「こちらでございます」
レストランのマネージャーが、浩志を個室へ案内してくれる。
「どうも……」
「お連れ様は、少し遅れてみえるとのことでした」
「そうですか」
「何かお飲み物でも」
「じゃあ……オレンジジュースを」
「かしこまりました」
個室で一人になると、浩志は欠伸《あくび》をした。
おしぼりが出ているので、それで、顔を拭《ふ》く。少しさっぱりした。
ひどく疲れている。——西脇が、夕食の席を用意してくれたのが、気分的にずいぶんありがたかった。
「こちらでございます」
と、マネージャーが案内して来て、浩志は振り返ったが——。
「ゆかり!」
と、目を丸くする。
「邦子も一緒よ」
と、ゆかりがいたずらっぽく笑った。
「オス、浩志」
邦子が、ラフなジーパン姿で入って来る。ゆかりが、そのままステージにも出られそうな衣《い》裳《しよう》なのと対照的だ。
「二人とも……。いいのか、仕事は?」
と、浩志は当惑しつつ言った。
「今日はね、浩志を励ます会」
と、邦子が言った。「私たちの、いつもの恩返しよ」
「その口実で、社長におごらせる、と」
と、ゆかりは笑った。「ね、何か飲もう」
「うん!」
浩志は、二人の気持ちをありがたく受けることにした。——この一週間、ほとんど安眠していない。
「少しは落ちついた?」
と、邦子が訊《き》いた。
「少しね。まだアパートへ帰ると、何人かは週刊誌の記者が待ってるんだ。君たちの気分を少し味わったよ。——ま、克子の方へはほとんど行ってないようで、それは助かってるけどね」
あのゆかりの記事を語った、浩志の父親が私刑《リンチ》を受けて重傷。——正に格好のネタである。
「お父さん、どう?」
浩志は苦笑して、
「どうもこうも……。僕と克子を恨んで、文句ばっかり言ってるようだ。病院の方でも、気をつかって、マスコミの人間はシャットアウトしてくれてる。西脇さんのおかげだよ」
「でも、変よね。恨むなら、国枝を恨めばいいのに」
と、ゆかりが言った。
「そこが、妙な心理だよな。散々勝手をしても、自分のしたことは忘れて、こっちを恩知らず、とののしってる」
と、浩志は肩をすくめた。
「お父さん、けがの方はどうなの?」
と、邦子がシェリーを飲みながら訊く。
「国枝もプロだな。散々痛めつけてはいるけど、内臓をやられたり、骨折させたりして、命を危うくさせるところまではやっていないんだ」
「じゃ、大宮さんのときよりはましね」
「ああ。そう長く入院していなくても大丈夫だろう。——その後のことを考えると、頭が痛いがね」
と、浩志はオレンジジュース。
しかし、浩志がホッとしているのは、父のことが、あれこれニュースにはなったものの、ゆかりへの影響が出なかったということ。
あの件は、黒木竜弘の決断で、すっかりけりがついてしまったのだ。
「黒木さんから、うちの社長さんに電話があったのよ」
と、ゆかりが言った。「今週から、具体的な宣伝会議があるから、一度出席してくれって。本人が出ると、インパクトがあるんですって」
「そりゃそうよ」
と、邦子が言った。「反対する奴《やつ》はいなくなる」
「楽しみだな、どんなポスターやCFができるか。——邦子も、映画のキャンペーンがあるんだろ?」
「最終的なタイトルが、やっと〈風の葬列〉に決まったの。プロダクションの方もホッとしてるわ。何しろタイトルなしじゃ、宣伝のしようもないしね」
「そうか。大当たりするといいな」
「ギャラは同じだけどね」
と、邦子は笑った。
「じゃ、食事を始めてもらうか?」
「もう少し待って」
と、ゆかりが言った。
「まだ誰《だれ》か来るのかい?」
と、浩志が言ったとたん、
「あ、お兄さん」
と、克子が入って来た。
「何だ、お前も呼ばれてたのか」
「西脇さんから、この前のお礼ですって言われて……。たまにはこういうお店も悪くないわね」
「自分で払わなきゃな」
と、浩志が言ったので、みんな大笑いした。
