「やっぱり、こういう所は平日に来なきゃね!」
と、白浜仁《ひと》美《み》は、軽くスキップして歩きながら言った。
「ちょっと! 仁美、そんなに先に行っちゃわないでよ」
と、母親の千代子が声をかける。
「大丈夫! 迷子になるのはお母さんたちの方よ」
と、仁美は言い返した。
「——あの子ったら」
と、千代子は仕方なしに笑った。
「まあいいさ」
白浜省一は、そう言って、まぶしいような晩秋の空を見上げた。
「気持のいい日ね」
と、千代子は言った。
「ああ」
白浜省一は肯《うなず》いて、「いい日を選んだ。そう思わないか」
「本当にね。そうだわ」
白浜省一と千代子が二人で歩いていると、何だか人目を引きそうだった。——何しろ、ここは東京ディズニーランドである。
仁美は、両親が一向に足を早めないのを見て、仕方なく戻って行った。
「——フリーの券を買っただろ。自由に乗ってろよ」
と、白浜省一は言った。
「だって、いざ離れちゃったら、捜すの、面倒だもの」
と、仁美は言った。「ね、そこで何か冷たい物、飲まない?」
「寒くないの?」
「喉《のど》がカラカラ!」
「じゃ行ってらっしゃい、お父さんと二人でその辺りにいるわ」
「うん」
仁美は、カウンター式のドリンクコーナーへと走って行った。
——確かに、前に来た時は日曜日だったので、入場するまでに一時間かかり、中でも行列、また行列。
三つぐらいのアトラクションを楽しんだだけで、疲れ切って帰って来たものだ。
「こんなに静かなのね、普通の日って」
と、千代子が言った。
「うん」
白浜省一は、ベンチを見て、「少し座ろうか。——疲れたろう」
「別に……」
と、言いながら、千代子はベンチに腰をおろして、息をついた。
「ここに座ってりゃ、仁美が来ても、見えるさ」
白浜省一は、周囲を見回して、「こんな所に背広なんかで来るんじゃなかった」
確かに、背広にネクタイという格好の人はほとんど見当らない。
東南アジアの観光客らしいグループが、にぎやかに通り過ぎて行く。
「——子供はどこの国も同じね」
と、千代子は微《ほほ》笑《え》んで言った。
「そうだな」
白浜省一は、少し潮の匂《にお》いを含んだ風を、大きく吸い込んだ。
——白浜省一と千代子の夫婦は、誰からも若く見られる。
実際には、白浜省一が四十五歳、千代子が四十一歳で、娘——一人っ子——の仁美が十五歳という、まあ標準的な年代なのだが、夫婦そろって童顔というか、坊ちゃんとお嬢さんという雰囲気が抜け切れない。
二人とも三十代の後半ぐらい、と見られることが多かった。
特に千代子は少し病弱で、あまり外へ出ない生活をしていたから、余計に色白で、お嬢さんらしさが残っているのかもしれなかった。
「今、何時だ?」
「——二時少し過ぎよ」
「四時ごろには出よう」
「空《す》いてるから、充分でしょう」
「そうだな」
と、白浜は肯いた……。
——一方、仁美はオレンジエードを飲みながら小さなテーブルで、園内の図面を広げて、
「ええと、この前はこれに乗らなかったんだよね」
と、確かめていた。「じゃ——こっちから回った方が便利か……」
ガヤガヤと、女の子のグループがやって来た。揃《そろ》って紺のブレザー。
同じ中学三年ぐらいかな、と思って見ていると、
「——仁美じゃない!」
と、メガネをかけた丸顔の一人が、目を丸くしてやって来た。
「あ、恵子か!」
小学校の時の親友だったのだ。「びっくりした!」
中学三年ともなれば、大分変っていて当り前だが、
「ちっとも変わんないね、仁美」
「そっちこそ」
と、仁美は笑って、「少しやせたって手紙よこしたじゃない」
「やせたのよ! 五百グラムも!」
と、恵子は強調した。「仁美、今日は何なの?」
「うん……。恵子は?」
「テストの次の日で休み。仁美も?」
「そうじゃないの。ちょっと用事でね」
