「何考えてるんです?」
と、黒木翔が言った。
「え?」
聞こえているくせに、そう訊《き》き返す。——考える時間がほしいのだ。
口をすべらして、人に笑われてはいけない。いつもいつも、克子はそう思って、生きて来た。
「何も……。ただ、あなたのお父様に申しわけなくって」
「親《おや》父《じ》は今、ニューヨークですよ」
翔は、ワインを飲んでいた。——ワインの選び方が、さまになっている。
レストランが、決して固苦しくない、雰囲気のいい店なので、それだけ克子としては、やりにくい。
「親父に約束したからですか」
と、翔が言った。「僕ともう会わないって」
克子は、食事の手を止めた。
「——聞いたの?」
「聞いてました。——だって、気になるでしょ、僕だけ出てろ、なんて」
「でも——」
「居間の電話、マイクがついてるんです。隣で聞けます」
「まあ」
克子は、そう言って、「じゃあ——聞いたでしょ、私の話、全部」
「聞きました」
翔は肯《うなず》いて、「その人のこと、愛してるんですか」
斉木とは、このところ会っていない。何があったのか、電話しても、忙しいと言って出てくれないことがあった。
「たぶんね」
と、克子は言った。「言えば、あなたが傷つくと思って、黙ってたの。ごめんなさい」
翔は、ちょっと微笑《ほほえ》んで、
「あんまり子供扱いしないで下さい。同じ年齢ですよ」
と、言った。
「そうね。——つい、忘れちゃう」
と、克子も笑《え》顔《がお》になった。
「僕は構いません」
「構わない、って……」
「その人と、克子さんがいつまでも続いたとしても。僕の気持ちは変わりません」
何てロマンチックな!
でも、そんなの幻よ。男と女の間はもっともっとドロドロしていて、散文的で、現実的で——。
でも、今の翔にそんなことを言って、何になるだろう?
「僕と付き合ってるのが、あなたの負担になるのなら……」
「そうじゃないわ。そうじゃない。楽しいのよ。本当よ」
克子は、つい早口にそう言ってしまってから、自分でもびっくりしていた。
「口をすべらしましたね」
と、翔は嬉《うれ》しそうに言った。「僕と付き合って楽しいって。今さらそうじゃないなんて言ってもだめですよ」
克子は仕方なく笑った。
「本当に、しょうのない坊っちゃんね」
「何とでも。こう見えても、僕、しつこいんです。克子さんに食らいついて離れませんからね」
翔はますます食欲が出た様子で、デザートをワゴンから何と三品も取って、克子を呆《あき》れさせた。
「負けないからね」
と、克子も三品。
どっちが子供? 克子は笑いながら、そう考えていた。
「大学をちゃんと出て。それからお勤めして。その後で、私にプロポーズしてちょうだいね」
と、克子はデザートを食べながら言った。「まだ若いのよ。それを忘れないで」
「克子さんもですよ」
「はいはい」
楽しいやりとりだ。
しかし——TVの中の恋人たちとは違う。
いつも、TVの恋愛ものとか見ていて、克子は不思議でならない。この人たちには、親とか兄弟とか、親《しん》戚《せき》とかはいないのかしら、と思うのである。
親戚の中には、たいてい一人や二人はみんなから眉《まゆ》をひそめられている人がいる。それでも、結婚式とか葬式とかになれば、いやでも顔を合わさずにはいない。
それにドラマに出て来るビジネスマンやOLたちの、暇そうなこと。いつ働いているんだろう、と思う。しかも小ぎれいな職場で、帰りにも腰が冷えたとか爪《つま》先《さき》がしびれるというグチも出ない。
まあ、ドラマはドラマ。それでもいい。
二枚目が不精ひげにトロンとした目で出て来たらがっかりだろうし、美人OLがアパートの階段で手すりに寄りかかったまま酔って居眠り、じゃ夢がなさすぎる。
でも、克子はそんなものが人生だと思っている。——それを「見っともない」とは思いたくないのだ。
それを言えば、今、こうして翔と二人で食事している風景は、あたかもトレンディーなドラマである。
現実ではない。夢なのだ。
夢……。私は翔が好きなのだろうか?
