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黒い壁08

时间: 2018-07-30    进入日语论坛
核心提示:8 弾 痕 聞いた住所が不完全だったこともあって、探し当てたのは、もう夜の九時近かった。 その一軒家の前には、数人の人が
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 8 弾 痕
 
 聞いた住所が不完全だったこともあって、探し当てたのは、もう夜の九時近かった。
 
 その一軒家の前には、数人の人が困った様子でたたずんでいる。
 
「——失礼ですが」
 
 と、利根は言った。「ここは、永井さんのお宅ですか」
 
 中年の主婦が振り返って、
 
「あんた、どなた?」
 
「永井さんの古い友人です」
 
 と、利根は言った。「何かあったんですか?」
 
「いえね……」
 
 と、居合せた男女は顔を見合せて、
 
「何か凄《すご》い物音がしてね」
 
 と、一人が言った。
 
「物音? どんな音です?」
 
「よく分んないわよ。でもさ、その後、悲鳴みたいなもんがしたって——」
 
「俺は言わねえよ! 人の声がした、って言っただけだ」
 
「言ったじゃないの! 『ありゃ、女の悲鳴だ』って」
 
「いや、そんな風にも聞こえたってだけさ」
 
「言ったことは言ったんだから——」
 
「待って下さい」
 
 と、利根は言った。「警察には連絡したんですか?」
 
「だって……もし何でもなかったら……。ねえ、叱られちゃうわよ」
 
「いや、大丈夫ですよ。私が呼びましょう。友人ですから、呼んでもおかしくない」
 
「そうしてくれる?」
 
 ホッとした空気が広がる。
 
「その物音と声は、いつごろ聞こえたんですか?」
 
「ええと……」
 
 と、顔を見合せて、
 
「十五分くらい前かな」
 
「そんなもんね」
 
「分りました」
 
 利根は〈永井〉という表札の出た玄関へ目をやった。
 
 古びた一軒家で、夜だというのに、明りも消えている。
 
 ——永井は会社を休んでいた。
 
 住所を訊《き》いても、なかなか教えてはもらえなかった。当然ではある。
 
 やっと聞いて、帰り道、こうして捜して来たのだが……。
 
「恐れ入りますが、電話を貸して下さい」
 
「ああ、うちが向いだから」
 
 と、快く言ってくれて、利根は向いの家へ上り、一一〇番した。
 
 何があったのかはっきりしているわけではないので、なかなか出向いてくれるとは言わなかったが、それでも、利根の話し方がきちんとしていたせいだろう、パトカーが来てくれることになった。
 
「——やれやれ」
 
 外へ出て、利根は永井の家の玄関のドアを叩いてみた。
 
「むだよ。何回も呼んでみたわよ」
 
「そうですか。——どうしたんだろう」
 
 利根はドアを開けようとしたが、鍵《かぎ》がかかっている。
 
「奥さんと子供さんがいるんですね?」
 
「そうよ。男の子で、今……二つかしらね、確か。『クニちゃん』っていつも呼んでたから、『クニオ』とでもいうのかしら」
 
 表札は〈永井〉の姓だけである。
 
「私がパトカーを待っています。もしご用があれば——」
 
「でもねえ……。気になるわよ」
 
 居合せた人たちも、利根が警察の相手をしてくれるとなると、どうなるか見届けたいらしい。
 
「ご主人が中にいるかどうか、お分りですか」
 
「さあ……。会社から帰ったかどうか……」
 
 と、首をかしげている。
 
 そのとき——利根の耳に入って来たのは、待っているパトカーのサイレンではなかった。
 
 家の中から子供の泣き声が——甲《かん》高《だか》く、はっきりと聞こえて来たのである。
 
「あらま。クニちゃんだわ、きっと」
 
 と、主婦が言った。
 
「中へ入りましょう! もしけがでもしていたら大変だ」
 
 利根はそう言ったが、誰もが、玄関をこじ開けて入るとなると、ためらっている。
 
「鞄《かばん》を持っていて下さい」
 
 と、利根はその主婦に鞄を預けると、玄関のドアを力一杯揺さぶった。
 
 古いドアとはいえ、そう簡単には開かない。
 
 利根は、玄関の脇に積んであるレンガを一つ手に取って、ドアの鍵の辺りに何度か打ちつけた。
 
 何かの弾み、というものだろう。ドアがカチリと音をたてて開いた。
 
 子供の泣き声がひときわ高く聞こえてくる。
 
 利根は中へ入り、明りのスイッチを捜して押した。
 
 玄関が明るくなる。正面の襖《ふすま》が半ば開いていた。
 
「どこにいるんだ?」
 
 と、できるだけ穏やかに呼ぶ。「クニオ君かい? 今行くからね」
 
 泣き声は止まない。——すぐ近くだ。
 
 利根は、襖を開け、明りを点《つ》けると、息を呑んだ。
 
 ——茶の間だった。いや、たぶんそうだったのだろう。
 
 戸棚、ちゃぶ台、食器戸棚、どれもがボロボロになっている。
 
 何があったんだ?
 
 ガラスが砕け、障子は桟ごとバラバラになっていた。
 
 子供の泣き声は——どこだ?
 