と、仁美は曖《あい》昧《まい》に言った。「みんな学校の友だち?」
「そう。仁美、一人なの?」
「両親同伴」
「そう。元気、おばさん? 体の具合、どうなの?」
「まあまあね。こうやって出かけて来るぐらいだから」
「そうか。——よろしく言ってね」
並んで買っていた他の子が、
「恵子! 何にするの?」
と、呼びかける。
仁美は、
「行って。またその内——」
「うん。今度会おうね」
恵子が駆けていく。
中学の受験で別々になり、恵子の家が引っ越したこともあって、このところほとんど会っていない。
恵子たちは、飲物を買うと、早々に外へ出ることにしたらしい。仁美は、恵子がちょっと手を振って行くのを見て、ニッコリ笑って応《こた》えた。
またその内。——今度。
でも、もうそんなことは起《ヽ》こ《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》のだ……。
仁美は飲み終えて、外へ出た。遠くに、恵子たちの姿が見えなくなるところだ。
そして、仁美は歩き出したが……。
ふと、誰かに見られていると思った。どうしてそう思ったのか、よく分らなかったが、何となく、視線を感じたのだ。
振り向いた仁美は、サングラスをかけた男と、目が合った。いや——サングラスだから、相手の目は見えないのだが、その男が仁美を見ていたのは確かだった。
そして、仁美が振り向いても、その男は目をそらそうともせず、じっと立ち止って、仁美を眺めていたのだ。
薄いコートをはおったその男は、もう大分髪が白くなっていて、見たところでは六十歳ぐらいとも思えた。もっとも、仁美は男の人の年齢などよく分らない。
ちょっと気味が悪かったが、仁美は、そのまま両親を捜して歩きだした。
「仁美」
母が、ベンチで手を振っている。
「——ね、小学校の時一緒だった、恵子に会っちゃった」
「まあ、恵子ちゃん? あのメガネかけた丸顔の——」
「そう。今でもだよ」
「へえ」
「友だちと五、六人で来てた」
「お話ししたの?」
「少しね」
「そう。——良かったわね。どこへ行くの、今度は?」
「うん……」
仁美は振り向いた。——あのサングラスの男は、もう見えなかった。
「——おいしかった」
仁美は、ナイフとフォークを置いた。
「もういいの?」
「お腹《なか》一杯だよ」
と、仁美は言った。「でも、デザート、食べよう」
「そうしましょ。あなたは?」
「うん。——そうだな。何か食べるか」
ホテルの中の、静かなレストラン。
白浜の家族がよく利用するので、レストランの方でも、すっかり顔を憶《おぼ》えてくれている。
「今日のお肉は良かったよ」
と、仁美が一人前のことを言った。
「そうか。この前はちょっとな。ま、良かった」
ウエイターがすぐにやって来て、デザートのメニューを配る。
「私、このクレープ」
「十分ほどお時間をいただきますが」
「構いません」
と、千代子が言った。
——急ぐことはないのだ。
「ちょっと——」
仁美は、席を立った。
化粧室へ入って、手を洗う。そして、ふと顔を上げると、鏡に、いつもと変わらない自分の顔が映っていた。
ここへ来るのも、これで最後か。——仁美には、しかし、少しも実感がなかった。
そんなものかもしれない。
死ぬと決めても、人間、その場にならないと、怖いとも思わないものなのかもしれない……。
——白浜省一と千代子、そして仁美の三人は、このホテルに部屋を取っている。今夜、三人で薬をのんで死ぬつもりである。
学校も休んで、今日一日、最後の家族の団らんを楽しんだのだった。
化粧室を出た仁美は、すれ違った男の方を、ハッとして振り向いた。
今の人は……。サングラスをかけていたみたいだけど……。
もちろん、サングラスをかけた男が一人しかいないというわけではない。でも——偶然だろうか?
