翌日は日曜日だった。前の晩、三時過ぎまで起きていたので、瞳が目をさましたのは、もう十時半に近かった。もうろうとした頭で、どうして今朝はこんなに眠いのかしら、と考え考え、カーテンを開ける。
十月も半ば。爽《さわ》やかな秋晴れである。
「気持ちいい!」
思わず口に出る。えいっと存分にのびをして、家にいるのがもったいない日だな、と考える。どこかに出かけたい。でも、どうせ午後からは学校へ行かなくちゃ。練習がある。
そう考えてきて、はっとした。ストラディヴァリ! そうだった!
「新聞だわ!」
瞳はパジャマのまま部屋を飛び出し、階《し》下《た》へ急ぐ。食堂へ飛び込むと、佐野がトーストをかじりながら、新聞を広げている。家政婦のおばさんが目を丸くして、
「まあ、何です、お嬢さん、そんな物凄い勢いで」
でっぷり太った、このおばさんの名前を、未だに瞳は知らない。「おばさん」とだけ呼んでいるし、またそう呼ぶのがぴったりなので、名前を知りたいとも思わないのだ。
「先生、何か出ていますか?」
「いや、さっぱりだな」
佐野は首を振って、瞳へ新聞を渡した。
「一体何の騒ぎです? 先生の記事でも出てるんですか?」
おばさんがゆで卵を瞳の前へ置きながら言った。
「それどころじゃないのよ、おばさん」
瞳はせっせとページをめくったが、新聞には「ストラディヴァリ」の「ス」の字もなかった。
「先生、どういう事なんでしょう?」
「さてな。……わしにもさっぱり分からん」
「何が分からないんです?」
とおばさんが口を挟む。
「何が何だかさっぱり分からんのさ」
「まあ、よく分かったお話で」
瞳はアメリカン・コーヒーにミルクを注いで、ゆっくりかきまぜながら、
「どうしたらいいんでしょう?」
「わしに任せておきなさい。今日、会うことになっている友人が、かなりストラディヴァリに詳しいから、事情を説明してみよう。お前は一応、まだ誰にも言わずにおきなさい」
「はい」
「まあ、また電車が停まるんですか?」
とおばさんが口を出した。佐野と瞳が顔を見合わせると、
「だって、今『ストライキ』がどうとかおっしゃってたじゃありませんか」
佐野が出かけてしまうと、瞳は部屋へ戻って、もう一度新聞を詳しく見直した。
もしあのストラディヴァリが、何かいわくのある物だったら、盗難や紛失を公にしたくない事情があるのかもしれないと思ったのだ。「尋ね人」の広告、「求人広告」の欄を読んで行くうちに、ふっとある欄に目が止まった。
「求・VN・中古可。価格面談。乞連絡。クレモナ」
とあって、電話番号が入っている。VNはVnでヴァイオリンの略号だから、ただ単に中古のヴァイオリンを買いたいという広告なのかもしれない。しかし、瞳は「クレモナ」という名に引っかかった。クレモナはストラディヴァリだけでなく、アマティ、ガルネリといったヴァイオリン作りの名人たちがその作品を作った土地の名前なのである。
「怪しいな……」
瞳は人一倍好奇心の強い性質である。しかも、初めてキスした相手が何やら怪しげな男だったと知って、甚だプライドを傷つけられている。ここは一つ、探偵の真似事をしてみよう、と思い立った。
思い立つとすぐ行動に移さねば気の済まない瞳である。早速、広告の番号へ電話しようとしたが、ふと考えた。
「そうだ! もっといい手があるわ」
瞳の従姉《 い と こ》で、電電公社の電話交換手をしている英《ひで》子《こ》というのがいる。ちょうど昼休みの時間だったので、瞳は英子に電話した。
「あら、瞳ちゃん、久しぶりね」
従姉といっても、もう二十四歳のOLである。たまに会えばセーターの一枚ぐらい買ってくれるので、瞳も姉代わりによく会っていた。
「今日は。忙しい?」
「ううん、別に。何の用事?」
「ちょっとね、調べてほしいの。電話番号から住所を」
「いいわよ。何番?」
ちょっと時間はかかったが、住所は青《あお》山《やま》の一角、マンションの一室らしいと分かった。
「ありがとう、英子さん」
「いいえ。でも何なの、一体?」
「ちょっと、ね」
「ボーイフレンドか何かの電話なの?」
