「失礼します」
なんて、呑《のん》気《き》なことを言ってる場合じゃなかった。
ともかく、ガス自殺を図っているらしいのだ。一刻を争う!
「ともかく、ガスだ! ガスを止めるんだ!」
気を取り直した隆《たか》志《し》が、桜《さくら》木《ぎ》の部屋の中へと飛び込《こ》むと、「どこだ! ガスは——」
と、見回す——ほどの広さもなかった。
六《ろく》畳《じよう》一《ひと》間《ま》に台所、という、大変クラシックな間取りのアパートだったのである。
隆志は、台所へ駆《か》けて行って、ガスの栓《せん》を閉《と》じた。
「まあ! あそこに!」
と、詩《し》織《おり》が叫《さけ》んで立ちすくむ。
すっかり色の変った畳《たたみ》の上、座《ざ》布《ぶ》団《とん》(もと座布団、というべきか)を頭の下に、若い女性が、傍《そば》に赤ん坊《ぼう》を寝《ね》かせて、横になっている。
じっと目を閉じ、動こうともしない。そのわきに、ほとんど空《から》になったコップが一つ。そして哺《ほ》乳《にゆう》びん……。
「睡《すい》眠《みん》薬《やく》をのんだんだわ! そしてガスを出しっ放しにして……。何て可《か》哀《わい》そうな——」
と、早くも詩織、涙《なみだ》ぐんでいる。
「おい! そんなことより、窓《まど》を開《あ》けるんだ!」
隆志が、言うより早く、自分で駆けて行って窓を大きく開け放った——つもりだったのだが……。よほど、たてつけが悪かったんだろう。
エイッ、と開けると、窓はガラガラッと開いたことは開いた。が——そのままレールから外《はず》れて、下の地面へと落下して行ったのである。
ガシャン!——二階から落ちて割れたからといって、窓ガラスを責めるわけにはいかないだろう。
「あれま」
と、隆志は呟《つぶや》いた。「でも——しょうがねえよな」
「そうよ。ともかく、命を助けるためなんだもの」
と、詩織は隆志を慰《なぐさ》めて、「早く一一九番しなきゃ!」
「そ、そうだな」
「電話、どこかしら?」
詩織が振《ふ》り向くと、ポカンとして座《すわ》っている若い女性……。
「あの、電話は?」
と、詩織は訊《き》いた。
「電話、ありません」
「あら、そう。困《こま》ったわ」
「あの——どうして——」
「ここの人がね、ガス自殺を図って、睡《すい》眠《みん》薬《やく》をのんで……」
「——おい」
と、隆志が言った。
目の前に、キョトンとした顔で座《すわ》っているのが、当の「ここの人」だった。
赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いたその女性、隆志と詩織を交《こう》互《ご》に眺《なが》めて、
「あなた方、どなた?」
と、訊いたのだった……。
「じゃ、自殺しようとしたわけじゃ……」
「まさか」
桜木啓《けい》子《こ》は、微《ほほ》笑《え》んだ。「でも、ついガスの火を消し忘《わす》れて。 —— 本当に中毒するところでしたわ。ありがとうございました」
「いや、別に……」
隆志は、頭をかきながら、すっかり見はらしの良くなった窓《まど》の方へチラッと目をやった。
「すっかり寝《ね》不《ぶ》足《そく》なものですから」
桜木啓子はそう言って、「この子が夜中に何度も起きるので、眠《ねむ》ってられないんです」
と、赤ん坊に、哺《ほ》乳《にゆう》びんでミルクをやっている。
詩織と隆志も、何となく調子が狂《くる》って、ぼんやりとその母と子の姿《すがた》を眺《なが》めていたが……。
「あのね、訊《き》いてもいい?」
と、詩織は言った。
「何ですか?」
「——年《と》齢《し》はいくつ?」
と訊いたのは、ともかくこの啓子という女性、いやに若く見えたからだった。
そりゃ、確かに、あの「おじさん」は、若い女《によう》房《ぼう》と小さい子供がいる、と言ってたけれど、それにしても、若過ぎるような気がした。
「まだ五か月なんです」
「あ——いえ——あなたのこと」
「あ、私ですか。十七です」
ガクッ、と詩織はショックのあまり倒《たお》れ伏《ふ》した——というのはオーバーだが、しかし、十七歳! 私と同じ!