翔と二人でいる「夢」を見るほどに、心ひかれているのか。
克子には分からなかった。——ただ、分かっているのは、翔には父も、母も、叔母もあり、数え切れないくらいの親戚がいるはずだ、ということだった。
それが、克子の前の「現実」なのである。
外は寒かった。
風が、身を切るようだ。——翔がハイヤーを呼んでくれて、アパートまで送ってくれることになった。
「——親父が、帰ったら克子さんとデートするって言ってました」
「え?」
克子が面食らって、「ああ。——お昼でも、っておっしゃったのよ。成田へ行く車との電話で。デートだなんて、そんな」
と笑う。
「だめですよ、親父の方へ浮気しちゃ」
「結婚もしてないのに浮気になるの?」
「なります」
と、翔が大真面目《まじめ》に言った。
ハイヤーは夜の町を滑らかに駆け抜けて行く。——翔が克子の手を握って、克子の方も、そのままにさせておいた……。
「——そこがアパート」
と、克子は言った。「アパートの人がこの車を見たら、目を回すわ」
ハイヤーが停《と》まる。
「どうもありがとう」
「部屋まで送ります」
と、翔は言った。
たぶん、そう言うと思っていた。いけない、と断らなくては。女一人の部屋なのだ。
「じゃ、部屋の前まで」
「分かりました」
少し先に行って待つように、翔は運転手に言った。
「——静かにね。足音たてないで」
と、低い声で注意する。「あなたの家とは違うの」
「空気より軽くなりますよ」
と、翔は言った。
——部屋の前まで来ると、克子は、
「じゃ、ここで」
と、小さな声で言った。「おやすみなさい」
「入れて下さい」
「だめ」
「ハイヤーが待ってるんだ。すぐ帰りますから。ね?」
克子は、翔を中へ入れた。——なぜだろう。頭と体が別々になってしまったように、翔の言う通りにしている。
「片付いてないわよ」
と、克子は明かりを点《つ》け、「寒いでしょ。ストーブをつけて、あったまるまで、コート着たままでいるの。あなたには想像のつかない暮らしでしょ」
カチャカチャ音をたてて、石油ストーブを点ける。黄色い炎が、輪を描いた。
「翔君、もう——」
向き直った克子を、翔が力をこめて抱いた。
克子は、じっとしていた。コート着たままのラブシーンなんて……。でも、それは克子が知る、初めての安心感、後ろめたさのない抱擁だった……。
「だめよ、翔君」
と、押し戻すには、自分でも思いがけないほどの努力が必要だった。
「何もしてませんよ、僕」
翔が心外という顔で、「寒いから、あっためてあげただけです」
「悪い子だ」
と、克子は笑った。「じゃあ……」
二人の唇が重なった。それは、まるで初恋の思い出のように、克子の心をときめかせた……。
そのとき、電話が鳴った。
「邪魔だな」
と、翔が言った。
「兄からよ、きっと」
「もし、彼からだったら?」
翔の問いに、克子はちょっと詰まった。
「——誰《だれ》からでも、関係ないわ。早く出なくちゃね」
克子が受話器を取る。「——もしもし」
少しの間、向こうは何も言わなかった。
「どなたですか?」
いたずらか、と思いかけたとき、
「兄貴にプレゼントがある」
と、男の声が言った。
「え?」
「兄貴へ渡しとけ。今、お前のアパートの前に置いてある」
「何のことです」
「いいから、見りゃ分かる。車のトランクを開けてみるんだな」
低い笑い声を残して、電話は切れた。
「——どうしたんですか?」
と、翔が訊く。
「翔君。ちょっとアパートの前を見て来てくれる? 車があるかどうか」
「車?」
翔が部屋を出て行き、またすぐに戻って来た。
そっとドアを閉めて、
「車が一台、停《と》まってます。誰も乗ってないみたいだけど」
「そう……」
克子は兄のアパートへ電話した。「——お兄さん? あのね、今、妙な電話が……」
克子の話を聞いて、浩志は、
「プレゼント、と言ったのか?」
「ええ。心当たり、ある?」
「ゆかりの記者会見の帰りに、国枝の所の奴《やつ》に会ったんだ。プレゼントがある、と言ってた」
「何かしら? 車のトランクを見ろって」
「分からないが……。下手に開けるな。危険かもしれない」
「でも——どうする?」
「これからそっちへ行く。一人だろ?」
克子は少し迷ってから、
「あの……黒木翔君が一緒なの。送って来てもらって」
と、言った。
「そうか。じゃ、ついててもらえ。用心に越したことはない」
と、浩志は言った。「すぐ出るからな」
「うん。分かった」
克子は電話を切って、翔の方を見た。
「例の暴力団の?」
と、翔が克子のわきにかがみ込む。
「そう。——車のトランクに何か入れて寄こしたのよ」
「開けてみましょうか」
「やめて!」
克子は翔の腕をつかんだ。「もし——危険なものだったらどうするの」
「でも……。それじゃ一一〇番しましょうか」
克子も、どうしたものか分からなかった。
「ともかく——今、兄が来るわ。ね、それまでここにいてくれる?」
翔は克子の肩を抱いた。
「いろと言われたら、いつまでだって、いますよ」
「ありがとう……。でも、こんな風に、あの連中は諦《あきら》めないで、いやがらせをして来たりするわ。あなたに迷惑がかかる」
「また、すぐそういうこと言って」
翔が口を尖《とが》らすと、「怒りますよ」
「あなたが怒っても、ちっとも怖くない」