席へ戻ると、コーヒーと紅茶が来ていた。
「仁美、ミルクティーでいいのね」
と、千代子が言った。
「うん」
と、仁美は肯《うなず》いた。「いつもの通りね」
「そう。いつもの通りに、ね」
千代子は、夫の方を見て、「あなた、ここの支払いはどうするの?」
「そうだな……。現金で払っておくか」
「迷惑はかけたくないわ」
「そうだな」
と、白浜は肯いた。「現金にしよう」
デザートが来て、仁美はきれいに平らげてしまった。
食事が喉《のど》を通らないのでは、と思っていたのだが、そんな心配は不要だったようだ。
「そろそろ部屋へ行くか」
と、白浜が言った。
九時半だった。
広いツインルームに、エキストラベッドを入れてもらって、部屋は快適そのものだった。
「——さあ」
と、千代子はカーテンを閉めた。「ちゃんとお風呂へ入って、きれいになってからね。あなた、先に入って」
「そうするか」
仁美は、父が上《うわ》衣《ぎ》とネクタイをハンガーへかけて、バスルームへ入って行くのを、ベッドに引っくり返って、見ていた。
「——仁美」
と、千代子が言った。
「なに?」
「お手紙とか、書く?」
「別に。——でも遺書は、置いといた方がいいよ。見付けた人が、迷わなくてすむし」
「そうね」
と、千代子は微《ほほ》笑《え》んだ。「何だか眠くなったわ」
「後で、ゆっくり眠れる」
「本当にね。——ここ何日も、ろくに眠れなかったのに……」
千代子は、ソファに腰をおろした。
バスルームから、お湯の入る音が聞こえて来る。
仁美は、起き上がると、
「お母さん」
「え?」
「どこかへ行ってようか」
「どこへ?」
「下の喫茶とか。お父さんと、最後に二人きりになりたいでしょ」
千代子は、少し頬《ほお》を染めた。
「そう……。いいの?」
「うん。下でジュースでも飲んで来るから」
仁美は靴をはくと、「一時間? 二時間?」
「一時間で充分よ」
と、千代子は言った。
「じゃ——一時間半。ごゆっくり」
仁美は、部屋を出た。
エレベーターでロビーへ下りると、コーヒーラウンジへ入る。
お腹はもう満腹。奥の席について、コーヒーを頼んだ。
本でも持って来りゃ良かった、と思いながら、表の車の流れを見ていると、
「失礼」
と、声がした。「いいかな?」
振り向いた時には、そのサングラスの男は、もう向い合った席に座っていた。
「あの……」
「私もコーヒーを」
と、ウエイトレスに言って、「——びっくりさせてすまないね」
近くで見ると、老人というには若々しい。
六十歳ぐらいかな、と思った。しかし、少しも老人くささは感じられない。
「あの——ディズニーランドでも」
「そう。さっき、ここのレストランでも会ったね」
口調は穏やかで、自然だった。
「何かご用ですか」
と、仁美は訊いた。
「間違ってたら、申し訳ないが」
と、その男は言った。「君たち一家が、一家心中しようとしているんじゃないかと思ったんでね」
仁美は、凍りついたように、動かなかった。
二人の前にコーヒーカップが置かれ、熱いコーヒーが注がれる。
「ごゆっくりどうぞ」
ウエイトレスの声が、仁美の耳を素通りして行く。
「——やっぱり当ったかな」
と、男は言った。「誤解しないでくれよ。私は、心中を止めようとしているんじゃない。君らなりの考えがあってのことだろう。しかし、できたら、その事情を話してみてもらえないかね」
仁美は、ゆっくりとコーヒーにミルクと砂糖を入れた。
スプーンでかき回しながら、
「父は、祖父から会社を受け継いだんです」
と、言った。「創業者はその父親で、父は三代目の経営者でした。ところが——」
一口、コーヒーを飲んで、
「実質的に会社を動かしていた専務が、こっそり株を買い占めたり、得意先を味方につけておいて、突然独立してしまったんです。——父はあわてました。坊ちゃん育ちで、人を疑ったことのない人です。会社は仕事が三分の一ぐらいまで減って、材料の支払いができなくなりました。そこへ古い知人が、儲《もう》け話がある、と持ちかけて来て——」
「大損か」
「ええ」
と、仁美は肯いた。「その人も、専務に頼まれていたんだと後で分りました」
「ひどい話だね」
