「それで、ジェイムス、ヴァイオリンを取り戻すことはできそうかね?」
サー・ジョンがワインを満足気に飲み込んで言った。
サー・ジョンの夕食の席には、副指揮者のローマー、それに——瞳の食欲を著しく阻害したのだが——水島早苗が同席していた。昼間見た時とは見違えるような、派手なドレスを着込んで、真正面に座ったジェイムスヘ、いわくありげな視線を向けている。
「明日、犯人たちともう一度交渉します」
ジェイムスが淡々と言った。
「巧《うま》く行きそうかな?」
「何とも申し上げられませんね、サー・ジョン。何しろこちらは連中のことが何一つ分かっていないのですから」
「これだけ時間がありながら、一体何をやっていたんだ」
副指揮者のローマーが口を挟んだ。質問ではなく、非難の口調だった。瞳はムッとした。ジェイムスは命がけで闘っているのに……。
しかし当のジェイムスは平然として、
「一億円ばかり犯人に進呈しましたがね」
「しかし取り戻せなかったんだろう?」
「その通りです」
「我々英国民の税金だぞ! 何たる無駄づかいだ!」
瞳は目の前のコップの水をローマーヘひっかけてやりたくなった。
「まあ待て、ジャック」
サー・ジョンがローマーを制した。「ジェイムスは決して仕事を怠ける男ではない。それは私がよく知っている」
「本当にその通りですわ」
水島早苗があいづちを打つ。
「ありがとう」
ジェイムスが微笑む。瞳は、はなはだ面白くなかった。
「ミスター・ローマー」
ジェイムスは、仏《ぶつ》 頂《ちよう》 面《づら》の副指揮者へ向かって言った。「誘《ゆう》拐《かい》事件の基本は、まず何よりも第一に、人質を無事取り戻すことです。犯人を捕えるのは第二の目的でしかありません」
「しかも、人質は、人間よりもずっと傷つきやすいときておる」
サー・ジョンが嘆息した。「いや、人間より大切だというのではないぞ。ただ、人間は少々のけがなら回復するが、ヴァイオリンは一旦傷つけば元には戻らん」
「本当に、貴重な品ばかりを……」
早苗が眉を寄せて、「憎らしい犯人だわ」
「たとえ犯人を捕らえても、ヴァイオリンが破壊されてはどうにもならない」
とサー・ジョンは言った。「しかし、たとえヴァイオリンが戻っても、そのために人命が失われては何にもならない。——ジェイムス、十分に気を付けてくれ」
「ありがとう、サー・ジョン」
瞳はこの老指揮者に心から尊敬の念を覚えた。心の広がりに包み込まれるような気がした。
「明日はどこで金を渡すことになっておるのかな?」
「ロープウェイです」
「ああ、大涌谷へ行く——」
早苗が肯いた。「でも、どこで?」
「分からない。金を持ってゴンドラに一人で乗れと言われているだけでね。犯人がどこで待っているのか、分かっていないのです」
「確かいくつか途中に駅があるわね」
「早雲山から大涌谷、姥《うば》子《こ》を経て、桃《とう》源《げん》台《だい》へ着く」
「その間のどこか、というわけね」
「駅とは限らないな」
ローマーがしたり顔で口を出す。
「当たり前よ。駅なら、張り込まれると誰だって考えるでしょう」
「しかし駅でないとすると、どこだ?」
とサー・ジョン。
「たとえば……途中ですれ違うゴンドラに渡す、とか」
「ゴンドラとゴンドラの間はかなり離れていますよ、ミスター・ローマー。金の入ったボストンバッグを渡すのは難しい。窓がほんの少ししか開かないし、ゴンドラは秒速二メートルで動いている。すれ違う時は合計秒速四メートルの速度ですからね」
「たとえば、の話さ」
ローマーが肩をすくめる。
「地上で待っていて、落とすか……」
「大涌谷の上空では高さは百三十メートルにもなる。むろん、地上ほんの数メートルの場所もあるがね」
「あれはどれくらい乗ったかしらね? 二十分くらい?」
と早苗が誰にともなく訊く。
「三十三分」
ジェイムスが答えた。
「まあ、さすがによく調べてるのね」
と早苗が甘えるような笑顔になる。瞳はそっとにらみつけた。
「君が金を持って行くのかね、ジェイムス」
「いいえ」
「すると誰が?」
「犯人から、金を持って来るのは女性と指定されていましてね」
「まあ」
と早苗が目を丸くする。
「そこで、このお嬢さんにお願いしてあります」
瞳はちょっと背筋をのばして、控え目に、しかし誇らしげに肯いて見せた。
「——いけないわ!」
突然、早苗が声を上げた。
「どうしてですか?」
瞳はムッとして言った。
「だって、危険じゃないの。こんな若い娘さんが……」
「大丈夫です!」
「でも、何が起こるか分からないのに。ねえ、サー・ジョン?」
「うむ……」
老指揮者は考え込んで、「——君はかけがえのない人だ。ジェイムス、誰かこういう仕事に慣れた女性を行かせるわけにはいかないのかね?」
「警察の協力は得られませんので、婦人警官は使えませんし……」
「だったら、私が行きましょう」
早苗が言った。
「君が?」
「私だって、そりゃあ、こんな仕事、慣れてるわけじゃないけれど、今回の公演には責任もありますし、私の方が年長ですもの」
瞳はカッとした。この出しゃばり女!
