カウンターで仕事をしていた笠木恭子は、入口の扉が開くと、顔を上げ、反射的に、
「いらっしゃいませ」
と言っていた。 「──あら」
「どうも」
と、亜由美は言った。 「犬も入って構いません?」
「どうぞどうぞ」
と言ったものの、 「──どこにいるんですか?」
「ここに」
笠木恭子は伸び上がって、やっとドン・ファンを見ることができた。
「まあ、きれいな犬。とても毛並のいい犬ですね」
「毛並もそうですけど、人並みに扱わないと機嫌が悪いんです」
と、亜由美が言った。 「お仕事のお邪魔じゃありませんか」
「いいえ。ご覧の通り、一人でいても、忙しいことなんて、めったにないんですよ」
と、いかにもお役所風の事務服をはおった恭子は、立ち上がって、 「どうぞ、カウンターの中へ入って下さい。今、お茶でもおいれしますわ」
亜由美は、言われた通り、カウンターの中へ入って、正《まさ》に「猫の額みたいな」小さなスペースに、窮屈そうに座った。
「──税金からお給料をいただいてて、こう暇じゃ、申し訳ないみたい」
と、恭子は、亜由美にお茶を出した。
「どうも」
「ワンちゃんにあげるものはなさそうね、ごめんなさい」
「ワン」
ドン・ファンは、なまじ妙なものをもらっても、口にしない。
「宇野君の行方《ゆくえ》、まだ分りませんの?」
と、笠木恭子は訊《き》いた。
「ええ。こちらにも連絡は?」
「全然。──もう五日ですものね。あの子、無断で休むなんてこと、なかったんです」
「どこに隠れているか、お心当りはありませんか」
と、亜由美は訊いた。
「さあ……。でも、あの子が人殺しをしたなんて、とても信じられません」
と、恭子は首を振った。
「彼がやったとは限りませんわ。でも、真田明宏も行方不明ですし」
「車が川に落ちたとか」
「でも、死体が見付かったわけじゃないんです。──八代、品川と続けて二人殺されたわけですから。それに、映画館での事件もあります」
「間違って、刺された、という人ですね」
「あの事件から考えると、宇野さんも、狙われていたかもしれないんです。そうなると、一体犯人が誰なのか」
「さっぱり分りませんわ」
「ただ、気になるのは……。八代のお葬式の後、宇野さんが急に別人のようになったことなんです」
と、亜由美は、あのときの宇野の様子を説明して、 「何か、きっかけになるようなことがあったんじゃないかと思うんですけど、思い当ることはありませんか?」
笠木恭子の表情に、何か微妙な変化が現れたように、亜由美には思えた。──しかし、それは一瞬の内に消えて、
「私にも、宇野君の心の中までは分りませんわ」
と、静かに言っただけだった。
そのとき──ガタン、と大きな音がして、亜由美はびっくりして見ると、
「まあ、ドン・ファン! 何してるの!」
ドン・ファンが、笠木恭子の机のわきにあったくずかごを引っくり返してしまったのだ。中の紙くずが飛び散ってしまっている。
「あらあら」
と、恭子が笑った。 「何しろ狭いですものね」
「しょうがないわね! ドン・ファンったら! すみません、本当に」
亜由美が急いで、飛び出した紙くずをくずかごへ入れる。
「ああ、私がやりますから。──大丈夫ですよ」
「ごめんなさい。──ドン・ファン、ちゃんとお詫びしなさい」
「クゥーン……」
ドン・ファンが、ペタッと床にお腹をつけて、上目づかいに恭子を見る。恭子は笑い出してしまった。
「全くもう……。じゃ、これで失礼します。宇野さんから何か連絡があったら──」
「ええ、お知らせしますわ」
と、恭子が肯《うなず》く。
亜由美は、ドン・ファンを連れて、出張所の建物を出た。
「──あんたらしくもないわね。あんなくずかごなんかに何の用だったの?」
ドン・ファンが、足を止めた。──足に何か小さな紙片がはりついている。
「いやね。何をくっつけて来たの?」
亜由美は、かがみ込んで、ドン・ファンの足にくっついたその紙片をとってやったが……。
「これは──」
亜由美は、その紙片を見て、目をみはった。
「くたびれた……」
と、ゆかりが言った。
「何言ってんの。一つすんだばっかりじゃないの」
と、聡子が呆《あき》れて言った。「あと二つ、残ってるんだからね」
「ねえ、聡子」
「何?」
「残りは明日にしない?」
