「お世話になって」
と、くり返し栄江が礼を言う。
「じゃ、また明日」
と、美奈はクラスメイトの子に手を振った。
——二人は、細い路地を抜けて、車の停めてある通りへと向った。
雨は幸い少し小降りになって、一本の傘でも肩を寄せ合えば何とかなる。
「どう? 風井さんのお宅、迷惑じゃない?」
と、歩きながら栄江は訊《き》いた。
「ううん。咲子も一人っ子だから、一緒にいると喜んでる。でも——あんまり年中、上り込むわけにいかないでしょ」
風井咲子はクラスメイトで、こうしてたまたま家が近いので、美奈が待たせてもらっているのだが、先方の事情、都合もある。
「ね、お母さん。私一人で帰れるよ。大丈夫だから」
「ええ、分ってるけど……」
美奈にも、母の気持はよく分る。逆の立場だったら、きっとどんなに仲の悪い叔母の所にだって、娘を預けるだろう。
でも、栄江の仕事が、時間の読めない特殊な事情を持っていることも、美奈にはよく分っていた。
「でもね、家に帰ってからだって、一人じゃ心配だわ」
確かに、団地は広くて、外から誰が入って来ても分らないし、一つ一つの棟は、却《かえ》って密室のようになって、怖い。
「気を付けるよ。そんなこと言ってたら、生きてけない」
と、大人びた口をきいて、「お母さんの運転の車で事故起す確率の方が高いかもしれないよ」
「言ったわね」
と、栄江は笑って、ちょうど車の所へやって来る。「でも今夜は安全! ほらね」
運転席のドアが開いて、利根が笑顔で降りると、
「お帰り」
と言った。「二人で後ろの座席に乗って」
——美奈は呆《ぼう》然《ぜん》と突っ立っていて、雨に濡れるのも忘れていた。
「早く乗って!」
と、栄江に言われて、
「はい……」
と、後ろの座席に落ちつく。
といっても、まだ目を疑っていて、
「どうして?」
「今夜はね、本当は利根さんとデートだったの」
栄江の言葉に、
「え?」
「嘘《うそ》よ! 帰りの電車でたまたまご一緒したの。そしたら、送って下さるって」
栄江が笑う。
「僕の方が、雨なんで強引に便乗したのさ」
車を動かしながら、利根は言った。「ではお屋敷まで参りましょうか」
「よろしく」
と、栄江は言った。
車は走り出し、ワイパーが忙しく往復した。
夜ともなると団地の道は空《す》いていて、ついスピードが出る。
「安全運転でね、利根さん」
と、美奈は言った。「スピード出し過ぎじゃない?」
「美奈、失礼よ」
「いや、ごめん。つい空いてるから、アクセルを踏んじまう」
利根がスピードを落とした。
美奈は——どうして? そう自分へ訊いた。
自分らしくない。いつもなら、「もっと飛ばして!」とそそのかす方なのに。
美奈は怖かったのだ。こんな素敵な瞬間が長く続くわけがないという気がして、事故でも起るのではないかと恐れていたのである。
——利根の姿を見た瞬間、混乱した。
どうしてあの人がここにいるの? そう思った。
同時に、「ここにいてくれた」とも思っていた。
それほど、母の車に乗って運転している利根は、その場所に似合って見えたのである。
そして……。
美奈は、隣の母へチラッと目をやった。——母は目をつぶって、どうやらこんなわずかの時間に眠っている様子だ。
疲れているのだろうし、少しアルコールが入っていることも分っていた。利根を相手に冗談を言ったりしたのは、そのせいもあったかもしれない。
でも、美奈は母が、
「利根さんとデートだったの」
と言った瞬間——考えただけでも顔が赤らむが——母と利根が裸で抱き合っているところを思い浮かべてしまったのである。
そして、そのときに、美奈は鋭く深い胸の奥の痛みを経験した。それが「嫉《しつ》妬《と》」というものだということを、十七歳の美奈が知らないわけもないが、そのときの痛みは、美奈の人生の中で知っていたどの痛みよりも大きかった。
——美奈は、少し体をずらして、バックミラーに利根の目が見えるようにした。
利根も気付いて、チラッと二人の目がバックミラーの中で出会う。
「お母さんは?」
と、利根が訊いた。
「寝ちゃったみたい」
「そうか。疲れてるんだろうな。偉いよ」
美奈は、何も言わなかった。
私だって——私だって偉いわ。どうして私をほめてくれないの?