「——あと一人」
と、邦子が言った。「あ、来たみたい」
「誰が?」
克子も面食らっている。そこへ、
「遅くなりました」
「——翔君!」
克子は唖《あ》然《ぜん》とした。
「凄いなあ、美人がズラッと並んで」
翔が楽しげに言って、個室の中へ入って来ると、コートを脱いだ。
「ごめんね、黙ってて」
と、ゆかりが言った。「邦子と二人でね、話したの。この席に、男が浩志一人じゃ、可哀《かわい》そうだって」
「でも……」
克子は、少し照れている。——翔の方は、何しろゆかりと邦子、二人のスターを前にして、少々舞い上がっていた。
「翔君」
と、克子は言った。「何かあなたやお父様の方に、迷惑はかかってない?」
翔は——ゆかりたちの方を見ていて、よく聞いていなかった。
「——え? あ……あの、そうですね、本当に」
と、あわてて言う。
「何よ! こっちの言うこと、聞きもしないで」
克子は真っ赤になって、プーッとふくれてしまった。「私がいない方がいいんじゃないの?」
「そんなことないですよ! ごめんなさい! この通りです」
と頭を下げるので、浩志は笑い出して、
「克子、無理言うなよ。この二人に気をとられるのが当たり前さ」
「お兄さんは黙ってて」
と、克子は言い返した。「これは私と翔君の問題なの」
「でも……そんな仲なんだ」
と、邦子が言った。「良かったね」
「そんな仲って……。別にどんな仲でもないわよ。ねえ」
「そうです……ね」
翔が、妙なところで言葉を切ったので、みんな大笑いした。
いい雰囲気だった。——父の事件以来、疲れ切っていた浩志も、救われたような気がした。
食事は、にぎやかだった。
何しろ、ゆかりと邦子の語る「芸能界裏話」だけでも、大いに盛り上がる。——もちろん、浩志は専ら聞き役になって、克子と翔の様子を時々眺めていた。
克子も、この若者にひかれている。
浩志は、克子の目に、今まであまり見たことのない輝きを見付けた。それは、あまりにも遅すぎたかもしれないが、克子にとっては、やっと訪れた「青春」の輝きなのかもしれなかった。
斉木という男との間がどうなったのか、気になってはいるが、それは浩志が口を出すことではないだろう。
ともかく今は——克子自身にとっても、意外なことなのかもしれなかったが——このいかにも世間知らずの坊っちゃんに、克子は恋し始めているのだ。
「ねえ」
と、ゆかりが言った。「克子ちゃん、いつごろ式を挙げるの?」
克子が真っ赤になって、
「突然、式を挙げるなんて言わないで!」
と、チラッと翔の方を見た。「まだ婚約したわけでもないのに」
「僕はいつだっていいんですけど」
と、翔の方は涼しい顔をしている。
「何言ってるの。あなたは学生でしょ」
と、克子は何とか立ち直った。「まず勉強よ」
「でも、婚約くらいいいんじゃない?」
と、ゆかりが言った。「ねえ、邦子」
「そうそう。——いやになりゃ取り消せるんだし」
と、邦子がとぼけた顔で言う。
「TVの録画予約じゃあるまいし」
と、ゆかりが笑った。「私、あれ絶対にできないの。TVに出てるくせしてね」
「そんなことより……。もういいんじゃない?」
「そうね。食事も、次はメインの料理か。この辺で?」
ゆかりと邦子が何を考えているのか……。浩志も見当がつかない。
「——克子ちゃん」
と、ゆかりが言った。「勝手なことして、ごめんなさい」
「え?」
邦子が、バッグから、何か小さな箱をとり出した。
「これ。——克子ちゃんにぴったりのはずなの」
指《ゆび》環《わ》。克子は、胸をつかれたように、絶句して、翔の方を見た。
「僕も知らない。本当ですよ!」
と、翔があわてて言った。
「これは、黒木さんの分」
ゆかりが、もう一つ、指環のケースをとり出して、テーブルに置く。
「同じデザインなの」
と、邦子が言った。「正式にどうっていうことじゃなくて、でも、何かしてあげたくてね。——浩志の月給じゃ、とても無理だろうから」