「私、大丈夫です!」
「いえ、だめよ。あなたのような若い方、もし万一のことでもあったら……」
ここで、もしこうもり傘を持っていたら、一撃で叩きのめしていたことだろうが、残念ながら手元にないので、瞳はコップの水をグイグイ飲みほして、必死に気を鎮めた。
「ジェイムス、どうかね?」
「はあ……」
ジェイムスはやや考えてから、「いいでしょう。では早苗さんにお願いしよう」
瞳は唇をかみしめた。ジェイムスったら、タダじゃおかないから!
「そう怒るなよ」
ジェイムスが苦笑いして、「サー・ジョンにああ言われては仕方ないじゃないか」
瞳はツンとして、ソッポを向いていた。
「何か飲むかい?」
瞳はウエーターが傍で待っているので、渋々言った。
「チョコレートパフェ!」
腹が立つと、やたら甘い物をほしくなるのが瞳のくせなのである。太ることなど物ともせず、瞳は猛然とパフェに挑《いど》みかかった。
「——君のことも心配でね。やはり何といっても危険が伴うし」
瞳は知らん顔で、サクランボを食べる。
「私はヘリコプターで、上空を飛んでいることにする。実は今度はバッグの底についている突起に、小型の発信機を取り付けてある。ヘリコプターのレーダーでその信号を追いかけるつもりだ」
瞳は何やら口をモゾモゾ動かしている。
「今度こそヴァイオリンを取り戻さねば。BBCのメンバーたちも落ち着かない様子だよ。……何してるんだね?」
瞳は口から何かをつまみ出した。サクランボの枝が、結び目になっている。
「これを舌だけで作ったのかい?」
ジェイムスが目を丸くした。
「驚いたね、こいつはスパイの訓練にもなかったぞ」
瞳は軽く笑って、
「怒ってないわけじゃありませんよ。ちゃんと償いをしてね!」
「分かってるよ」
「あのひと、あなたの何だったんですか?」
「ほんの少しの間だが、付き合ったことがある」
「付き合ったことがある、のね。——分かりました」
「昔の話さ」
「あちらはそうでもないみたい」
「それは考えすぎだよ」
「そうかしら?」
瞳はチョコレートパフェを平らげて、息をついた。
「——さて、明日の朝はそうゆっくりしていられない。もう休んだほうがいいよ」
「ええ」
二人がラウンジを出ようとすると、レジの係りが、
「島中様。島中瞳様、お電話です」
と呼んだ。
「あら、きっと佐野先生だわ。学校から連絡が行ってびっくりしてるんじゃないかしら」
「巧く説明しておくんだね」
「何て言います?」
「秘密情報部の仕事で忙しい、とでも言っておきたまえ」
瞳は笑って、
「きっと先生なら『ああ、そうか』っていうだけよ。先に行ってて下さい」
「分かった」
瞳はレジの電話を取った。やはり佐野からであった。
「すみません、先生、無断で」
「土屋君が今にも発狂しそうだったぞ。会田とかいう、先日来た人から電話があってな。そのホテルにいると聞いたんだ。——箱根なんかで何をしとる?」
「ええ……ちょっと、BBCの方と打ち合わせで」
「そこに泊まっとるのか? なるほど」
佐野先生は納得したようだったが、さすがに、
「しかし、何でヘリコプターで飛んで行かにゃならんかったんだ?」
と訊いて来た。
何とか佐野をごまかして——瞳にはお手のものだ——部屋へ向かう。ジェイムスの部屋へ行ってみよう、と思った。わざわざ隣の部屋を取ったくらいだもの。きっと彼だって待っているんだ……。さっきまで腹を立てていたのも何のそのである。
足取りも軽く、エレベーターを降りて廊下を小走りに……。部屋のドアが細く開いたままになっている。
「ジェイムス——」
部屋へ入って行った瞳は言葉を呑み込んだ。部屋の真ん中で、ジェイムスと、水島早苗が抱き合って、熱烈なキスの最中だったのである。
「あら」
早苗が涼しい顔で瞳を見ると、「子供が見るものじゃなくってよ」
瞳は部屋を飛び出した。
「ウイスキー!」
「は?」
ウエーターがびっくりして、「あの……お客様はまだ未成年でいらっしゃいましょう、失礼ですが……」
「私?」
瞳は昂然と顔を上げて、「私、もう二十五よ! 水割り!」
「それはどうも……」
瞳はため息をついてテーブルの上を眺めた。ジェイムスにとっては、私はほんの子供にすぎないんだわ。——それでもいい、と割り切ったつもりだったが、やはりそう単純なものでもなかった。恋はやはり恋で、嫉《しつ》妬《と》や独占欲がつきものだ。
「子供、子供か……」
やっぱり私には、一晩だけ一緒に過ごして、さらりと別れるなんていう大人の恋はできない。まだ本当に子供なんだろうか……。
「いいわ、うんと酔っ払ってやるから」
