瞳はふと目を見開いた。——見慣れぬ天井が見えた。頭が重く、みぞおちのあたりに、鈍い痛みがかすかに残っている。
そうだ。あのマンションの廊下で殴られて……。一瞬で、すべてを思い出した。そうすると、ここはどこなのだろう。あのイギリス人らしい男に運ばれて来たに違いないが……。
瞳は、長いソファに横たえられていた。別に、手足も縛られてはおらず、自由だった。そろそろと頭をめぐらせてみると、純英国風の調度——本棚、サイドボードなどが目に入った。それほど大きな部屋ではないが、優雅で、風格のある部屋だ。とてもギャングの巣には見えない。
瞳はソファから起き出した。部屋には誰もいないし、ひどく静かだ。部屋の奥にどっしりとしたデスクがあった。近づいてみると、きれいに片付いた机の上に、便せんの束が重ねてある。便せんに刷り込まれた文字を何気なく覗《のぞ》き込んで、瞳は思わず目を疑った。
「英国大使館」
とあるではないか!
その時、ドアが開いた。はっと振り向くと、あのイギリス人が立っている。瞳を見ると彼は微笑んだ。少しも敵意や警戒心を感じさせない、愉《たの》しげな笑顔だった。
「ダイジョウブ?」
イギリス人が、かたことの日本語で言った。
「アー……ナオッタカ?……ソノ……」
瞳は英語で、
「何ともありません。ただ、ここがどこなのか、あなた方がどういう人なのか教えて下さい」
と言った。淀《よど》みない英語に、イギリス人が目を丸くした。
「これは……大変美しい発音だ」
「ありがとう」
「それなら安心して話ができる。まあ、ソファに座りなさい」
彼は瞳と向かい合って腰を降ろすと、「ところで、あんな目にあわせたお詫《わ》びを、まずしておこう。しかし君がなかなか手《て》強《ごわ》かったのでね。——フェンシングをやるのかね?」
「少し」
「そうだろう。あの突きの鋭さは並み大抵ではなかった。会《あい》田《だ》は——一緒にいた日本人だが、まだ痛みが取れないと言ってる」
「すみません。だって私、てっきり、あなた方が何か怪しい人だと思って」
「怪しい、といえばお互いさまだ」
相手は軽く笑って、「まず、こっちから説明すると、ここは英国大使館の中、私は大英帝国の下僕の一人だ。——ジェイムスと呼んでくれないか」
「ジェイムス……」
「ジムと略さずにね。ところで君の方は、身分証明書を見せてもらったところでは、学生さんだね。それも音楽部の」
「ええ」
「どうしてあの部屋にいたんだね?」
瞳は新聞広告で、ヴァイオリンを買ってもらえると知り、電話よりは直接行った方がいいと思って、住所を調べて尋ねて行ったのだと説明した。むろんストラディヴァリの件には触れない。
「それで、君が行った時、あの男はもう死んでいたのかね?」
「いいえ、ドアを開けてから倒れたんです」
ジェイムスと名乗ったイギリス人は、それを聞くと、思わず身を乗り出して、
「では、彼は何か言わなかったかね? 倒れる前に、犯人が誰なのか言わなかったか?」
「さあ……。犯人のことを言ったのかどうか分かりませんけど……」
「何か言ったんだね?」
「ひと言、『伯爵』と……」
「伯爵!——確かだね?」
「ええ」
ジェイムスが真剣な表情になって、肯いた。
「そうか。……とうとうやって来たな」
と呟く。「それにしても、よりによって、こんな時に……」
「知ってるんですか?」
ジェイムスは、もとの優しい表情に戻って、
「いや、君は知らなくていいことさ。忘れるんだ、あの部屋で見たことも聞いたことも」
「でも、人が殺されたのに!」
「分かっている。しかしこれは警察の力でどうなるものでもないんだよ。君は不服だろうが、そこは——」
その時、ドアが開くと、瞳が傘でやっつけた、あの日本人が入って来た。