「十七……。その若さで、どうしてまた……」
と言いながら、早くも詩織の涙《るい》腺《せん》は活動を開始していた。
「でもさ——」
と、隆志が、それと察して、口を挟《はさ》んだ。「君の旦《だん》那《な》、捕《つか》まったの、知ってるだろう?」
「旦那?」
と、啓子は目をパチクリさせて「ああ、主人のことですね。夫。ハズバンド」
ありゃ、どう見ても「ハズバンド」って雰《ふん》囲《い》気《き》じゃない。せいぜいゴムバンドってところ。
「ええ、警《けい》察《さつ》の人も来ましたし」
「大変ねえ。——心配でしょ」
と、詩織は言った。
「別に」
と、至ってアッサリとした返事が返って来た。「ここにいるより、よっぽどのんびりできるんじゃないですか。あの人、慣れてるし」
「留置場に?」
「ええ。どの留置場が居《い》心《ごこ》地《ち》がいいか、論文を書こうか、なんて言ってるくらい」
あんまり自《じ》慢《まん》できた話じゃないだろうが。——しかし、それにしても、いやにこの「若妻」の、落ちつき払《はら》っていること。
「あの——あなた、本当にあの人の奥《おく》さん?」
と、つい詩織は念を押《お》していた。
「一応は」
と、啓子は肯《うなず》いた。「といっても、無理にさらわれて来たようなものなんですよね。だから別に、いなくたって寂《さび》しくもないし」
詩織は、わけが分《わか》らない。
「さらわれた?」
「ええ。あの人、私が学校へ行く所を待ち伏《ぶ》せして、無理矢理車に引きずり込《こ》んだんです。——そのまま何日も車で走り続けて、逃《に》げ出したら殺すぞ、っておどかされて。あちこちの町を転々としてる内に、この子ができちゃったんで、逃げ出すわけにもいかなくなって……」
「ちょ、ちょっと待って!」
詩織はあわてて遮《さえぎ》った。「それじゃ、まるきり誘《ゆう》拐《かい》じゃないの!」
「まあ、そうです」
隆志と詩織は、顔を見合せた。——この子も、少しイカレてるんじゃない? 詩織も、さすがにセンチメンタルな気分にはなれなかった。
「—— 変ってる、と思うでしょうね」
と、啓子は言った。「でも、あの人にも、いい所はあるんです。子供好きだし、私のことにも、それなりに気をつかってるし。——でも、働く気のない人なんです。だから、どうせ、そろそろ逃げ出そうと思ってたの。いい機会だわ」
詩織と同じ年《と》齢《し》でも、こちらはまたドライである。いや、ドライというのもピンと来ない。
「ご両親は、あなたのこと、捜《さが》してらっしゃるんじゃないの?」
と、詩織は言った。
「どうかしら。——私、のけ者だったから」
「だけど……」
「家出した、と思ってるんじゃないかな、家じゃ。だったら、捜しませんよ。父は冷たいし、今の母、私の本当の母じゃないし」
複雑な家庭に育っていたらしい。
「お宅《たく》、どこなの?」
「両親は九州です」
また遠くへ来たもんだ。——啓子は、赤ん坊《ぼう》が眠《ねむ》ってしまうと、
「でもいいわあ、子供って」
と、ニコニコしている。「詩織さん——でしたっけ。子供さんは?」
「いないわよ」
詩織は、やや圧《あつ》倒《とう》されていた。
「可《か》愛《わい》いですよ。そろそろ一人か二人——」
「それよりさ」
隆志が、あわてて言った。「差し当り、どうするんだい?」
「このアパートじゃ、いられませんね。窓《まど》もなくなったし」
「ごめんよ。壊《こわ》す気じゃなかったんだけど」
「いいんです。どうせ近々、ここ、取り壊す予定だから」
と、啓子は言って、「荷物まとめて、どこかに泊《とま》ります」
「あてはあるの?」
詩織が、余計なことを訊《き》いた。——よせ!
隆志の心の中での叫《さけ》びも空《むな》しかった……。