浩志は苦笑した。
「お兄さん……」
「お前が決めろ。受け取っていいかどうか。俺《おれ》とは関係ない」
克子は、真剣な表情になって、翔と自分の前に置かれた、二つの指環のケースを見つめていたが……。やがて、手を伸ばして、翔の指環をとり出した。
「きれい……」
「小さな石よ。まだギャラ、安いから」
と、邦子が言った。
克子はじっとその石の輝きを見ていたが、やがて、翔の手をとると、その指に、静かに指環をはめてやった。
翔が頬《ほお》を赤く染め、今度は、克子の指環をとり出した。
翔が克子の手をとろうとする。
克子は反射的に引っ込めかけたが、思い直したように、翔の手に、自分の左手を委《ゆだ》ねた……。
翔が克子の指に指環をはめる。ぴったりと、克子の指にそれは合っていた。
「良かった!」
と、ゆかりが言って、「これで二人は恋人同士」
「黒木さん」
と、邦子が少し改まった口調で言った。「聞いて下さい。——克子さんのことは、あなたも色々聞いてるでしょ? 克子さんは、小さいころからずっと苦労して来たわ。色んなことがあったと思うの。でも、ゆかりのために、あんなに必死になってやってくれた。誰《だれ》にもできないことだわ。もし、あなたが、克子さんのことを本当に好きなら、これまでの全部を含めて、好きになってあげて下さい。お願いします」
邦子が頭を下げる。
翔が、ゆっくりと肯いて、
「僕は、夢を見てるわけじゃありません。世間知らずで、頼りないかもしれないけど……。でも、父だって、色々なかったわけじゃないし。——ね、克子さん」
克子は、胸が一杯で何も言えない様子だった。
浩志は、立ち上がると、克子と翔の後ろへ立って、二人の手をとると、一つに重ね合わせた。
「お兄さん——」
「お前たちが、これからどうなるかは、神様だって分からない。そうだろ? しかし、ともかく今、この気持ちでいることを、大切にしろよ。ゆかりと邦子の思いやりだ」
「うん」
と、克子は肯いた。「——ありがとう」
翔の手が、しっかりと克子の手を握り、克子が握り返す。
「——名場面だ」
と、ゆかりが言った。
「ここでフェードアウト」
と、邦子が言って、みんなが笑った。
——食事は和やかに続いた。
「邦子、試写は?」
と、ゆかりが訊《き》いた。
「うん。明日、0《ゼロ》号の試写」
「楽しみだ」
「プレミアのとき、招《よ》ぶからね」
「僕もぜひ」
と、翔が言った。
「ご心配なく。ちゃんとお二人でご招待いたします」
「邦子。タイトルは何番目?」
「そりゃ、大女優がいるからね」
「カットしちまえ」
TVのことでまだ腹を立てているゆかりが、そう言って、デザートのアイスクリームをスプーンで二つに割った。
「じゃ、ここで」
と、克子はタクシーを降りて言った。
「寄ってっちゃいけない?」
と、翔が訊く。
「だめ」
「分かりました」
と、翔は笑って、でも嬉《うれ》しそうだった。「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
と、克子は言って、タクシーが走り去るのを見送った。
慣れない指環の感触。——冷たい風も、熱い頬には何の苦痛でもない。
こんなことって……こんな、「青春ドラマ」みたいなことって、あるのだろうか。
でも、考えてみれば、誰だって一度はこういう恋を経験するものなのかもしれない。克子の場合は、その順序が逆だったのだ。
克子はアパートの階段を上って行った。それほど遅い時間というわけではないが、やはり足音には気をつかう。
何といっても、この間の事件で、アパートの人たちは、克子がいるせいで迷惑をこうむらないかと気にしている。おとなしくしているに越したことはなかった。
ふと、克子は足を止めた。ドアの前に、コートを着た男が立っている。
一瞬、父がまたやって来たのかと思ったが、あのけがで、病院を出て来られるわけがない。では——もしかして、国枝の手下だろうか?