克子はつい笑っていた。——そして、翔の肩に頭をもたせかけていたが……。
「車、見て来るわ」
「危ないって——」
「トランクを開けなきゃいいんでしょ」
「じゃ、僕も行きます」
「ええ。お願い」
二人は部屋を出ると、足音をたてないように用心しながら、一階へ下りた。
——車は、ごくありふれた中型の乗用車。大分古い型のようだ。
克子は、風の冷たさに首をすぼめつつ、車の中を覗《のぞ》き込んだ。もちろん人の姿もないし、何か仕掛けがしてあるとも見えない。
「盗まれた車かもしれないな」
と、翔が言った。「ずいぶん古いでしょう。ろくに手入れもしてない」
「そうね」
トランク……。トランクに何を入れてあるというのだろう。
克子は、そっとトランクの方に回ってみた。
「危ないですよ」
「ええ。でも——」
と、言いかけて、「今……何か聞こえなかった?」
「え?」
「何か……動いてる音が」
風の音か、気のせいか、とも思ったが、そのとき、またガサガサと何かこすれるような音が、トランクの中から聞こえて来た。
「確かに音がしてる」
と、翔が言った。「開けてみましょう。大丈夫ですよ」
「でも……」
克子はためらっていた。
トランクの中に何が入っているのか。開けてみて、翔にでも万一のことがあったら……。
「声がする」
と、翔がトランクを軽く叩《たた》いてみて、言った。
「え?」
「本当です。呻《うめ》き声みたいな……」
克子は、心を決めた。
「私が開けるわ。でも、どこで開けるのかしら」
「たぶん運転席の方にロックを外すボタンが——」
翔が運転席のドアの内側をいじると、ガタッと音がして、トランクのふたが少し持ち上がった。克子は、ちょっと息を吸い込んで、ふたを大きく上げた。
「気を付けて!」
と、翔が言った。
街灯の明かりが、毛布に包まれたものを照らし出した。——人だ。動いている。
「誰《だれ》かが——」
克子が手を出せずにいると、翔が近寄ってパッと毛布をめくった。
克子は短い悲鳴を上げた。
浩志は、車を停めた。
顔から血の気がひく。救急車が克子のアパートの前に停まっていたのだ。
何があったのだろう? もしかして、克子に何か——。
「お兄さん!」
捜すより早く、克子が救急車のそばから駆けて来て、しっかりと抱きついて来る。
「どうした! 大丈夫なのか?」
「怖かった……」
克子は身震いした。寒さのせいではない。
「どうなってるんだ」
「中を見たの。トランクを開けて。中に……お父さんが……」
「何だって?」
「今、救急車に——」
浩志は、急いで歩いて行った。
「すぐ運びますが」
と、救急隊員が言った。「知り合いの方?」
「息子です」
中を覗《のぞ》き込んで、浩志は膝《ひざ》が震えた。
膨れ上がった顔、あざだらけの父が、横たわっていた。鼻血が乾いて、口の周りにこびりついている。呼吸も苦しげだった。
「——ひどく殴られたりけられたりしたんでしょうね」
と、救急隊員が言った。「全身、あざだらけですよ。裸にして縛り上げて……。肋《ろつ》骨《こつ》が折れてるかもしれない」
「警察には?」
「連絡しました。もう来るでしょう」
浩志は、思わず目を閉じていた。
「お兄さん……」
「克子。悪いが、お前、一緒に乗っていってくれ。俺《おれ》は警察の人に話をしなくちゃいけない」
「分かったわ」
克子は、青ざめてはいたが、しっかりと肯《うなず》いた。「でも、どうしてこんなことに……」
「親《おや》父《じ》が、結局何の役にも立たないと分かったんだ。だから、返してよこした。見せしめに……」
「ひどいことして」
克子は、コートのえりを立てた。
「ああ。——たぶん、親父も相当勝手なことを言ってたんだろう。しかし、こんなことに……」
浩志は、ふと気付いて、「黒木さんの息子は?」
「救急車が来るのを見てから、帰ってもらったわ。名前が出ると、困るでしょう」
「そうだな」
浩志は肯いた。
パトカーがやって来るのが見えた。
「ニュースになるわね、きっと」
「仕方ないだろう」
「でも——自業自得だわ。同情しないわよ、私」
克子は、今の恐怖を克服しようとするかのように、キュッと眉を寄せ、厳しい口調で言った。
「もちろんだ。俺たちがやったわけじゃないさ。——しかし、黙って行かせるわけにもいかない。病院の方で困るだろうからな」
「ええ……。分かってるわ」
「しっかりしろよ」
浩志は、妹の肩をギュッとつかんで言った。
「——通報した人は?」
と、警官が足早にやって来た。
それにしても……何という連中だ。
浩志は、体が震え出すのを、必死で止めなくてはならなかった。父のあの様子を見たら——。
もちろん、国枝の所の手下たちがやったに決まっているが、それを証明するのはむずかしいだろう。父自身が、怯《おび》えて証言をしないだろうし、この中古らしい車から、国枝へ直接つながる手がかりが出るとは思えない。その辺、抜かりのない連中なのだ。
父をあんなことに利用しようとし、失敗すると、容赦なく「借りを返させる」やり方。——克子の言う通り、これがいわば父が自ら招いた結果であることも、浩志は承知している。
だからといって、自分は全く無関係だとは言えない。これはいわば国枝の「予告」なのだ。
本当なら、浩志が、父のような目に遭う立場なのである。
救急車のサイレンが、夜の冷気の中を、遠ざかって行った。