「そんなところ。また遊びに行きます」
——瞳は時計を見た。今、出かければ、青山を回って、十分時間までに学校へ着けるだろう。
その住所へ行ってどうするという考えもなかったが、ともかく瞳は出かける支度をした。ヴァイオリンは仕方ないので、昔自分が使っていたのを持って行く事にする。まさか何千万円の品を持ち歩くわけにも行かない。
「今日はまた、早いお出かけですね」
おばさんが、玄関で靴をはいている瞳へ声をかけた。
「ちょっと寄る所があるの。じゃ、行って来ます」
いつもの通り、右手に赤いこうもり傘、左手にヴァイオリンケースというスタイルで、瞳は元気よく家を出る。「ちょっと寄る所」で何が待ち受けているのか、晴れ渡った空に口笛を鳴らしながら歩く瞳には予感すらなかった……。
十五階建て、レンガ色の外観をした、豪華なマンションを見上げて、瞳はしばしためらった。——住所の最後は「一五〇四」だったから、最上階の四号室ということだろう。それにしても、行ってどうすればいいのか。
「ストラディヴァリを拾ったんです」といって、向こうがどう出て来るか見当がつかない。それに佐野が、自分に任せるようにとも言っていたし……。
でも、せっかく来たのに、とそそのかす声もする。ここまで来て帰ったんじゃ、何のためにわざわざ足を運んだのか分からない。ともかく部屋の表札だけでも見てこよう。
瞳は玄関のホールを抜けて、正面のエレベーターに乗り込んだ。「15」のボタンを押すと、静かに箱が上がり始める。
「そうだ」
ふっと思いついた。何もストラディヴァリのことを持ち出さなくたっていい。新聞で広告を見たので、このヴァイオリンを買ってもらいたくて来ました。——そう言えばいいのだ。値段がどうも、といって帰ってくれば、何も怪しまれることはないだろう。
——十五階に着いて、扉が開く。瞳は静かな廊下へ足を踏み出した。何気なく頭をめぐらすと、ちょうど隣のエレベーターの扉が閉まるところだった。中に乗っているのは外国人で、扉が閉じるまでの、ほんの一瞬、瞳とその外人の視線が合った。
ドイツ人だ、と瞳は思った。父の海外演奏旅行について、何度かヨーロッパを回ったことがあるので、直感的に分かるのである。
明るい金髪、鋭い顔の輪郭、切れ長の碧い目、薄い唇。典型的なドイツ人の顔だ。瞳は、ほんのチラッと見ただけの、その外人から、しかし何か得体の知れない強烈な印象を受けた。一分《ぶ》の隙もない身だしなみ。そして無表情な顔立ちから、何かぞっとするような冷酷さを感じたのである。
考えすぎよ! 緊張してるから……。瞳は息をついて、廊下を歩き出した。「一五〇一」「一五〇二」……。ここだわ。「一五〇四」
表札は空白になっている。瞳は咳《せき》払《ばら》いして、ちょっと呼吸を整えると、チャイムに手をのばした。押すと、ドアの奥で、チャイムの鳴るのが、かすかに聞こえる。しばらく待ったが、応《こた》えがない。
「留守かな」
もう一度押してみよう、と手をのばしかけた時、急にドアが開いた。
「——あ、あの——すみません」
瞳が慌てて頭を下げる。立っていたのは、がっしりした体つきの中年男で、驚いたような目つきをしていた。
「あの——新聞の広告で見て来たんですけど……」
瞳は口をつぐんだ。相手の様子がどこかおかしかったからだ。目は虚《うつ》ろで、どこか遠くを眺めているようだった。一体どうしたんだろう?——突然、男は二、三歩後ずさりすると、絞り出すような声で、
「伯爵!」
と言った。そして崩れるように、その場に倒れてしまった。瞳は自分の見ている物が信じられなかった。目の前に男が倒れている。そしてその背中には深々とナイフが突き刺さって、柄が不気味に飛び出ているのだった。
どれぐらいの間、そこに立ちすくんでいたのだろうか。我にかえった瞳は、必死に膝《ひざ》の震えを押さえると、どうすればいいのか、考えた。
「警察——警察だわ!」
口に出して言ってみる。そうしないと、自分で考えをまとめられないのだった。——けれど、どうやって連絡すればいいだろう?