「おや、剣豪のお目ざめか」
会田という、その男は瞳の身分証明書、ヴァイオリンケース、それにこうもり傘をかかえていた。「さあ、君の持ち物を返すよ」
「すみませんでした、さっきは」
瞳が頭をかくと、
「いやいや、油断したこっちが悪いのさ。もう何ともない。——ジェイムス、何か分かったのか?」
「犯人がね」
「誰だ?」
「『伯爵』だよ」
会田という男は、何かを思い出そうとしているように、眉《まゆ》を寄せて、
「待てよ。君が言おうとしているのは、あのドイツ人のことじゃないんだろうね?」
「正にそのドイツ人さ。殺された長田は、伯爵を知っていた」
「しかし——まさかあの伯爵が——」
「それ以上は言うな」
ジェイムスが遮った。「彼女は英語が分かる」
会田は慌《あわ》てて口をつぐんだ。瞳は、ジェイムスに向かって、
「あの……今、ドイツ人っておっしゃいましたね」
「言ったが……心当たりがあるのかね?」
「私があの階でエレベーターを降りた時、入れ違いに隣のエレベーターで降りて行った外国人がいたんです。ドイツ人だったと思いますわ」
「どんな男だった?」
瞳は、あの金髪の、冷酷な印象を与えた男のことを説明した。聞いていたジェイムスはゆっくり肯いた。
「間違いない。君は殺人者と顔を合わせていたんだよ」
「教えて下さい。あの部屋で、あなたが話していた、ヴァイオリンの盗難って、どういうことなんですか?」
瞳、ジェイムス、会田の三人は、大使館の美しい庭に面したロビーに腰を降ろして、紅茶を飲んでいた。午後三時、お茶の時間である。瞳の問いに、会田は困ったように顔をしかめたが、ジェイムスはあっさり、
「いいだろう」
と肯いた。「君は信用できる女の子だと思うよ」
「決して口外しません」
「そう願わなくては」
ジェイムスはチラリと周囲に視線を投げた。ロビーに人影はまばらで、近くの席には誰もいなかった。
「さて、君も聞いているかもしれないが、今、我が国のBBC交響楽団が日本各地で、公演を行っている」
瞳は胸が高鳴るのを覚えた。
「一週間後には、女王陛下のご臨席の下に、東京で記念公演がある。ところで、BBCは一昨日、九州で公演を行って、それから休養のため、箱《はこ》根《ね》へ向かった。ところが、博《はか》多《た》から大《おお》阪《さか》へ向かう新幹線の中で、大変な事件が持ち上がったんだ」
「何があったんです?」
ジェイムスはちょっと間を置いて、
「楽器を盗まれたのだ」
「ヴァイオリンを?」
「ヴァイオリンとヴィオラ、合わせて十二台」
「そんなに?」
瞳は目を丸くした。「どうしてそんなことに……」
「楽器類を楽団員の乗っているのと別の車両に集めておいたんだ。そして日本側の関係者の一人が見張っていたが、その男は殴られて気を失っていた」
「まあ」
「犯人はもちろん一人じゃあるまい。たぶん博多を発って早々に、見張っていた男を襲い、広《ひろ》島《しま》、岡《おか》山《やま》などに着くたびに少しずつ降ろしていたんだろう」
「でも一体誰がそんなことを?」
「分からない。ただし——一つだけ分かっているのは、犯人が誰にせよ、そいつはヴァイオリンに詳しい奴だ」
「どうしてです?」
「盗まれた十二台の楽器は、ストラディヴァリ、アマティ、ガルネリといった楽器ばかりなんだ」
瞳は息を呑んだ。
「でも……でも……何のために、楽器を?」
「金さ」
「お金……」
「いわば楽器誘拐事件だ。連中は身代金を要求して来たんだよ」
「まあ、ひどい!」
「確かにいい所に目を付けたよ。楽器なら、人間と違って、どこにでも隠せるし、顔を憶えられる心配もないわけだ」
「どれくらい要求して来たんですの?」
「一億円」