無茶な要求と知りつつも、美奈は恨みのこもった目で、バックミラーの中の利根の目を見つめていた。
すると——また胸に痛みがさした。あの嫉妬の痛みとは違う、やさしいけれども苦く、甘いけれども奥深い痛みだった。
それはたぶん、「せつない」という気持だったのだろう、と美奈は思った。
私……。私は……。私は、利根さん、あなたを愛してる。女として、男のあなたを恋してる。
今、そうなったのか。それとも前からの気持に今、気付いたのか。
そんなことはどうでも良かった。今、自分が利根に恋していることこそ、大事だったのだ……。
「もうじきだ」
と、利根が言った。「お母さんを起こした方が——」
次の瞬間、車は急ブレーキの鋭い叫びと共に車体が大きく横へ滑った。
自分の叫び声が聞こえた。
車が停るまで、ほんの一秒か二秒。——それはとんでもなく長かった。
「——どうしたの!」
急ブレーキで、体がはね上るように、前の座席の背にぶつかった栄江が言った。
利根は、車が道路の真中で真横を向いて停っているのを、幻でも見ているような気がしながらも、よく分っていた。
全身が凍りついたように動かなかった。
「美奈、大丈夫?」
「うん。——何ともない」
何ともないわけはない。——俺は何をしてるんだ?
「すまない」
と、利根は、やっとかすれた声で言った。「ライトの中を——急に誰かが横切ったようだったんだ。夢中で急ブレーキを踏んでた。申しわけない。けがはない?」
「大丈夫です」
と、栄江が落ちついた様子で、「それで、誰かはねたとか……」
「いや、その点は大丈夫」
と言った利根は、シートベルトを外し、「でも、一応見て来よう。座ってて」
「でも、利根さん!」
と、美奈が急いで言った。「車を道の端へ寄せてからでないと」
「そうだ。——いや、どうかしてる。ありがとう」
他の車にぶつけられてしまう。
エンジンは割合にすぐかかって、車を道の端へ寄せると、利根は車を出た。
雨が降りかかってくる。小走りに道を戻って行った。
夜道といっても、団地内の道は照明もきちんとされているので、ずっと見通せる。
そこには何もなかった。
利根は大きく息をついた。——分っていたのだ。何もないことは。
正確には、利根は「横切る人影」を見たわけではなかった。白いコートの女が、突然車の前に立っていたのである。
一瞬のことだったが、利根の目ははっきりと見ていた。——それが、あの金網の向うで死んで行った女だということ。そのコートのあちこちにはまだ鮮やかな血が広がっていること……。
それは今も瞼《まぶた》にはっきりと焼き付いていた。
あれは幻だったのだ。生身の人間ではなかった。当然、何も残っているわけがない。
ただ、利根は一人になりたかったのである。
あの女がまた現われたという事実を、何とかして受け止めなければならなかった……。
不意に雨が止んだ。
びっくりして振り向くと、美奈が立っていて、傘を利根の上にさしかけていた。
「ああ、ごめんよ」
「濡れちゃうと思って」
「もう戻ろう。——誰もはねたわけじゃなかった」
二人は並んで歩き出した。利根の方が傘を持って、美奈の上にさしてやった。
「利根さん、ささないと濡れる」
「僕はもう濡れてるよ」
と、利根は笑った。
「じゃ、そっちへ寄るから……」
美奈がぴったりと利根へ身を寄せて、少しでも濡れないようにしようとする。
「僕が運転するなんて言い出したばっかりに、怖い思いをさせちゃったな」
「そんなこと……。私、毎日でも利根さんが運転してくれたら嬉《うれ》しいな」
利根がちょっと驚いて見ると、美奈は急いで、
「もしも、の話!」
と言って、赤くなった。
「君のお母さんはすてきな人だけどね」
と利根は微笑んで、「僕には説子がいる。——でも、君の気持は嬉しいよ」
美奈は何も言わなかった。
「どうでした?」
車から栄江が出て来る。
「ああ、乗ってて下さい。何もありませんでした。大丈夫です」
「良かった。誰もけががなかったし」
「後はゆっくり走らせても五分ですから。——信用されないかもしれないけど」
「いいえ、お任せしますわ」
と栄江は言った。
エレベーターが三階に停ると、
「じゃ、失礼します」
と、利根が降りて、「おやすみ、美奈ちゃん」
「おやすみなさい」
美奈は、エレベーターの扉が閉じても、窓から利根の後ろ姿が見えている間は目を離さなかった。
もちろん、すぐにエレベーターは五階へと上って行ったので、ほんの一瞬のことだったが……。
利根はこの七階建の棟の〈306〉に住んでいる。弓原母娘は〈512〉。
五階までも、のんびりのんびりと上って行く。——なぜかこういう所のエレベーターはゆっくりしている。
「美奈、お腹空いてる?」
「ううん、大丈夫。咲子んとこでごちそうになった」
「じゃ、もう食べない? それじゃ、すぐお風呂にしましょ」
五階でエレベーターの扉が開く。
美奈は、この二十分ほどの間に大人になっていた。
そんなものだ。徐々に「子供」から「大人」へ変っていくのではなくて、その境の一本の線を越えるのである。
利根が愛してくれないのは仕方ない。突然のことなのだから。
でも、美奈が利根に「父親になってほしがっている」と誤解されていることは、堪《た》えられなかった。
君を愛していない。そう言われるのは我慢できても、美奈の気持を全く知らない、というのでは、あんまりだ……。
あの人に、何とかして私の気持を伝えよう。——美奈はそう決心した。
栄江が玄関のドアを開け、
「さあ、早く入って」
と、美奈を促した……。