それにしても——と、本《ほん》間《ま》隆《たか》志《し》は思い出してしまう。
初めて、成《なる》屋《や》詩《し》織《おり》とデートしたときのことを。たぶん、これは一生忘《わす》れられないであろう。
ま、この先、詩織とどうなるかは分《わか》らないにしても、だ。
何しろ、詩織と隆志、付き合っているとはいっても、至って、それこそ「きれいな」付合いで、まず「お子様同士」って感じなのだから。
「あのときゃ、凄《すご》かったよな」
と、映《えい》画《が》館《かん》から出て来て、ブラブラと歩きながら、隆志が言った。
「何のことよ?」
と、詩織が訊《き》き返す。
「初めて映画を見に行ったろ。最初のデートのとき」
「そうだっけ」
「これだからね。——お前、どうして、そんなにセンチなくせに、そう冷たいの?」
「知るか」
——ともかく、そのときの映画は、ロマンチックな悲《ひ》恋《れん》ものだった。
今どきあまりはやらないが、しかし、初めてデートに誘《さそ》って、女の子をホラー映画へ連《つ》れていくのも、ためらわれたのだ。
それが間違いだった。
ともかく、映画を見ながら、ワンワン泣いてしまうのだ。それも、ジワッと涙ぐむとかいうのではない。
声こそは押《お》し殺しているが、グスン、グスンとしゃくり上げ、時々、
「まあ」
とか、
「そんな」
とかいうセリフ入りなのである。
周囲の人は、変な目で見るし、女の子たちがクスクス笑っていたり、中には、
「あの泣き方は、映画のせいじゃない」
と思うのか、隆志のことを、キッとにらみつけるのがいたりして……。
ともかく隆志は、スクリーンなんかまるで見ていられず、冷《ひや》汗《あせ》をかきながら、ただひたすら、
「早く終ってくれ!」
と願うだけだったのである。
——あれ以来、隆志は極力、詩織を映《えい》画《が》には連《つ》れて行かない。
見るときは、今日みたいなコメディか、アクションものと決めている。
しかし、今日のコメディだって、三回泣《な》いたのだから、大したものだ。
「面《おも》白《しろ》かったわ、今日の映画」
「そうか?」
「うん。もっと泣けると良かったけど」
「お前はよくても、こっちがかなわないよ」
「いいでしょ。感受性豊かだ、ってことなのよ」
「豊か過ぎるぜ」
と、隆志は言った。「さあて、これからどうする?」
「行く所があるの」
「へえ。珍《めずら》しいじゃないか」
大体、詩織はデートとなると隆志に任せている。
「付き合ってくれる?」
「そりゃ、構わないけど……。どこに行くんだ?」
「ええとね——」
詩織は、ポシェットから、メモ用紙を取り出して広げた。「読めないな。——あ、逆さだ、これじゃ」
「お前なあ……」
「ここ。連れてって」
と、メモを隆志へ押《お》し付ける。
東京都内、住所だけでその場所を捜《さが》し当てる、っていうのは、楽じゃない。
仕方なく、書店で地図を立ち見(?)して、近い駅まで行くことにした。
電車に乗って、
「こんな所に何の用だ?」
と、隆志は訊《き》いた。
「訪《ほう》問《もん》」
「そりゃ分ってるけど」
「約《やく》束《そく》したの」
吊《つり》皮《かわ》につかまって、流れ去る外の風景へ目をやっている詩織。——なかなか可《か》愛《わい》くて、絵になる。
「約束って?」
「あのおじさんと」
「誰《だれ》だ?」
隆志は、しばらくして、「——おい、まさか、この間、日本刀でお前をおどしてた、例の——」
「あのおじさんよ」
「あいつと、どんな約束したんだ?」
「うん……」
と、詩織は、はぐらかすように、「ま、ちょっとね」
「言えよ。まさか、そいつの家族の——」
「様子を見て来て、知らせてあげる、って言ったの」
「おい!」
隆志は目を丸くして、「お人好しにも、ほどがあるぜ」
「だって、若い奥《おく》さんがいて、子供が小さくて、って言うんだもん。可《か》哀《わい》そうじゃないの!」
「だけど、見て来てどうするんだ?」
「そりゃあ……」
「お前の気持は美しいと思うぜ。しかし、お前や俺《おれ》にゃ、どうしようもないじゃないか」
「だって——」
「むだだよ。帰ろうぜ」
と隆志は言った。
すると——詩織が、じっと隆志を見つめる。こいつはいけない!
と思ったとたん、詩織の目から大《おお》粒《つぶ》の涙《なみだ》が溢《あふ》れて……。
「分った。分ったよ。一《いつ》緒《しよ》に行くから。——な、頼むから、泣《な》くな」
隆志の方が、泣きたい気分である。
「——これか」
隆志は汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
さんざん捜《さが》し回って、やっと見付けた。
なかなか分らなかったのは、そこがアパートだったからで、メモには、そのアパートの名が入っていなかったのだ。
ま、しかしひどいアパートだった。よく真《まつ》直《す》ぐ立ってる、と感心したくなるほどの古さだ。
「人、住んでるのか?」
と、隆志が言った。
「洗《せん》濯《たく》物《もの》干《ほ》してあるわよ」
「そうか……。名前、何てったっけ?」
「ええと——桜《さくら》木《ぎ》。奥《おく》さんの名前は、忘《わす》れちゃった」
「桜木、ね」
郵《ゆう》便《びん》受《うけ》なるものもあるが、名前なんか入ってない。
「しょうがない。一つずつ見て回ろうか」
大した戸《こ》数《すう》ではない。二人は、一階の(一応、二階があった)部屋の前を、ぐるっと回った。
「二階かしら」
「階段、壊《こわ》れてないか?」
二人は、恐《おそ》る恐る、ギイギイ鳴る階段を上って行った。
「——ここは違《ちが》う、と。——そっちは?」
「うん。よく読めないんだ、表《ひよう》札《さつ》が」
大体、表札なんてものじゃない。
ただ、紙に名前を書いて、ピンで止めてあるというしろもの。
「——どうやらこれだ」
と、隆志は言った。「かすかに、〈桜〉の字が読める」
「良かった!」
良かった、じゃないよ。隆志は内心ヒヤヒヤものだった。
そりゃ、こんなアパートにいるのでは、貧《びん》乏《ぼう》暮《ぐら》しなのだろう。しかも旦《だん》那《な》があんな騒《さわ》ぎを起して捕《つか》まってるとくれば……。
だからといって、隆志や詩織にどうできるというものじゃない。それを、
「何とかしたい」
と思いかねないのが、詩織なのである。
トントン、と詩織がドアを叩《たた》いた。
「こんにちは。 —— 奥《おく》さん。——桜木さん。押《おし》売《う》りやセールスじゃありません」
そばで聞いていて、隆志の方が吹《ふ》き出しそうになってしまった。
「留守じゃないのか」
と、隆志は言って、廊《ろう》下《か》に面した、台所らしい窓《まど》の下に立っていたが——。
ん? 何だ、この匂《にお》い?
「おい! ガスだ!」
と、隆志が言った。
「え?」
「ガスの匂いがする。——ほら」
「ほ、本当だ!」
「もしかしたら中で——。おい、逃《に》げろ!」
「だって——」
「俺《おれ》が窓を破って入る!」
と隆志が身構えると、詩織は、ドアのノブに手をかけて、引いてみた。
「ドア、開くよ」
ギーッとドアが開く。隆志は調子が狂《くる》って、引っくり返った。