瞳は思わず、ソファに座り直した。しかし考えてみれば、盗まれた楽器の一つ一つが、一億円しておかしくない銘器なのだ。決して多額な要求とはいえない。
「払うんですか?」
「もし払わなければ楽器を破壊すると言っている」
瞳は猛烈に腹が立った。ヴァイオリンを愛する者として、許せない、と思った。
「もちろん、この件は一切公表を控えている」
ジェイムスは続けた。「楽器を無事に取り戻すのが第一だし、それに女王陛下のためのコンサートに水をさすようなことになっては困る」
「でも、そんな奴、ぜひ捕まえなくちゃ!」
「まあ、むろん、それが一番望ましいんだがね」
「何か手掛かりは?」
「今のところは、何もない。犯人側から、具体的な、金の支払い方法などの指示が来るのを待っている段階だよ」
「それじゃ、あの新聞広告は犯人への連絡だったんですね」
「その通り。あそこは会田の事務所でね、殺された長《おさ》田《だ》は、彼の部下なんだ。まあ、日本における英国の出先機関というかな」
瞳はさめかけた紅茶を飲みほすと、
「私、昨日、拾い物をしたんです」
「ほう。何だね?」
「ストラディヴァリです」
「その若者がすり換えたのは確かなんだね?」
「ええ」
会田の運転する車が、今、佐野の家へ急いでいた。ジェイムスは瞳から詳しい事情を聞く と、すぐに大使館の車を回させたのである。
「BBCから盗まれた楽器でしょうか?」
「ストラディヴァリなんて、そうあちこちにあるというものじゃないからね」
「そうですね……」
けれども、あの裕二という若者。電車の中で見せた正義漢ぶりを見ても、とても楽器泥棒だとは瞳には信じられなかった。それに、万一盗んだ楽器だったとしたら、なぜ瞳のそれとすり換えたのか?
謎《なぞ》だ。——でも、と瞳は思った。謎といえば、このジェイムスと名乗った男も、多分に謎めいた人間だ。年齢は四十歳前後だろうか、ほっそりとした体に、いかにも強《きよう》靭《じん》な筋肉を持っているのが分かる。顔立ちは二枚目というより、やや冷たい感じさえ受ける。でも、たまにふと見せる笑顔は思いがけないほど人なつっこく、暖かい……。
「一つ訊いていいでしょうか?」
と瞳は言った。
「いいとも」
「あの伯爵という男はどう関係してくるんですか?」
「彼は、これとは全く関係ない。彼が用があるのは私だけさ」
「あなた?」
「彼は私を殺すために来ているんだ」
ジェイムスは事もなげに言う。
「なぜ?」
「伯爵は金で殺人を請け負う殺し屋なんだ。それもヨーロッパで屈指の殺人のプロだ。私を狙って日本までやって来たというわけさ」
「どうしてあなたを狙うんです?」
ジェイムスはニヤリとして、
「これでも、その筋ではちょいと目立つ存在なのでね。それに、伯爵は私を殺すことを、自分の一つの目標にしているんだ」
「それで、どうするんです?」
「なに、どうしようもない。こっちは自由には動けないからね、今のところ」
「気を付けて下さい」
「ありがとう」
瞳は外の景色に気付いて、運転席の会田へ声をかけた。
「あ、その先を左へ入るんです。——そう、そこです」
佐野邸の門が見える所へ来て、車は急に停まった。
「おい、パトカーだ!」
門の前に三台のパトカーが停まっている。赤いランプが明滅し、制服警官が、集まって来る野次馬を散らしていた。
「何かあったんだわ!」
つい数時間前、死体を見たばかりの瞳は、急に佐野のことが心配になった。
「先生!」
車を降り、門へと急ぐ。ちょうどそこへ、佐野が苦虫をかみつぶしたような顔で現れた。
「先生! どうしたんですか?」
「なんだ、君か。いや、空き巣に入られてな」
「空き巣? じゃおけがは?」
「わしゃ大丈夫だ。ところが大変なことになったよ」
「どうしたんです?」
佐野は肩をすくめて、
「例のストラディヴァリを盗まれたんじゃ」