昼のそば屋は、いつものように混み合っていた。
克子は、少し並んで、席の空くのを待つことにした。ついTVに目が行く。
もちろん、ゆかりの事件がトップニュースである。あの恐ろしい出来事が、写真やビデオのスローモーションでくり返されると、克子はゾッとして目をそらした。
父が手錠をかけられて、平然と連行されて行く映像も出ている。——石巻という名前のせいもあるが、もちろん会社ではみんな克子の父だということを知っている。
ため息をついて、克子は目を伏せた。
「どうぞ」
と、声をかけられ、奥のテーブルへ行く。
相席だが、皮肉なことにTVがちょうど目に入る席。
そばを注文して、ふと画面に目をやり、克子は息をのんだ。
〈安土ゆかり、噂《うわさ》の恋人と婚約!〉の文字が、画面一杯に踊っている。
兄が、TVカメラの前に座って、
「——結婚することを決心しました」
と、語っていた。
兄とゆかりさんが……。
克子は、兄の照れたような笑顔を、じっと見つめていた。——それでいいの? 本当にそれで良かったの?
TVは、もちろん答えない。
しかし、単にゆかりを元気づけるために、そんなことを口にする兄ではない。——婚約したというのなら、本気なのだ。
そう……。兄はゆかりを「選んだ」のだ。
いつかは決めなくてはならないことだった。
おめでとう、ゆかりさん。心の中で、克子は言った。
前の席の人が立ち、即座に店の人が器を下げて行くと、
「ご相席、お願いします」
「どうぞ」
と、克子は言って——前の席に座った黒木翔を、呆《あき》れて眺めていた。
「ご注文は?」
と、額に汗を浮かべて、太った女の子がやって来る。
「この人と同じもの」
と、翔が克子を見て言った。
「はあ?」
「伝票も一緒でいい」
克子は、お茶を一口飲んで、
「またさぼって。大学は?」
「休講。本当ですよ」
と、翔は言った。「ゆかりさん、ちゃんと元の通りに治るって。良かったですね」
「ええ」
「実は、親父から言われて来たんです」
と、翔は言った。
「そう……」
克子は肯《うなず》いた。
当然そうだろう。
克子と翔の付き合い。克子を雇ってもいいという話。——「石巻」の姓がある限り、そんなことは不可能だ。
「で、お父様、何て?」
と、克子は訊《き》いた。
「返事を聞いて来いって。うちへ来る気があるのかどうか」
翔の言葉に、克子は目を丸くした。
「そんなこと……。無理よ」
と、克子は言った。「父のこと、見たでしょう? そりゃあ、私や兄は、父のしたことに責任はないと思ってるわ。でも、『石巻』って姓は消えない。私がお父様の会社へ入ったら、お宅のご親《しん》戚《せき》から、きっと反対が出るわ。そうでしょ?」
「親戚が克子さんを雇うんじゃありません」
「そりゃそうだけど……。そんなに単純なものじゃないのよ」
翔がちょっと笑った。
「何がおかしいの?」
「いつも克子さんは自分のことになると、急に古風になる。逃げてるんですよ、そんなの」
翔の言葉に、克子は詰まった。確かにそれはその通りだ。
「翔君……」
「克子さんが、親父の下で働きたくないのなら、断って下さい。でも、それ以外の理由じゃ、だめです」
「だめじゃない」
「だめ」
「だめじゃないってば」
「だめですよ」
押し問答していると、そばが二つ来た。
「——もう一つの理由は、僕ですか」
「そう」
「僕が嫌いですか」
「いいえ」
「じゃ、あの男性のことが……」
「別れたわ」
「じゃあ、いいでしょ」
克子は、割りばしを割って、
「気を付けて。とげ刺すわよ。——翔君。もしこんなこと続けてったら、どうなるの?」
「続けてみなきゃ分かりませんよ」
と、翔も食べ始めた。「そうでしょ? でも僕の気持ちは——いてっ!」
「ほら、とげ刺した」
克子は自分のはしを置いて、「見せて。——ここは、あなたがいつも行くような高級店じゃないの。割りばしはとげだらけ。だしはインスタント……。じっとして」
克子は、翔の手を取って、小さなとげを抜いた。
二人の手に、あのリングが、はめたままだった。
翔は、克子の手を握ったまま、離さなかった。克子は困ったように目を伏せ、それから、また翔を見た。
「ね、お客が待ってるわ」
と、克子が言った。「手を離して」
「その代わり、キスしていい?」
「馬《ば》鹿《か》言わないで」
真っ赤になって、克子は翔をにらんだ。
「じゃ、離さない」
「翔君——」
「本気です」
昼休みのたて混んだそば屋。これほど、「愛」を語るのに向かない場所もあるまい。
しかし、それは二人が真剣かどうかとは、関係ないことなのだ。
「分かったわ」
と、克子は息をついて言った。
「じゃ、いいんですね」
「ええ」
克子は、翔の問いを、黒木の会社へ入ることだと思って返事をしたのである。ところが——身をのり出すと、突然翔は克子にキスしたのだ。
「何するの!」
克子はあわてて手を引っ込めた。
「だって、いいって、今——」
「そのことじゃなくて……」
店の客がチラチラ二人の方を見ている。
「もう!」
克子は財布をつかむと、立ち上がって足早に店を出た。
ほとんど走るように、表の通りへ出て……。足を止める。
どうして追いかけて来ないんだろう? 怒ったのかしら。
待っていると、翔が駆けて来た。
「克子さん——。払う所で待っててくれりゃいいのに」
「あ、いけない」
代金を払わなかった! この辺は、食券の店も多いので、つい、もう払っていたような気がしたのである。
「ごめんなさい。払うわ」
「いいですよ。——ね、克子さん」
腕をとられて、克子はもう逆らわなかった。
「あなたって……。おとなしいだけの坊っちゃんかと思ったのに。強引なんだから」
と、笑ってしまう。
「誤解したのは、そっちの責任」
「そうね」
克子は、胸のつかえが一気に消えたような気がした。
もちろん、この先、翔とどうなるか、分からないとしても……。今はこの現実を受け容れよう。
そう。中には「敵でない現実」もあるのだ。克子は、初めて肌でそう感じた。
「克子さん」
「うん」
「そば、ほとんど食べませんでしたよ。何か食べましょ。お腹ペコペコで」
翔の情けない声に、克子はふき出してしまった。——空腹という最も身近な「現実」を、二人はまず解決しなくてはならないのである。