電話? 部屋の中へ入らなくてはならない。初めて瞳は部屋の中を見回す余裕ができた。そこは簡素なオフィスのようで、机と椅《い》子《す》、ソファなどが、がらんとした部屋に置いてあるだけだった。机の上に電話がある。勇気をふるい起こして、瞳は部屋の中へ、恐る恐る足を踏み入れた。倒れた男は、もうピクリとも動かず、はっきり死んでいると分かった。瞳は極力死体から遠くを回って、奥の机の方へと歩いて行った。
電話へ手をのばしかけた時、廊下を近付いて来る靴音が耳に入った。かなり足早にこっちへやって来る。それも一人ではない。一瞬迷った末、瞳は、長いソファの後ろへ飛び込んで、壁との狭い隙間に伏せて身を隠した。危機一髪、足音が戸口でピタリと停まった。
「何てことだ!」
喘《あえ》ぐような声がして、倒れている男へかけ寄る気配がする。もう一つの靴音が入口で一旦停まって、それからゆっくり部屋の中へ入って来た。
「デッド?(死んでるか?)」
イギリス人だわ、と瞳は思った。
「イエス」
二人の会話は英語になった。瞳は父の教育と海外旅行のおかげで、英会話には不自由しない。じっと身動きもせず、息を殺して、瞳は二人の話に耳を傾けた。
「気の毒に……」
とイギリス人が呟《つぶや》く。
「彼は優秀だったのに」
「相手はよほどのプロだな」
「ナイフが変わってるな」
「ドイツの品だ。よく切れる」
「一体何者だろう?」
「分からない……」
しばらく沈黙があって、日本人の方が言った。
「警察へ届けるかね?」
「それはできない」
相手はきっぱりと言った。「極秘で処理してほしい。——気の毒だが」
「分かった」
日本人はため息をついて、「仕方あるまい」
「しかし不思議だ。——ヴァイオリンの盗難と、この殺人がどう結びつくのだろう?」
ヴァイオリンの盗難! 瞳は息を呑んだ。では、やはりあのストラディヴァリが関係しているに違いない。それにしても、この二人はどういう人間なのだろう。殺人を警察にも届けないという。ともかくまともな手合いではないに違いない。
瞳は改めて、自分の立場を考えてぞっとした。いつまでここに、こうして隠れていられるだろう? 見つかったら、どうなるだろうか。ああ、まさかこんなことが、自分に 起きるなんて! いくら冒険好きでも、これはちょっと行き過ぎだわ!
二人の男は、部屋の中を調べ始めた。足音が、ソファのすぐ前を行き来する度に、瞳は肝を冷やし、じっと息を殺していた。
「——手掛かりらしい物もなさそうだな」
イギリス人の方が言った。「ここを出よう」
日本人の男が、ちょっと驚いたように、
「死体を置いて行くのか?」
「鍵《かぎ》をかけて行くさ。後は君の部下に任せるよ」
「——分かった」
二人は部屋を出て行った。ドアがカチリと音をたてて閉まり、足音が廊下を遠ざかって行く。
助かった! 瞳はほっと息をついた。そろそろとソファの後ろから這《は》い出し、立ち上がったが、長い間、身動きしなかったので、体のあちこちが痛んだ。いつの間にか額は玉の汗、こうもり傘とヴァイオリンケースを握りしめた手も、じっとり汗ばんでいる。
「——こうしちゃいられないわ」
早く出て行かないと、今の男たちが、ここへ誰かをよこすと言っていた。ともかくここから早く遠くへ離れること。警察へ連絡するのはその後だ。
鍵がかかっているといっても、内側からはいつでも開く。ノブをそっと回すと、カチリと音がして、鍵が外れた。何か落とした物でもないかと、部屋の中を見渡してから、素早く廊下へ滑り出た。——思わず立ちすくむ。左右にさっきの二人が立ちはだかっていたのだ。
しまった! 瞳は唇をかんだ。ソファの後ろに隠れているのを気付かれていたのだ。まんまとトリックにかかってしまった。
男たちの方も、瞳を見て面食らったように、顔を見合わせた。
「子供じゃないか!」
と日本人の方が呆《あき》れたように言う。
「見張るドアを間違えたかな」
イギリス人が壁にもたれて、皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「おい、一体この部屋で何をしていたんだ?」
日本人の男がつかつかと歩み寄って来て、乱暴に瞳の左腕をつかんだ。瞳はカッとした。右手につかんだこうもり傘で思い切り男の腹を突くと、男はウッとうめいて身体を折った。瞳は素早く男のわきを駆け抜けて、廊下を突っ走る。一瞬、呆気に取られていたイギリス人が瞳を追って駆け出した。
廊下が長すぎた。何といっても男の足にはかなわない。たちまち瞳は追いつかれて、壁を背に、イギリス人と対した。思い切って突き出したこうもり傘を、相手は驚くような身軽さでかわすと、瞳の腹へ拳の一撃を与えた。鈍い痛みが襲いかかって来て、瞳の視界が不意に暗くなる。そして、そのまま意識を失ってしまった。