海に落ちて、びしょ濡《ぬ》れになった詩《し》織《おり》は、そのままの格好で、別《べつ》荘《そう》の台所へと入って行った。
「—— 会えて嬉《うれ》しいわ。ほら、ママのおっぱいを飲んでね」
と、赤ん坊《ぼう》に乳《ちち》を含《ふく》ませているのは……。
「啓《けい》子《こ》さん」
と、詩織は言った。
「あら、詩織さん」
と、啓子は、さしてびっくりした様子でもなく、「お元気?」
「ええ、まあ……。その子、花《はな》子《こ》ちゃん?」
「そうなの。ずっとここで預《あず》かっててくれたんですって。良かったわ。少し太ったみたい」
と、啓子はニコニコしている。
「あの……啓子さん。いつここへ?」
「さっきよ。金《きん》太《た》郎《ろう》さんと二人でここへ来たの」
「あのボートで?」
「そう。金太郎さんがね、ここに花子がいるっていうことを突《つ》き止めてくれて」
「そう……。でも、金太郎さんは——」
二階で、刺《さ》されて死んでいるのだ。
「死体を見たの?」
と、啓子がアッサリと訊《き》いた。
「知ってたの? 刺し殺されたのを」
「ええ。だって、私がやらせたんだから」
啓子は、花子がやっと満足した様子なのを見て、「さ、眠《ねむ》るのよ——いい子ね」
と、揺《ゆ》すった。
「啓子さん……」
「少し待って。この子が眠るまで」
詩織は、椅《い》子《す》にそっと座《すわ》った。——啓子は、しばらく花子を抱《だ》いて軽く揺すっていたが、
「もう寝《ね》たわ、大丈夫」
と、自分も椅子にかけて、「色々ごめんなさい、あなたを変なことに巻《ま》き込《こ》んじゃって」
「いえ……。どういたしまして」
と、詩織は言った。「——でも、一体どういうことなの?」
「金太郎さんが死んで、これで私の役目も終ったわ。あなたには、ちゃんと説明しなくちゃね」
啓子は、あどけない顔で眠《ねむ》っている花子を見て、微《ほほ》笑《え》みながら、「実はね、この子の父親は桜《さくら》木《ぎ》じゃないの」
と、言った。
「桜木さんの子にしちゃ、可《か》愛《わい》過ぎるとは思ってたけど」
「そうね」
啓子はニッコリ笑って、「父親はね、高校の先《せん》輩《ぱい》で、とても真《ま》面《じ》目《め》な人——もちろん、ヤクザじゃない堅《かた》気《ぎ》の人なの。私たち、二人で、新しい生活を始めようって、九州を逃《に》げ出したんだけど……。父は子分たちを使って私たちを捜《さが》し出したわ。そして私は連れ戻《もど》され、彼は殺されたの」
「ひどい!」
「父の所へ帰った時、私はこの子を身ごもっていて、彼が殺されたのを知ったわ。——必ず仕返ししてやる、と誓《ちか》ったのよ。ただ、この子が無事に生れて、動けるようになるまでは、じっと我《が》慢《まん》していたの」
啓子は、ちょっと息をついた。「そこへ、父の急死。——いいチャンスだと思ったわ。九州にいては、父の腹《ふく》心《しん》で、私を連れ戻したり、彼を殺したりした人間たちに復《ふく》讐《しゆう》できない。何しろ、子分たちに囲まれてるから。だから家を出て、東京へ来たのよ。桜木が、私について来てくれたわ」
「その相手が——種《たね》田《だ》とか……」
「三《み》船《ふね》、そして緑《みどり》小《こう》路《じ》金太郎」
「あの人も?」
「私と結婚しようと狙《ねら》ってたから。私の恋《こい》人《びと》を殺したのは、あの金太郎なのよ」
「何てひどい奴《やつ》!」
そうと知ってりゃ、けっとばしてやるんだったわ、と詩織は思った。もちろん、死んでるところを、だ。
「じゃ、啓子さん、その三人を殺したのは、桜木さんなの?」
「いいえ。桜木さんは、ここで待ち構えていて、金太郎を殺しただけ。ここ、地下室があるのよ」
「じゃ、他《ほか》の二人を殺したのは?」
「もう一人、私に同情してくれていた人がいるの。九州にいた時にね。私と彼が駆《か》け落ちした時も、見送ってくれて……。その人、娘《むすめ》さんを小さい内に亡《な》くして、私のこと、自分の娘のような気がしたんですって」
「誰《だれ》なの、それ?」
と、詩織が言った時だった。
「—— 金太郎さん!」
啓子が、台所の入口に目をやって、息をのんだ。振《ふ》り向いた詩織も仰《ぎよう》天《てん》した。さっき刺《さ》されて死んでいた金太郎が立っている!
