幽霊が出ようが、恐竜が出ようが、自分が幽霊にでもならない限り、仕事は休めないのだ。
「——忙しい?」
午前十一時を少し回って、一息入れたところへ、麻木説子がやって来た。
「今、一区切りさ。何だい?」
「これ……。課長が午後の会議にほしいんですって」
と、説子がメモを置く。
「分った。午後三時? じゃ、大丈夫」
「よろしく」
説子が微笑む。そして、ちょっと顔を近付けると、
「ゆうべはごちそうさま」
と小声で言って、資料課から出て行く。
——利根は、面食らっていた。
社内では、人目があるのであくまで個人的に親しいという素振りは見せない。そういう約束でやって来たのだが……。
今の説子の言い方は、明らかに仕事の話とは見えず、同じ課の女性がチラチラと利根の方をうかがっているのが分る。
説子はどうしたんだろう?
人は、よほどのことがない限り、いつもと違う行動はとらないものだ。といって、説子が格別何かに腹を立てているとも見えなかったが……。
利根も首をかしげてばかりはいられない。説子に言われた資料を捜して、パソコンをいじっていると、
「利根さん。お電話」
と、隣席の女性に言われた。
利根は机の方へ向き直って受話器を取った。
「もしもし。お待たせしました、利根です」
と言うと、いきなり、
「しゃべったな!」
という男の声が飛び出して来て、びっくりする。
「何ですか? もしもし?」
「俺のことを、教えたな!」
やっと、その声に思い当った。
「永井か。——永井だな? 落ちついてくれ。どうしたっていうんだ」
しばらく、荒い息づかいだけが聞こえた。そして、
「——すまん」
永井の、弱々しい声。「勘弁してくれ。参ってるんだ。どうかなりそうだ」
「永井。何があったんだ?」
永井康夫は、それでも大分まともな口調になって、
「僕と会った後、野川さんと話したか?」
と訊《き》いた。
利根も、永井がここの地下の喫茶で、野川が永井を殺すために日本へ帰国した、と言っていたことはよく憶《おぼ》えている。ショックだったし、一体二人の間に何があったのか、ゆっくり聞きたいと思っていた。
「いや、全然。本当だ」
「そうか。すまん、それならいいんだ」
「おい、切るな!」
と、利根はあわてて言った。「永井、どうしたっていうんだ? 野川と一体何があったんだ」
会社の電話だから、じっくり話し込むというわけにはいかない。しかし、さっきの永井の様子は普通ではなかった。
「いや、もういいんだ」
と、永井は言った。「ただ——利根さん、こんなことを頼んじゃ迷惑だろうと思うけど、聞いてくれ。他に頼む相手がいない。聞いてくれ」
淡々とした口調になっていて、さっきの切羽詰った気配は消えている。利根は半ば安《あん》堵《ど》しながらも、聞かないわけにいかなかった。
「もし僕の身に何かあったら——」
「永井——」
「いや、はっきり言っておこう。もし僕が殺されたら、女房と子供を頼む」
「何だって?」
「女房は伸代という。この間の名刺の勤め先に訊いてくれれば、詳しいことは分る」
「永井。それは——野川がお前を……という意味なのか」
周りの同僚が聞いている。「殺す」という言葉は使いたくなかった。
「それはどうでもいいんだ。こっちは死ぬだけだからな。同じことだ」
「しかし——」
「子供は男の子で、まだ二つだ。——もちろん、利根さんの力でできることは限られてるだろう。できるだけでいいんだ。何か、してやれることがあったら、やってくれ」
利根には他に返事のしようがなかった。
「分ったよ」
「すまない。恩に着る」
永井は何かふっ切れたような様子で、「びっくりさせてすまん」
「びっくりするさ。いいか、妙なことを考えるなよ」
「ああ、大丈夫。大丈夫だよ」
永井はそうくり返して、「仕事中、邪魔して悪かった」
「いや、そんなことはいいけど……」
「それじゃ」
と、永井は言った。「元気でいてくれ」
またな、と言おうとして、なぜか利根はためらった。ためらっている間に、電話は切れてしまった……。
「——心配事?」
と、麻木説子が訊く。
「うん……」
利根にとっては、複雑な思いの昼休みである。
昼食の後、この喫茶店で説子が待っていると言って来たのだ。利根は永井の電話で忘れていた心配ごとを、また思い出した。
「——説子、何かあったのか」
と、コーヒーを飲みながら言うと、
「何が?」
と、説子は明るく問い返した。
「何って……つまり……」
「知られたくない? 私たちのこと。まだ隠しておいた方がいいかしら」
