聞いた住所が不完全だったこともあって、探し当てたのは、もう夜の九時近かった。
その一軒家の前には、数人の人が困った様子でたたずんでいる。
「——失礼ですが」
と、利根は言った。「ここは、永井さんのお宅ですか」
中年の主婦が振り返って、
「あんた、どなた?」
「永井さんの古い友人です」
と、利根は言った。「何かあったんですか?」
「いえね……」
と、居合せた男女は顔を見合せて、
「何か凄《すご》い物音がしてね」
と、一人が言った。
「物音? どんな音です?」
「よく分んないわよ。でもさ、その後、悲鳴みたいなもんがしたって——」
「俺は言わねえよ! 人の声がした、って言っただけだ」
「言ったじゃないの! 『ありゃ、女の悲鳴だ』って」
「いや、そんな風にも聞こえたってだけさ」
「言ったことは言ったんだから——」
「待って下さい」
と、利根は言った。「警察には連絡したんですか?」
「だって……もし何でもなかったら……。ねえ、叱られちゃうわよ」
「いや、大丈夫ですよ。私が呼びましょう。友人ですから、呼んでもおかしくない」
「そうしてくれる?」
ホッとした空気が広がる。
「その物音と声は、いつごろ聞こえたんですか?」
「ええと……」
と、顔を見合せて、
「十五分くらい前かな」
「そんなもんね」
「分りました」
利根は〈永井〉という表札の出た玄関へ目をやった。
古びた一軒家で、夜だというのに、明りも消えている。
——永井は会社を休んでいた。
住所を訊《き》いても、なかなか教えてはもらえなかった。当然ではある。
やっと聞いて、帰り道、こうして捜して来たのだが……。
「恐れ入りますが、電話を貸して下さい」
「ああ、うちが向いだから」
と、快く言ってくれて、利根は向いの家へ上り、一一〇番した。
何があったのかはっきりしているわけではないので、なかなか出向いてくれるとは言わなかったが、それでも、利根の話し方がきちんとしていたせいだろう、パトカーが来てくれることになった。
「——やれやれ」
外へ出て、利根は永井の家の玄関のドアを叩いてみた。
「むだよ。何回も呼んでみたわよ」
「そうですか。——どうしたんだろう」
利根はドアを開けようとしたが、鍵《かぎ》がかかっている。
「奥さんと子供さんがいるんですね?」
「そうよ。男の子で、今……二つかしらね、確か。『クニちゃん』っていつも呼んでたから、『クニオ』とでもいうのかしら」
表札は〈永井〉の姓だけである。
「私がパトカーを待っています。もしご用があれば——」
「でもねえ……。気になるわよ」
居合せた人たちも、利根が警察の相手をしてくれるとなると、どうなるか見届けたいらしい。
「ご主人が中にいるかどうか、お分りですか」
「さあ……。会社から帰ったかどうか……」
と、首をかしげている。
そのとき——利根の耳に入って来たのは、待っているパトカーのサイレンではなかった。
家の中から子供の泣き声が——甲《かん》高《だか》く、はっきりと聞こえて来たのである。
「あらま。クニちゃんだわ、きっと」
と、主婦が言った。
「中へ入りましょう! もしけがでもしていたら大変だ」
利根はそう言ったが、誰もが、玄関をこじ開けて入るとなると、ためらっている。
「鞄《かばん》を持っていて下さい」
と、利根はその主婦に鞄を預けると、玄関のドアを力一杯揺さぶった。
古いドアとはいえ、そう簡単には開かない。
利根は、玄関の脇に積んであるレンガを一つ手に取って、ドアの鍵の辺りに何度か打ちつけた。
何かの弾み、というものだろう。ドアがカチリと音をたてて開いた。
子供の泣き声がひときわ高く聞こえてくる。
利根は中へ入り、明りのスイッチを捜して押した。
玄関が明るくなる。正面の襖《ふすま》が半ば開いていた。
「どこにいるんだ?」
と、できるだけ穏やかに呼ぶ。「クニオ君かい? 今行くからね」
泣き声は止まない。——すぐ近くだ。
利根は、襖を開け、明りを点《つ》けると、息を呑んだ。
——茶の間だった。いや、たぶんそうだったのだろう。
戸棚、ちゃぶ台、食器戸棚、どれもがボロボロになっている。
何があったんだ?
ガラスが砕け、障子は桟ごとバラバラになっていた。
子供の泣き声は——どこだ?
