお昼休みで、お腹ペコペコなの。後で、またかけるって伝えてくれる?」
「言っときます。『おあずけ!』って」
そう言って、泉は笑った。
——克子は昼休みで混雑するラーメン屋へ入って、席が空くのを、並んで待っていた。
TVが点《つ》いている。お昼のワイドショーとかいう類の番組だろう。
ちょうどゆかりの写真が出ている。克子はふと、その写真へと笑いかけていた。