 廊下があって、その途中、肩ほどの高さに小さな納戸がある。
 
 利根はその引き戸を開けた。
 
 男の子の小さな顔が見えた。
 
「良かった!——さあ、もう大丈夫!」
 
 男の子は、おとなしく利根に抱かれて出て来た。
 
「クニオ君だね?」
 
 男の子がコックリと肯《うなず》く。涙で汚れた顔には、永井の面影がある。
 
「——まあ、無事だったの!」
 
 抱いて出ると、向いの主婦が声を上げた。「クニちゃん! 怖かったね!」
 
「お願いします。母親を捜します」
 
「どうしたっていうの?」
 
「分りません。——さっぱり分りません」
 
 利根は、子供を主婦に任せて、家の中へ戻った。
 
「奥さん。——奥さん、どこです?」
 
 と、利根は呼んだ。
 
 あの茶の間には、少なくとも永井の妻の姿はなかった。
 
 ガラスの飛び散った茶の間へは危くて入れず、利根は廊下の奥へと進んでみた。
 
 風呂場らしいくもりガラスの戸がある。そこは明りが点いていた。
 
 少しためらったが、利根は戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。ガラガラと戸がレールの上を滑る。
 
 手前の小さな洗面所、その向うにお風呂場があった。
 
 そこに、女が倒れていた。タイルの上に、血に染ってうつ伏せに倒れている。
 
 顔がこっちを向いて、もう何も見ていない目が見える。
 
 利根は、パトカーのサイレンで我に返った。
 
 これが——永井の妻だろう。
 
「女房と子供を頼む」
 
 と、永井は言ったが……。
 
 助けられなかった。——子供だけが生きのびたのだ。
 
 
 
「ここです」
 
 と、利根は言った。
 
 パトカーが停る。誰かが見ていたらびっくりするだろう。
 
 もう夜中、十二時を回っていた。
 
 警察での話が長くなって、自宅までこうして送ってくれたのである。
 
 ぐったりと、体の芯《しん》までくたびれ切っていた。
 
 三階へエレベーターで上り、部屋へ辿《たど》り着くまでが、とんでもなく長く感じられた。
 
 上着を脱ぎ、ネクタイを外すと、利根はしばらく部屋の真中に座り込んだきり、動けなかった。
 
 今は、ただ休みたかったが、しかし、そう簡単には眠れないだろう。——永井の妻、伸子の死体の映像が、目の前をチラついて、消えない。
 
 それは、あの金網越しに見た白いコートの女とダブって、利根の胸をしめつけた。
 
 ——何があったのか。
 
 永井は行方が分らないままだった。
 
 利根は、
 
「なぜ永井の所を訪ねたか」
 
 を説明するために、昼間の電話のことを刑事へ話さなければならなかった。
 
 もちろん、喫茶店で見た「永井」については黙っていたのだ。
 
 しかし、そのために、刑事は見当外れの推測をしたらしい。——まともでない電話。妻の他殺死体。
 
 刑事は、永井がノイローゼのような状態で、妻子を殺そうとした、と思ったのである。妻は危険を感じて、子供を戸棚へ隠し、自分は逃げる間がなく殺された……。
 
 利根は、「そうじゃない」と言おうとしたが、根拠を問われても答えられないことを考えて、やめた。
 
 刑事は、永井を手配するだろう。——しかし、利根は知っている。
 
 永井はもう死んでいるのだ。妻の伸子が殺されたとき、永井は死んでいたのである。
 
 それを知っているのは、利根しかいない……。
 
 子供は「邦男」という名だった。
 
 警察から、近くの施設へ連れて行かれたが、もうぐっすり眠ってしまっていた。
 
 それでも、刑事が首をかしげたのは、伸子が射殺されていたことだ。
 
 伸子は七、八発の弾丸を撃ち込まれて死んでおり、茶の間の惨状はおそらく「軽機関銃のようなもの」を乱射したためだということだった。
 
 永井が、ただの拳銃ぐらいならともかく、機関銃など持っていたわけもない。
 
 ——分らなかった。
 
 今日はもう、寝よう。
 
 立ち上ると、玄関のドアをノックする音がして、利根は一瞬心臓が止るかと思うほどびっくりした。
 
「どなた?」
 
「利根さん。——美奈です」
 
 急いでドアを開けると、美奈がパジャマにカーデガンをはおって立っている。
 
「どうしたんだい?」
 
「だって——上から見たの。パトカーから降りて来たから心配になって……」
 
「ああ、そうか。いや、ちょっと事件の証人になってね。僕が捕まったわけじゃないよ」
 
「じゃ……何ともないのね」
 
「うん。ありがとう、心配してくれて」
 
 やっと、利根は微笑を浮かべた。
 
「良かった」
 
 そう言うなり、美奈が突然利根に抱きついた。
 
「美奈ちゃん……」
 
「心配だった!」
 
 震えるような声だった。
 
 そして、パッと離れると、
 
「お母さん、酔って帰って来て、もう寝てる」
 
 と言うと、ニッコリ笑った。「おやすみなさい!」
 
「おやすみ……」
 
 エレベーターへ駆けて行く美奈の後ろ姿を見送って、利根は戸惑っていた。
 
 今の美奈の抱擁は、少女のものではなかったかもしれない。——いや、気のせいだろうか?
 
 利根は、音をたてないように、そっとドアを閉め、ロックしたのだった……。
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