廊下があって、その途中、肩ほどの高さに小さな納戸がある。
利根はその引き戸を開けた。
男の子の小さな顔が見えた。
「良かった!——さあ、もう大丈夫!」
男の子は、おとなしく利根に抱かれて出て来た。
「クニオ君だね?」
男の子がコックリと肯《うなず》く。涙で汚れた顔には、永井の面影がある。
「——まあ、無事だったの!」
抱いて出ると、向いの主婦が声を上げた。「クニちゃん! 怖かったね!」
「お願いします。母親を捜します」
「どうしたっていうの?」
「分りません。——さっぱり分りません」
利根は、子供を主婦に任せて、家の中へ戻った。
「奥さん。——奥さん、どこです?」
と、利根は呼んだ。
あの茶の間には、少なくとも永井の妻の姿はなかった。
ガラスの飛び散った茶の間へは危くて入れず、利根は廊下の奥へと進んでみた。
風呂場らしいくもりガラスの戸がある。そこは明りが点いていた。
少しためらったが、利根は戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。ガラガラと戸がレールの上を滑る。
手前の小さな洗面所、その向うにお風呂場があった。
そこに、女が倒れていた。タイルの上に、血に染ってうつ伏せに倒れている。
顔がこっちを向いて、もう何も見ていない目が見える。
利根は、パトカーのサイレンで我に返った。
これが——永井の妻だろう。
「女房と子供を頼む」
と、永井は言ったが……。
助けられなかった。——子供だけが生きのびたのだ。
「ここです」
と、利根は言った。
パトカーが停る。誰かが見ていたらびっくりするだろう。
もう夜中、十二時を回っていた。
警察での話が長くなって、自宅までこうして送ってくれたのである。
ぐったりと、体の芯《しん》までくたびれ切っていた。
三階へエレベーターで上り、部屋へ辿《たど》り着くまでが、とんでもなく長く感じられた。
上着を脱ぎ、ネクタイを外すと、利根はしばらく部屋の真中に座り込んだきり、動けなかった。
今は、ただ休みたかったが、しかし、そう簡単には眠れないだろう。——永井の妻、伸子の死体の映像が、目の前をチラついて、消えない。
それは、あの金網越しに見た白いコートの女とダブって、利根の胸をしめつけた。
——何があったのか。
永井は行方が分らないままだった。
利根は、
「なぜ永井の所を訪ねたか」
を説明するために、昼間の電話のことを刑事へ話さなければならなかった。
もちろん、喫茶店で見た「永井」については黙っていたのだ。
しかし、そのために、刑事は見当外れの推測をしたらしい。——まともでない電話。妻の他殺死体。
刑事は、永井がノイローゼのような状態で、妻子を殺そうとした、と思ったのである。妻は危険を感じて、子供を戸棚へ隠し、自分は逃げる間がなく殺された……。
利根は、「そうじゃない」と言おうとしたが、根拠を問われても答えられないことを考えて、やめた。
刑事は、永井を手配するだろう。——しかし、利根は知っている。
永井はもう死んでいるのだ。妻の伸子が殺されたとき、永井は死んでいたのである。
それを知っているのは、利根しかいない……。
子供は「邦男」という名だった。
警察から、近くの施設へ連れて行かれたが、もうぐっすり眠ってしまっていた。
それでも、刑事が首をかしげたのは、伸子が射殺されていたことだ。
伸子は七、八発の弾丸を撃ち込まれて死んでおり、茶の間の惨状はおそらく「軽機関銃のようなもの」を乱射したためだということだった。
永井が、ただの拳銃ぐらいならともかく、機関銃など持っていたわけもない。
——分らなかった。
今日はもう、寝よう。
立ち上ると、玄関のドアをノックする音がして、利根は一瞬心臓が止るかと思うほどびっくりした。
「どなた?」
「利根さん。——美奈です」
急いでドアを開けると、美奈がパジャマにカーデガンをはおって立っている。
「どうしたんだい?」
「だって——上から見たの。パトカーから降りて来たから心配になって……」
「ああ、そうか。いや、ちょっと事件の証人になってね。僕が捕まったわけじゃないよ」
「じゃ……何ともないのね」
「うん。ありがとう、心配してくれて」
やっと、利根は微笑を浮かべた。
「良かった」
そう言うなり、美奈が突然利根に抱きついた。
「美奈ちゃん……」
「心配だった!」
震えるような声だった。
そして、パッと離れると、
「お母さん、酔って帰って来て、もう寝てる」
と言うと、ニッコリ笑った。「おやすみなさい!」
「おやすみ……」
エレベーターへ駆けて行く美奈の後ろ姿を見送って、利根は戸惑っていた。
今の美奈の抱擁は、少女のものではなかったかもしれない。——いや、気のせいだろうか?
利根は、音をたてないように、そっとドアを閉め、ロックしたのだった……。