「お待たせしました」
瞳の前にクリームソーダが置かれた。
「何、これ……?」
瞳が呆《あつ》気《け》に取られていると、
「私がオーダーを変更してね」
急に声がして、「伯爵」がすぐ後ろに立っていた。
「子供の飲み物ではないよ、ウイスキーは」
伯爵は瞳の向かい側に座った。
「放っておいて!」
「血の気の多い娘さんだ。彼と喧《けん》嘩《か》でもしたのかね」
「あなたには関係ないことでしょう」
「それはそうだが」
ウエーターが来て、伯爵の前にコーラを置いて行った。瞳はびっくりして、
「お酒、飲めないの?」
「アルコールは反射神経を鈍らせるからね」
とコーラを一口飲んで、「クリームソーダは嫌いかね?」
「いいえ……」
さっきチョコレートパフェを食べたばかりだったが、こういうものはいくらでも入るのである。
「——でも、どうしてここが……」
「商売さ。どこへ行こうと逃がしはしない」
「なぜ、あなたはあの人を狙うの? お金のため?」
「いや。別に彼を殺せとは依頼されていない」
「じゃ、なぜ……」
「彼が手《て》強《ごわ》い相手だからだ」
「それだけ?」
「それで十分だ。一度彼に邪魔されて、仕事を仕損じたことがある。——それ以来、彼を殺すのを念願にして来た」
「負けるのが嫌いなのね」
「完璧でないのが堪えられないのだ」
「でも——私に何の用なの?」
「君のそばにいれば彼が来るだろうと思ってね」
「まさか、いくらあなたでもこんなところで殺せないでしょう」
「私の右手は今、テーブルの下で拳銃を握っている。——動かないことだ。じっとして、彼を待つんだ」
瞳は、伯爵の右手がいつの間にかテーブルの下へ隠れているのに気付いた。
「こんな場所で銃声がしたら……」
「消音器がついているさ、むろん」
「でも……あなたが犯人だってこと、すぐ分かっちゃうわよ!」
「なぜ?」
「なぜ、って……。ウエーターが顔を見てるし……」
「この薄暗い場所で、かね。それに慣れない目には外国人は誰も同じように映るものだ。箱根は外人客も多い。ことに、ここにはイギリスのオーケストラが泊まっている」
瞳は唇をなめた。
「逃げられっこないわよ!……警察が全部の客をチェックすれば……」
「私はここの泊まり客ではないんだ。残念ながらね」
瞳の顔から血の気がひいて行った。本気だろうか?——自信に溢れた伯爵の表情からは、殺意を読み取ることはできなかったが、どうせ伯爵にとっては日常茶《さ》飯《はん》事《じ》にすぎないのだろう。
伯爵がふと目を入り口の方へ向けた。
「やっと君の恋人が来たようだ」
振り向くとジェイムスがこっちへ歩いて来る。——来ちゃいけない!
「これはこれは」
ジェイムスは瞳の背後に立って、伯爵を見降ろした。「よく会うね」
「静かに座ってもらおう。さもないとこのお嬢さんを撃つ」
「なるほど。テーブルの下で拳銃を握ってるんだな?」
「そんなところだ」
「私も今、拳銃を持っている。彼女の体の陰にね。彼女を撃てば君を撃つ」
「だが、彼女が死ぬぞ」
「君も死ぬ」
ジェイムスったら! 私を弾丸よけか何かみたいに! 瞳は生きた心地がしなかった。
「——分かった」
伯爵は微《ほほ》笑《え》んだ。「今日のところは、見送ることにしよう」
瞳は体中でため息をついた。ジェイムスが横の席へ座りながら、
「ところで、本当に拳銃を構えていたのか?」
「むろんだ」
瞳の目に、伯爵が黒光りするものを背広の下へ収めるのがチラリと映った。
「君は?」
と伯爵が訊いた。
「もちろん」
ジェイムスが小型の拳銃をショルダーホルスターに入れながら答えた。
本当に、二人とも銃を抜いてたんだ! 瞳は改めてゾッとした。
「昨夜は世話になった」
ジェイムスが言った。「礼を言っておくよ。大勢の患者たちが救われた」
「よせ。人助けのつもりでやったわけじゃない」
「分かった。——勝負はいつつける?」
「仕掛けるのはこっちだ。そちらは用心さえしていればいい」
伯爵はコーラを飲み終えて立ち上がった。
「では、お嬢さん。命は大切に」
伯爵の後ろ姿を見送って、
「不思議な人——」
と瞳は呟《つぶや》いた。
「全くだ。何をやっても一流になれただろうに」
瞳はジェイムスの方へ向き直ると、
「そうだったわ。私、怒ってるんですからね!」
ジェイムスはなだめて、
「まあ、待ってくれよ。彼女が勝手に押しかけて来たんだ。本当さ」
「そんな風には見えませんでした!」
「困ったね。どうしたらご機嫌が直るかな」
瞳はちょっと考えて、
「チョコレートサンデーを注文して。それから後でキスしてくれること!」