レストランのオーナーが弓原栄江たちのテーブルへ回って来るまでは、そこは「日本」でしかなかった。
「いらっしゃいませ」
レストランの女性オーナーは、静かな威厳とも呼んでいいものを身につけていた。
日本語も、日本人より美しい発音をすると言ってもいいくらいだ。
「今晩は」
と、栄江は微笑んだ。
主にランチだが、栄江は何度かここへ来ているので、オーナーも顔を憶えてくれている。
オーナーの目は、もちろんテーブルについている金髪の白人男性へと向いた。——一見して、典型的なドイツ人。
「ドイツの方?」
と、オーナーは日本語で訊《き》いた。
万一、他の国の人だったときは、気を悪くしかねない。
「ヤァ」
と、その男は微笑んで、「弓原さんの友人です」
と、付け加えた。
栄江は、その二人がドイツ語で話し始めるのを、予期していたこととはいえ、内心苛立ちながら眺めていた。
仕事の打ち合せは、かなりポイントになる部分まで煮つまっていたのだ。そこへ、こんな邪魔——と言っては悪いが——が入っては、しばらく話が元に戻るまい。
フリーのライターである弓原栄江にとっては、のんびりワインを飲んで一回の打ち合せが終ってしまっては困るのである。
今、テーブルについている五人の内、三人は大手出版社の社員だった。翻訳書の出版を引き受けてくれるまでにこぎつけたので、何とか今夜中に具体的な点を詰めたかった。
今、不況の中で、フリーの人間には厳しい状況が続いている。今夜の食事代は、栄江が持つことになっていた。話を中途半端で終らせたくない。
マルティンがレストランのオーナーと話し込んでいるのを何とかやめさせたかった。
しかし——もちろん考えてみれば、こんな外国で、同国人と会ったら、つい話が長くなるのも当然で、それは栄江にもよく分っている。
しかし、オーナーの方も客の邪魔をしないように気をつかっているのだろう。心配したほど長くならない内に話はすんで、他のテーブルへ回って行く。
「——失礼しました」
マルティン・エティンガーは他の面々に向って言った。
「やはりドイツ語をしゃべるとホッとするでしょう」
出版社の一人が当り前のことを言い出す。
「そうですね。——彼女はミュンヘン訛《なま》りがあります」
「ミュンヘンか! 南の方だね? あのでかいビヤホールのある」
「ああ、この前、フランクフルトの帰りに寄ったな」
と、出版社の人間同士がしゃべり出す。
フランクフルトでは毎年ブック・フェアがあり、各国が自国の本の売り込みや、翻訳権の交渉などをする。
——ミュンヘンの話からドイツビールの話になって、しばらく話題は元に戻らなかった。
仕方ない。出版社が引き受けてくれなければ、話そのものが流れる。
マルティンが腕時計を見て、
「弓原さん、お嬢さんは大丈夫?」
と言った。
「え?」
一瞬戸惑ったが、マルティンは他の三人の方へ、
「弓原さんは娘さんを迎えに行く時間があるのです。仕事の話をすませてしまいましょう」
と言った。「むろん、ビールをおかわりしてからですが」
出版社の三人は笑って、
「悪い悪い、つい飲む話になると熱が入ってね」
「いえ、とんでもない」
栄江自身が言えば、こうスンナリとは納得してくれなかったかもしれない。
栄江はビールの追加を注文してから、マルティンの方へそっと感謝の視線を向けた。
マルティンも分っているので、小さく肯《うなず》く。
——後はソーセージを食べ、ビールを飲みながら上機嫌に話が進み、酔う前に何とか契約書にサインするところまでこぎつけた。
「これでいいね」
と、契約書が戻ってくると、
「ありがとうございます」
と、栄江は頭を下げた。
正直なところ、もう後はどうなってもいい——というのは大げさだが、これで急に体が軽くなった気さえする。
「弓原さん、良かったら先に帰ってもいいですよ」
と、マルティンが言った。「後は僕がお相手します」
「でも——」
と、ためらったが、
「早く帰ってあげなさい。娘さんが待ってるよ」
女の子がいるという出版社の人もそう言ってくれて、却《かえ》って居続けると申しわけないような雰囲気だったので、
「それじゃ、すみませんけど……」
と、契約書をバッグへしまい、マルティンへ、「よろしくお願い」
と会《え》釈《しやく》して席を立った。
