「ねえねえ」
と、ルミは母親の腕を引っ張った。
何といっても、まだ五歳のルミの声は小さくて、お父さんとお母さんがおしゃべりしていて、お兄ちゃんがTVなんか点《つ》けていると、全然聞こえなくなってしまうのである。
「あれ、何なの?——ねえ」
その努力は、三度目にして、やっと認められた。
夫に、近所のいや味なおばあさんのことをグチっていた母親は、やっと話が一区切りついて、娘の方へ向いたのだ。
「どうしたの? 早く食べなさい。片付かないわ」
ルミは、母親が自分の話を全く聞いていなかったと知って、ちょっとムッとしたが、五歳ともなると、大人ってのは結構忙しくて、時には子供に構ってられないものだということを、理解している。
だから、ここは腹の立つのをグッと押えて、もう一度、同じ質問をくり返すことにしたのだった。
「あの、お庭にあるのは何なの?」
「お庭?——何かある?」
母親の方は、全然ピンと来ていない様子だ。
ルミは、ため息などついて、お母さんったら一体何を見てんだろ、毎日、と嘆いたのだった。
「ああ」
と、母親は肯《うなず》いて、「あれはね、洗濯物を干すところなのよ」
ルミは、さらに頭に来てしまった。
「それじゃないよ」
いくら私だって、そんなものぐらい、訊《き》かなくたって分ってる。
「あら、じゃ、何なの?」
母親は戸惑っていた。
「庭はまだ手が回らないからな」
と、父親は、見当違いの言いわけを始める。「次の日曜日には、草むしりをするよ」
「お父さんは言うばっかりだから」
と、母親は笑って、「ねえ、土曜日は早く帰れそう?」
ルミは、自分の質問がどこかへ置き忘れられてしまいそうになったので、ちょっとあせった。
「ね、ほら、お庭の隅っこに、四角いものがあるじゃない」
と、母親に説明する。「こんぐらいの高さで、石がこんな具合にのっけてあって」
「そう?」
と、母親はてんで関心がない。
ほとんど絶望的な気分に陥ったルミは、もう諦《あきら》めようかと思った。すると、助け舟が意外なところからやって来たのだ。
TVをじっと見ていたお兄ちゃんが、
「井戸だろ」
と、言ったのである。
「——なあに、進ちゃん?」
と、母親が面食らっている。
「井戸だよ、ルミの言ってるの」
進は、一向にTVから目を離さない。
進は、小学校の五年生。ルミとは六つも離れているので、あまりルミの遊び相手にはなってくれない。しかし、なかなかしっかりした子で、お母さんのお気に入りではあるのだった。
ついでに言えば、お父さんはルミの方を可愛《かわい》がっている。まあ、むろん、「どっちかといえば」であって、両親が二人の子を可愛がっていることは確かだった。
「井戸か」
と、田所昭二は肯いて、「そういえば、確かに、庭の隅の方にあったな」
「イドってなあに?」
と、ルミは訊いた。
「昔ね、お水をあそこからくんだんだ」
と、田所昭二は言った。
「お水? 水道の水?」
「水道がなかったころの話さ」
「あそこにお水が入ってるの」
と、ルミは訊いた。
ルミにとっては、水というのは、レバーを押したら出て来るものなのである。
「ほら、よく山とか行くと、水がわいてる所があるだろ? あんな風に、井戸の中にも水がわいてるんだ。昔は水道がなかったから、その水をくんで使ったんだよ」
「ふん」
ルミとしては、あんまり山へ連れてってもらったことなどないので、「水がわいてる」というのもピンと来なかった。が、何となく漠然とは理解できた。
「あのふたをあけると水が出て来るの?」
「もう涸《か》れちゃってんだよ」
TVがコマーシャルになって、進が、おかずの皿の方へ目を戻した。「あれ、もう食べちゃったのか」
「涸れてる、って?」
「水が出ないのさ。だからふさいだんだよ」
「あんなに一杯、石をのっけて?」
「それはね」