背を向けて立っていた男が、克子の方を振り向いた。
「斉木さん! あなた……どうしたの?」
「すまん」
斉木は、目を伏せた。「入れてくれないか、中へ」
「ええ……」
克子は、バッグからキーホルダーをとり出した。
部屋へ入ると、いつもの通り、ストーブに火を入れる。今日はすぐにコートを脱いだ。斉木も上がって来ると、コートを脱いで、部屋の中を見回した。
「よく片付いてるな。君らしいよ」
「寒いでしょ。何か熱いものでも……。お湯でとくスープがあるけど、結構おいしいわよ」
「ありがたいな」
斉木はあぐらをかいて座った。
「待ってね。すぐできるけど」
お湯を沸かし、モーニングカップにスープを作る。粉末とはいえ、味もそう馬《ば》鹿《か》にしたものではない。
「——私も飲むわ。顔、真っ青よ。ずいぶん待ってたの?」
「まあ……一時間くらいかな」
斉木は少し背中を丸めて、「ここを見付けるのに手間どってね。いつも送って来てるのに」
と、言った。
「さあ、スープ飲んで」
克子は、斉木がおいしそうに、熱いスープをすするのを見ていた。——何があったのだろう。
「このところ、連絡もしなくて悪かった」
と、斉木は言った。「色々、忙しくてね」
「仕方ないわよ。お仕事でしょ」
と、克子は言った。
「この間の事件、TVで見た。ここの前だったんだろ?」
「そう。——怖かったわ」
克子もゆっくりとスープを飲みながら、カップを両手で包んで、手をあたためた。
「大変だったね」
——少し、話がとぎれる。
「どうしたの、こんな時間に?」
と、克子は言った。
「うん……。このところ、女房の様子がどこかおかしくて。それもあって、君と会わないようにしてたんだが……」
突然、斉木の顔が歪《ゆが》んだ。「あいつ……。女房に男がいたんだ!」
克子は、斉木南子の、あの冷ややかな笑いを思い出していた。何かのきっかけで、斉木は妻の恋人のことを知ったのだ。
「偶然のことでね」
と、斉木は言った。「今日、仕事で外を回っていたとき、たまたまタクシーが停まって、客を降ろしているところだった。そこへ駆けて行って乗ろうとしたんだが……。降りて来たのは、南子と、その男だったんだ」
「そう……」
「見付かっても、ちっとも悪びれる風もなくてね。——『この人が好きだから付き合ってるのよ。どこがいけないの?』と開き直るんだ。あいつ! 目を疑ったよ。あいつにあんな顔ができるなんて!」
斉木は息を荒くした。「しかも——帰ってから、娘を寝かして話をしようとしたんだが……。何て言ったと思う? 『離婚にはいつでも応じるわ』だとさ。ただし、娘は自分が引き取る、と言うから、怒鳴りつけてやった」
克子には、その場面の想像がつく。
「そうしたら、あいつ……。笑ったんだ! そして、『あなたに女がいるのに、どうして私に男がいていけないの』と言った……」
「知ってたのね、奥さん」
「そうなんだ。そして自分でも男と……。畜生! 僕はカッとなってあいつを殴った」
「斉木さん——」
「平手で軽くだ。痛くなんかないさ。あいつは、もっと笑った。もっと大きな声で、笑ったんだ……」
斉木が呻くような声で言った。
克子は、静かにカップを置いて、
「おしまいね、私たち」
と、言った。
「待ってくれ」
斉木が身をのり出すようにして、克子の手をつかんだ。
「だって——奥さんに知れた以上、続けてはいけないじゃないの」
と、克子は言った。
「僕は——あいつが許せない! そりゃ、僕だって君と浮気はしてたさ。しかしね、あいつには全く謝ろうって気持ちもないんだ」
斉木が怒りで熱するにつれ、克子の気持ちは冷えて行くようだった。
斉木は怒っている。それが、妻への愛から来る嫉妬なら、克子にも同情はできただろう。しかし、そうではない。斉木の怒りは、妻を他の男にとられたという怒り。プライドを傷つけられたことへの怒りなのだ。
それは本当のやさしさとは何の縁もないものだ。——克子は苦い失望を味わった。
「女房に娘をやってたまるか! 裁判にでも何にでもすりゃいい。絶対に娘はやらないぞ!」
斉木は、克子の方へにじり寄って来ると、抱き寄せようとした。克子は押し戻して、
「何するの! それどころじゃないでしょう」
「いいじゃないか。忘れたいんだ、何もかも。あんな女房のことなんか、忘れちまいたいんだ」
「斉木さん」
と、克子は言った。「奥さんをぶったって言ったわね。怒鳴ったとも」
「ああ……。それがどうかしたか?」
「娘さんは聞いてなかった?」
「何だって?」
「十歳にもなれば、両親の様子が、何となくおかしいってことぐらい、分かるものよ。本当にちゃんと眠ってたの?」
斉木は少し戸惑ったように、
「そんなこと……見てたわけじゃないからな」
「奥さんと喧《けん》嘩《か》するなら、娘さんのいないときにするべきよ。父親と母親がののしり合ってるのを見たら、子供は一生その光景を忘れないわよ」
「克子……」
「こんな所へ来て、どうするつもりだったの? あなたが謝るべきだわ。奥さんにも、娘さんにも」
斉木の表情がこわばる。
「本気か」
「そうよ。——あなたが言ったんでしょう。奥さんに知れたら終わりだって」
「それでいいのか」
「娘さんのことを第一に考えて。一番傷つかない道を選んでちょうだい」
「——分かった」
斉木は立ち上がると、コートをつかみ、「遊びだったんだな、君も。女なんか……下らん!」
足音も荒々しく、出て行く。
克子は、しばし部屋の真ん中にポツンと座って、動かなかった。——斉木との日々は何だったのか。虚しさが、冷たい空気のように、克子を包んでいた。