レストランを出るとき、チラッと利根たちのテーブルの方へ目をやると、もういなくなっていた。
「——あ、お母さんよ。——もしもし、聞こえる?」
電車の中から携帯電話で、美奈へかける。
美奈にも携帯電話を持たせているのは、決して感心したことではないと思うのだが、仕事上、どうしても帰宅時間が予定から大きく狂うことがあり、美奈へ万一の時に連絡をつけるために必要だったのである。
「聞こえるよ。もう電車?」
と、美奈の声が明るく聞こえてくるとホッとする。
「そうよ」
「早いね」
「うん。ね、三十分くらいで行くから、待っててね」
「はい」
この間のコンビニでの事件もあって、美奈には、近い友だちの家にお邪魔させてもらっている。
ともかくひと安心。——栄江は、空席も目立つ車両の中を見回した。
夫と別れるまでは、こんな面倒はなく、夫はたいてい七時ごろに帰っていたから、心配することもなかった。
しかし、娘のことで安心している間に、夫は女を作っていた。——もう思い出したくもない。
ゴーッという電車の音に混って、パラパラと弾《はじ》けるような音がした。窓を見て、雨が降り始めたのだと分る。
車で良かった。駅前のタクシー乗場は行列だろう。
車を駅前に置いてある。それで美奈を迎えに行けばいいのだ。
膝《ひざ》の上のバッグを、愛しいような思いでなでた。——この仕事がすんだら、少し休んで美奈と旅行でもしたい。
でも、美奈の方がいやがるだろうか。
マルティンにお礼の電話をしておこう、と思った。
マルティン・エティンガーは、年齢からいうと栄江より一つ年下の三十九歳。
西欧の人は老けて見えるので、見た目はずっと年上のようだが、髪が薄くなっていることを除けば、若々しく、ハンサムである。
ドイツから七、八年前にやって来たそうで、栄江と仕事で組むようになったのは、この二、三年のことだが、みごとに「日本のビジネス」の流儀に溶け込んでいて、舌を巻くほどである。
今夜も、後を任せて来たのは、マルティンなら大丈夫と信じられるからだ。マルティンは、アルコールに弱い日本人の酔い方にも慣れているし、必要ならカラオケまで付合って、演歌を歌う。
日本語の力も立派なもので、どんなに血のにじむ努力をして来たか、想像もつかない。——ともかく、今、一番栄江が信じているパートナーだった。
「弓原さん」
と呼ばれて、びっくりする。
「あ……。利根さん。先ほどは」
利根と同じ電車だったのだ。
「いや、雨なんで、後ろの方で降りると濡れると思いまして」
利根は窓の方へ目をやって、「まだ降ってるようですね」
何となく並んで座る。——あと十分足らずで着くのである。
「美奈ちゃんはお宅で?」
と、利根は訊いた。
「いえ、今日はクラブで遅いと言ったんで、やはり心配でお友だちの所で待っています」
「ああ、それがいい。今は物騒ですから」
と、利根は肯いて言った。
「この間助けていただいて、利根さんはすっかり美奈の『王子様』ですわ」
「王子様ですか」
「白馬にまたがって助けに来てくれる王子様、というところでしょうね」
「ずいぶん老けた王子様だな」
と、利根は笑った。
美奈が——もちろん漠然とではあるが——母親と利根が結婚しないかと思っていることを、栄江も承知している。しかし、利根には今日、ドイツ・レストランにいたあの女性——麻木説子といったか——がいる。
不規則な仕事の栄江が、普通の時間にデートしたくても、それは不可能に近い。
でも、こうして帰りの電車でたまたま一緒になったりすると、胸のときめくのも事実だった……。
つい、美奈の話だけをしている内に、電車は駅に着いた。
——雨は、本降りになっていた。
駅の改札口を出ると、タクシー乗場は長蛇の列。
「あの……もし良ければ私の車に」
と、栄江は言った。
「でも……」
「美奈を迎えに、ちょっと回り道しますけど、それだけですから」
少し迷っていた利根は、
「それじゃ、申しわけないから、僕が運転しましょう」
と言った。
「あら、でも申しわけないわ、そんなこと」
「正直に言って下さい。『この人、運転、下手なんじゃないかしら』と思ってるんでしょう」
利根の真面目くさった言い方に、栄江は思わずふき出していた。
栄江の体の疲れが、急に半分ほども減ったようにさえ感じられたのである……。