「だめよ。今日の内にやっちゃうの。そうしないと、取り消された方が困るのよ、遅れた分だけ」
「分ったわ……」
と、ゆかりは、すっかり疲れはてた様子で言った。 「私、もう二度と婚約なんかしないわ」
──二人は、Nホテルで、ゆかりと八代との式と披露宴をキャンセルして来たところだった。
何しろ相手が死んでしまったのでは、話にならない。
そして、真田、宇野との式も、とりあえずキャンセルしようということになって、ゆかり一人では頼りないので、聡子がついて歩いているのだった。
「さ、次はKホテルへ行きましょう」
と、聡子がメモを見て言った。
「でも、聡子」
「何?」
「申し訳ないみたいね、キャンセルするってこと」
「今さら何言ってんのよ。──この次のときは、もっとじっくり考えてから、決めるのね」
二人は、Kホテルまで歩いて行くことにした。歩いても、三つのホテルは、それぞれ十分ほど。
「お互いに近い所にしたの。次に移るとき、便利でしょ」
と、ゆかりは妙な自慢をしている。
「大学の講義じゃないんだからね。一時限はここ、二時限はあっち、なんてわけにゃいかないのよ」
と、聡子は言った。 「そこ、右へ上がるとKホテルだ。ここは──真田明宏と式を挙げることになっていたのね」
「そうだった?」
「人に訊かないでよ」
二人は、Kホテルへ入って行くと、 〈結婚式相談コーナー〉へと向った。
こういうとき、ゆかりは気が弱くて、てんでだめである。仕方なく、聡子が、係の女性に声をかけた。
「あの──すみません」
「はい、何か?」
と、にこやかに応対されると、何となく聡子もひけめを感じる。
「あの──この結婚式なんですけど」
と、真田明宏との式の招待状を出し、 「事情がありまして、キャンセルにしたいんです。よろしく」
係の女性は、ちょっとそれを眺めていたが──。
「あら、確か……」
と、テーブルの上の大きなファイルをめくって、
「──そう。これですね。真田明宏さんと、城之内ゆかりさん」
「はい、そうです。私じゃなくて、この子なんです」
と、つい余計なことを言ってしまう。
「これは、もうキャンセルされてますよ」
と、係の女性が言った。
聡子とゆかりは顔を見合せていたが、
「──いつ、キャンセルされたんですか」
と、聡子が訊いた。
「午前中ですわ、確か。女の方が来られて、キャンセルの手続きを……」
「女の人?」
聡子は、首をかしげた。──誰だろう?
しかし、ともかくもうキャンセルされているというのだから、ゆかりたちのすることはない。
「失礼しました」
と、頭を下げて相談コーナーを出る。
「またどうぞ」
と、声をかけてくれたのを、二人は複雑な思いで聞いた。
「──おかしいわね。誰がやったんだろ」
と、聡子が首をひねっている。 「私、亜由美に連絡してみる」
「私、ちょっと化粧室へ行ってるわ」
「じゃ、ここで待っててね」
二人は別れて──聡子は電話を捜しに、ゆかりは化粧室を……。もちろん、ホテルのロビーの中である。
ゆかりは、化粧室で手を洗い、鏡の中の自分の顔に見入った。──いくら世間知らずのゆかりでも、この一件が、もとはといえば自分のせいだということは、分っている。
「もう少ししっかりしなきゃ」
と、呟《つぶや》くように言って、鏡の中の自分を見ていたが……。
誰かが、背後に立った。鏡に映ったその顔を見て、
「あら……。確か宇野さんの──」
と、ゆかりは振り向いた。
「静かに」
と、笠木恭子は言った。 「声をたてると、これがあなたのお腹に刺さるわよ」
恭子の手には、鋭いナイフが握られていた。
「あの……」
「黙って、ついて来るのよ」
ゆかりは肯いた。
「出たら、右へ。エレベーターで駐車場へ下りるの」
背中に、ナイフが突きつけられていては、ゆかりも言われる通りにするしかない。いや、ちっとも恐怖感は湧《わ》いて来なかったのだ。
ただ、何が何だか分らないというだけで……。
ともかく、言われるままに、ゆかりはロビーへ出ると、エレベーターの方へと歩いて行く。笠木恭子は、ぴったりとその後ろについて、ナイフを持った手に、折りたたんだコートをかけて隠していた。
「あの……」
と、ゆかりがおずおずと言った。
「何?」
「お名前、何でしたっけ?」
と、ゆかりは言ったのだった……。