あっさりと訊かれて、利根の方が面食らった。
「そうじゃない。しかし——」
「私ね、とりあえずはっきりするまでは、あなたに〈予約済〉の札を貼《は》っとくことにしたの」
「何だって?」
「何でもないって分れば、そのときは札をはがしてあげる。でも、それまでは、他の女の子に近付いてほしくないの」
「それまで、って……」
「妊娠がはっきりするまで」
別に小声で言うわけでもないので、却《かえ》って利根はびっくりした。
「それは……本当?」
「だから、はっきりするまで、って言ったでしょ。まだ分らないわ。でも、私、直感的にね、そうなってるような気がするの」
と、説子は言った。「もし本当だったら——産むな、なんて言わないわよね」
「ああ、もちろん……。そういうことなのか!」
「ごめんなさい。びっくりした?」
説子は、しかしいつも以上にキラキラと輝いて見えた。
「——あの夜か」
と、利根は訊いた。
それで、二人の間は通じる。
「ええ。だからまだはっきりするのはしばらくかかるけど、待っててね。もし他に可愛い子が現われても、我慢して」
「よせよ」
と、利根は笑った。
永井からの電話のこと、それに、ゆうべの雨の夜道で見た、あの白いコートの女のことも、説子に話そうと思っていたが、やめておくことにした。
体にさわるようなことがあっては、と思ったのである。
説子の話に、驚かされはしたが、利根自身、あの夜のことは気にしていたので、意外ではない。
それに、もう三十七歳で、彼女も二十八。結婚するのに何の不足もない。
もし、妊娠が彼女の勘違いだったとしても、結婚に踏み切ってもいいかな、と利根は思ったりした……。
「あら、仲良いのね」
気付かなかったが、同じA商事の女性社員が数人、離れた席にいて、二人に気付いていたらしい。
出がけに二人の方へ手を振って行く。
利根も軽く手を上げて見せた。
「たちまち噂《うわさ》だ」
と、説子が笑った。
「いいさ」
利根は首を振って、「なあ。——はっきりしてから決めたら、ずいぶん遅くなる。今の内から進めておこう」
「——え?」
今度は、説子の方が戸惑っている。
「だから、式のこととかさ」
少し間があって、説子は頬《ほお》を赤く染めると、
「本気なの?」
「冗談で言うほど若くないよ」
説子は、ちょっと笑ってから言葉を捜すように考えて、
「プロポーズなら、もう少し場所を選んでよ!」
と言った。
嬉《うれ》しそうだった。——利根は、良かった、と思った。ごく自然に言えて、これで良かったのだ。妙に構えて言おうとしたら、迷っていたかもしれない。
「——あ、説子さん」
と、同じ課の女の子が店を覗《のぞ》いて、「課長がね、車を呼んでくれって言うの。今、どこへ頼んでたっけ?」
「私、行くわ」
と、説子は立ち上った。「じゃ、払いの方はよろしくね」
「分った」
利根は笑って肯《うなず》いた。
説子が、まるで二十歳そこそこの娘のような元気の良さで店を出て行くと、利根は腕時計を見た。
——永井の言っていたことも気になっていたが、野川の居場所も分らず、手の打ちようがない。
利根は、トイレに立った。まだ少し時間はあるが、午後の仕事の段取りをつけておこうと思ったのだ。
——手を洗って、ペーパータオルを抜いて拭《ふ》くと、丸めて屑《くず》入れに投げる。
外れて、紙は屑入れの外へ落ちた。
「下手くそめ」
と、自分で呟《つぶや》くと、拾って入れ直す。
「真面目だね、相変らず」
という声にびっくりして振り向くと——永井が立っていた。
「永井。——いつ来たんだ?」
「今さ」
「さっきの電話で心配してたぞ。少し話をしよう」
トイレのドアを開けて、「さ、行こう」
と振り返ると、
「女房と子供をよろしく頼む」
と、永井は言って、頭を下げた。
「またその話か」
利根は、入れ替りに入ろうとする客を通しておいて、「おい、永井——」
永井の姿は、もうなかった。
席へ戻った利根はウエイトレスを呼んで、
「コーヒー、もう一杯」
と頼んだ。
「はい。——大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ」
「少し貧血を起しただけだ。大丈夫」
「ゆっくり休んでらしてね」
ウエイトレスが戻って行く。
冷たい汗がにじみ出る。——てのひらは、じっとりと濡れていた。
永井は言った。
「女房と子供をよろしく」
と……。
あいつは死んだのだ。——今、どこかで死んでしまったのだ。
二杯目のコーヒーの味は、全く分らなかった。