「何億円もの借金をかかえて……。家も全部抵当に入っていました。父は、残った現金を、社員へ分けて、退職させ、私と母に、家も何もかも失うことになった、と話してくれました」
「なるほど」
「それでも、まだ借金は残っています。取り立てに追われ、住む家もなくて逃げ回るなんて、とても……。母は体が弱いので、無理がききません。それで話し合って、こうすることに決めたんです」
「しかし……君はまだ若い」
仁美は首を振って、
「父と母を死なせて、一人で生きてるなんて、いやです。——父も母も、人はいいんですけど、逞《たくま》しさなんてない人だし、惨《みじ》めな暮しをするぐらいなら、死んだ方が、という方ですから」
「なるほどね」
と、男は、ゆっくりとコーヒーを飲みながら、「気の毒な話だ」
「でも、薬をのんで眠っちゃうだけですから。——大して苦しくないと思うし」
男は、少し間を置いてから、
「どうかね」
と、言った。「君らに頼みがある」
「え?」
仁美は面食らった。「あの世の誰かへ伝言でもあるんですか」
男は、愉快そうに笑った。
「いや、面白い子だね、君は」
「そうですか」
「実は、ちょっと危険を伴う仕事があるんだ。これをもし引き受けてくれたら、君の家の借金はすべて私が肩代りしよう」
仁美は呆《あつ》気《け》に取られて、その男を見ていた……。
「——もう一時間半たつわ」
千代子は、ベッドから出ると、「仁美が戻って来るわよ」
「もう?——時間がたつのが早かったな」
白浜は息を弾ませて、「いや、最高だった!」
「早くして」
と、千代子は急いで下着をつけると、バスルームのバスローブをはおった。「あの子が気をきかしてくれたのよ」
「いい子を持って幸せだ。いや、幸せだった、と言うべきかな」
部屋のチャイムが鳴った。
「ほら、早く!」
「おっと」
白浜はあわててベッドから飛び出した。「バスルームでシャワーを浴びてる」
「ええ」
千代子は、ドアを開けて、「お帰り……。あら」
「お客様よ」
と、仁美は言った。
「まあ、あの……。すみません、ちょっとお待ちを」
と、千代子は赤くなって、言った……。
——十五分後、サングラスを外したその紳士は、仁美に言った言葉をくり返していた。
「分りませんね」
と、白浜は言った。「どうして私たちにそんな……」
「これは家族でしかやれない仕事です」
と、その男は言った。「本《ヽ》物《ヽ》の《ヽ》家族しか。しかも、危険がある」
「どんな危険です?」
「命にかかわる、と言っておきましょう」
と、男は言った。「引き受けて下されば、もっと詳しいことをお話しします」
「はあ……」
白浜と千代子は、顔を見合わせた。
「お疑いでしょうか」
と、その男は言った。
「いや……。しかし、負債は五億円以上ですよ」
「ご心配なく」
と、男は言った。「取りあえず、ここに現金で三百万あります」
一万円札の束が三つ、置かれた。
「これで、あなた方三人、その家へ移り住むために必要な支度をして下さい。その上で——」
「待ってください」
と、仁美は言った。「その危険っていうのは……。殺されるとか、そんなことなんですか?」
「私にも分りません」
と、男は首を振った。「——あなた方は、これから死のうとしている。それは楽な死でしょう。この頼みを聞けば、恐ろしい目にあったり、殺されかかったりするかもしれない。それは事実です。しかし——もし、無事にこの仕事をやりとげて下されば、あなた方には自由が待っている」
「自由……」
と、千代子が呟《つぶや》いた。
「借金も何もない、三人の生活が、です。どうです?」
——しばらく、誰も口をきかなかった。
仁美が、その三つの札束の一つを手に取った。
「私、今度はベッドにしよう。ずっと布団だったんだもの」
「仁美——」
「どうせ死ぬのよ。——やってみようよ。少し痛い思いしても、一人でも生き残れば……。ね、お母さん」
「あなた……。どうする?」
白浜は、ギュッと手を握り合せた。
「お父さんはいいの」
と、仁美が言った。「私とお母さんが言えばついて来る。——ね、お父さん」
白浜は、二人の顔を見て苦笑した。
そして言った。
「俺《おれ》には、何を買ってくれるんだ?」