と、田所昭二は言った。「井戸ってのは、凄《すご》く深い穴なんだ。だから、子供が覗《のぞ》いてる内に落っこったりしたら大変だから、そうやって、ふたをしてるんだよ」
「どれくらい深いの?」
「そうだなあ……。とにかく、ずーっと、ずーっとだ」
田所の答えは、あまり科学的とは言えなかった。
「石を落としてみりゃ、分るよ」
と、進が言った。
この言葉は、ルミの目を輝かせた。
「石をどうするの? ねえ!」
「井戸の中へ落とすのさ。水のある所まで落ちたら、ポチャッ、とか、音がするだろ。ずっと深かったら、石がなかなか下まで着かないから、音がするまでに時間がかかる」
「だめよ、そんなこと」
と、安全第一の弘江が口を挟んだ。「井戸に落ちたら死んじゃうのよ。絶対そんなことしちゃだめ。——分った?」
「うん」
と、ルミは言った。
もちろん、ルミも死にたくはなかったのだから。
——田所一家の四人が、この古い家へ越して来て、二週間たつ。
引越しというのは、古い方から新しい方へ、というのが普通だが、田所家の場合は逆だった。
その代り、前は六畳と四畳半という小さなアパートで、四人、窮屈な思いをしていたのが、今は一軒家。二階があって、ともかく、ルミなんかには、信じられないくらい大きな家だったのだ。
お母さんは、色々、「ガタが来てる」とか、「さびついてる」とか文句を言っているが、でも、そう不満ではないらしい。
——この家は、弘江の叔《お》母《ば》に当る人が一人で住んでいたのである。
一年ほど前に亡くなった時、その人には子供がなく、この家はそのまま放置されていた。
田所一家がここに住みたいと言っても、親族の誰からも文句は出なかった……。
何といっても田舎町で、都心まで出るのに一時間半はかかる。それも、よほどうまくバスや電車の時間を見ておかなくてはならない。
田所が、それでもここへ越して来ることにしたのは、進も五年生になり、二間のアパートでの暮しはもう限界だと、常に思っていたからである。通勤は大変だが、前のアパートだって不便な場所にあり、一時間はかかっていたから、そう苦でもない。
ただ、一年間誰も住んでいなかったので、家のあちこちに手入れが必要で、全部が片付くのは、大分先のことになりそうだった。
それでも、事実上、引越しの費用だけでこの一軒家に住めたのだから、田所としても、不平を言うつもりはなかったのである……。
「学校の方はどうだ?」
と、田所は進に訊《き》いた。
「うん。面白いよ。運動場が広いしね」
それはそうだろう。前に進が通っていた小学校は、百メートルも真直ぐ走れないくらい、運動場が狭かったのだ。
ただ、問題はルミの幼稚園で——。近くにはないので、どうしても、バスで通うことになる。手続きするひまがないので、今のところ、ルミは幼稚園へ行っていなかった。
「来週には、何とかできると思うわ」
と、弘江は言った。「ご近所にも、お友だちになれそうな子がいないの。やっぱり幼稚園へ行かせないと」
広い家だけに、掃除や片付けで、まともな生活ができるようにするまでには、時間がかかる。弘江も毎日頑張ってはいるのだが、なかなか出かける時間が取れないのだった。
でも——ルミは結構楽しんでいた。
何といっても、この広く古い家そのものが、何よりの遊び場だ。
「いい?」
と、弘江が念を押した。「井戸には近付かないのよ」
「うん」
と、ルミは肯《うなず》いて、ご飯を食べながら、明日石を落っことしてみよう、と決心していた……。
チャンスは、お母さんが台所に立ってる時、とルミは決めていた。
台所は庭と反対側にあって、全然見えないのだ。
三時過ぎになって、お母さんは台所で、お鍋《なべ》をかけ、野菜を刻み始めた。
ルミは、庭に出るガラス戸をそっと開けて、お母さんのサンダルをはくと、庭の隅っこの草が生い茂っている辺りへと、歩いて行った。