「桜木の奴《やつ》は、人殺しにゃ向かないね」
と、金太郎はニヤリと笑った。「刺されたふりをして初めから倒《たお》れてたら、すっかり信じてあわてちまってさ」
「じゃ、桜木さんを——」
「安らかに眠《ねむ》りについてるよ」
金太郎は、半分しか刃《は》のないナイフをポンと投げ捨《す》てた。「君も、諦《あきら》めて僕の妻になるんだね。それとも、ここでその赤ん坊《ぼう》を殺されたいかい?」
「やめて!」
青ざめた啓子は、しっかりと花子を抱《だ》きかかえ、立ち上って、後ずさった。
「ちょっとあんた!」
と、詩織は怒《いか》りに恐《おそ》ろしさを忘《わす》れて、「この人でなし! 私が許さないからね!」
「そうかい」
金太郎が拳《けん》銃《じゆう》を取り出す。「さっきは、びっくりさせて追《お》っ払《ぱら》ってやったのに。君はここで死ぬことになる」
詩織の頭に血が上る。カーッとなって、
「やれるもんならやってごらん!」
と、怒《ど》鳴《な》っていた。
「やめて金太郎さん! その人には関係ないことだわ!」
金太郎がチラッと啓子の方を見る。詩織がパッと飛び出した。金太郎の手にかみつこうとして——。そして、銃《じゆう》声《せい》が台所の空気を震《ふる》わせた。
エレベーターの故《こ》障《しよう》が直って、やっと一階に下りて来た隆《たか》志《し》と花《はな》八《や》木《ぎ》は、暑さでフラフラになりながら、エレベーターから出て来た。
「——お疲《つか》れさん」
と、目の前に立っていたのは……。
「詩織! 無事だったのか!」
と、隆志は目を見開いて、言った。
「ええ。ほら、啓子さんも」
花子を抱《だ》いた啓子が、ロビーをやって来る。そして、隆志は信じられない思いで、啓子が、花八木の胸《むね》に、顔を埋《う》めるのを見ていた。
「種田が殺された時も、三船が殺された時も、花八木さんがそばにいたのよね」
と、詩織が肯《うなず》いた。「私としたことが、そんなことに気が付かないなんて!」
「じゃ……このおっさんが?」
三船の子分たちをやっつけたのも、花八木だったのか!
「全部、終りました」
と、啓子が言うと、花八木は、
「そうか、そりゃ良かった」
と、肯《うなず》いた。「最後に立ち会うつもりが、このヘボエレベーターに閉《と》じこめられてしまってな……」
「桜木さんは死にました。金太郎にやられて。でも、詩織さんが金太郎をやっつけてくれたの」
花八木は詩織を見てニヤリと笑うと、
「ほう。見かけによらず、やるな」
「お互《たが》い様よ」
と、詩織は言ってやった。
「——じゃ、あの刑事が! 信じらんないよ」
隆志は、目を丸くしている。
「ま、少々抜《ぬ》けてるのは事実としても、人は悪くなかったのよ。——ママ、お代り」
あの島で、ずいぶん食べてきた割には、成《なる》屋《や》家での詩織の夕食は、いつものペースだった。
「赤ちゃんはずっとそのお竜《りゆう》さんって人がみていたのね?」
と、母親の智《とも》子《こ》が言った。
「桜木さんが心配して連れて行ったのよ。種田や三船や金太郎が見つけたら、大変だから」
「でも、詩織、その金太郎っての。やっつけちゃったんでしょ?」
と、一緒に食《しよく》卓《たく》についているのは添《そえ》子《こ》である。
「ワッと飛びついたら、向うがびっくりして、銃《じゆう》口《こう》を下に向けて引金引いちゃったのよ。で、自分の足を撃《う》って……」
「逃《に》げ出して海に落ちて溺《でき》死《し》か。悪いことはできないよな」
と、隆志が言った。
「そうよ。隆志も気を付けて」
「どうして俺《おれ》が?」
「じゃ、あの桜木って人が地下街で詩織を人質にして騒ぎを起こしたのも、わざとだったの?」
と、添子が訊く。
「そう。種田や三船たちが、それを見付けてやって来ると分ってたから。花八木さんが、口をきいて桜木さんはすぐ釈放になってたのよ」
「しかし、たまたまお前を人質にしたばっかりに騒ぎはどんどん大きくなっちまったな」
「失礼ね」
と、詩織は隆志をにらんだ。「桜木さんは私のお節《せつ》介《かい》を見込んで、啓子さんをわざと一旦引き取るようにさせたのよ」
その見込みは間違ってなかった、と隆志は思った。
「でも、何でそんなことしたんだ?」
「啓子さんの身の安全を考えたのよ。種田や三船たちが、直接啓子さんを探すのじゃなくて、私の所へやって来るように仕向けたんだわ」
「じゃ、代りにお前や俺を危い目にあわせてたわけじゃないか」
「そのために!」
と、詩織が力強く言った。「あの花八木刑事がしつこくつきまとってたんじゃないの」
「あ、そうか。するとあの刑事、お前を見張ってりゃ、お前も安全だし——」
「種田や三船が現われるってことも分ってたのよ」
「なるほどね」
と、添子が肯《うなず》いた。「でも、あの刑事も相手が詩織じゃ、大変だったわね」
「どういう意味よ?」
「ま、気にすんなよ」
と、隆志は詩織の肩を叩いた。
「でもあの啓子って子、どこに隠れてたの?」
「そりゃ、花八木刑事だって、東京に来て、どこかに泊ってたわけだから……」
「あ、そこにいたのか!」
「結局、俺たち、知らない内に手伝いをやらされてたんだな」
「いいじゃない。私、後悔してないわ」
と、詩織は言った。
「そりゃ、お前はね、車のトランクにも放り込まれなかったし……」
「ブツブツ言わないの」
と、詩織はポンと隆志の肩を叩いた。
「ま、あの花八木ってのも、命がけで、必死だったんだろうな」
隆志は自分を慰めるように言った。
「でも——あの花八木ってのも、いいとこあるじゃない。自分が一手に罪を引き受けて」
と、添子が言う。
「啓子さんと花子さんが幸《しあわ》せになれば、それで満足みたいよ」
そうと分ってりゃ、もうちょっと優《やさ》しくしてやるんだった、なんて詩織は考えていた。
「花八木刑事もセンチメンタルだったんだ。お前といい勝負かもしれないな」
と、隆志は言った。
「うむ。その刑事は、いい詩のテーマになる」
と、成屋は構想を練っている。
——まあ、かくて大変な経験だったが、詩織はこの事件で、人間的にも成長し……。
「ママ、どうして、私のお皿《さら》には肉が少ないの?」
——成長したのだろうか?