もちろん、前のアパートでは、「庭」なんてものはなかったし、木も草も、目に入る限りでは見当らなかったものだ。
井戸は——ルミは、まだそれがどんな字を書くのか知らなかったが——一見、草で隠されてでもいるように見えた。
井戸の周りは、特に草がのびていて、ほとんどルミの胸ぐらいまである。それに、二、三本の木が井戸の上に覆いかぶさるようにのびているので、少し日がかげって、薄暗いのだった。
それにしても……。井戸は真四角で、一辺がルミの両手一杯広げたよりも、ずっと大きい。高さは、ちょうどルミの胸くらい。石かレンガを積んであるようだった。
井戸には、どっしりと重そうな板でふたがしてあった。しかもその上に、大きな——ルミの頭ぐらいもある石が、四つも五つものせてあって、ただふたが動かないようにというより、何だかギュッと上から押えつけてでもいるように見えた。
もちろん、このままじゃ、井戸の中に石を落とすことなんて、できない。
しかしルミは、そのふたの一番端の辺りの板が、少しくさって割れているのを、知っていたのである。
手ごろな石が、足もとにあった。
それを拾って、一《いつ》旦《たん》ふたの上に置くと、割れた所を引っ張った。——メリメリと音がして、意外に簡単に、板は裂けた。
手に細かい木の粉がついて、ルミは顔をしかめて、手をはたいた。——都会っ子なので、手が汚れたりするのを、いやがるところがある。
ポカッと、ルミの手が入るほどの隙《すき》間《ま》が開いた。
ルミは少し爪《つま》先《さき》立《だ》ちして、その暗い穴を覗《のぞ》いていたが——もちろん、それくらいの隙間では何も見えない。中はただ暗く、シンとしていた。
ルミは、ちょっと鼻にしわを寄せた。いやな匂《にお》いがしたのだ。
——今までに、ルミのかいだことのない匂いだ。
何だろう?
ともかく、ルミは石を手に取った。そして隙間の上に持って来ると、ちゃんと、そこを通るのを確かめた。
水があれば、ポチャッと音がするだろう。なにもなくて「涸《か》れて」いれば、底に当るコツン、って音が……。
少しドキドキした。
お兄ちゃんが帰って来てから、やれば良かったかしら?
でも、一人でやって、お兄ちゃんに教えてやる方が、ずっと楽しい。きっとお兄ちゃんもやってみるだろう。すんだら、またこの板を元の通りにくっつけておけばいい。
両手で持っていた石を、ルミは落とした。穴の中、暗がりの中へ。
石は、すぐに見えなくなった。——ルミは、一つ、二つ、三つ、と数えた。
音がする。もうすぐ。もうすぐ。
四つ、五つ……。どんな音だろう?
六つ、七つ、八つ……。
「——九つ、十」
ルミは、口に出してそう言って、数えるのをやめた。
音は、聞こえなかった。——いつまでも。
じっと、ルミは耳をすましていたのだ。聞きもらすはずはない。
でも……。どうして音がしないんだろう?
ルミは、それでも諦《あきら》め切れずに、じっと立って耳をすましていた。
何分もたった。どんなに少なくみても、百とかそこいらは数えられる時間だった。
でも、やはり音はしなかった。
こんなに長く——いつまでも落《ヽ》ち《ヽ》つ《ヽ》づ《ヽ》け《ヽ》て《ヽ》いるんだろうか? でも、そんなに深い穴なんてあるのかしら?
——ルミは、まだしばらく、その場に立っていた。
それから、ちょっと首をかしげた。ちょっとがっかりしていたのだ。
すると、
「ルミ!——ルミ」
お母さんの声がした。
ルミはあわてて駆け戻って行った。お母さんが庭の方へ来る前に、上がって手を洗わなきゃ。
サンダルを、ちゃんと並べて上がると、洗面所へ行って、パッと手を洗う。
「——ルミ」
「なあに、お母さん」
ルミは、何くわぬ顔で、母親の前に出て行った。
板の割れ目の隙間を元の通りにふさいでおくことなど、ルミは、きれいに忘れてしまっていた……。