何だか、古ぼけて侘《わび》しい感じのホテルだった。
レンタカーでここまで来て、ゆかりは、笠木恭子に促されるままに、そのホテルの中へ入った。
その一室。ドアを恭子が叩《たた》くと、
「誰だ?」
と、中から声がした。
「私よ」
ドアがすぐに開く。
「──やあ、来たね」
「宇野さん……」
ゆかりは、部屋の中へ入った。昼間だというのに、カーテンを引いてあって、薄暗く、少し埃《ほこり》っぽい匂いがした。
「何してるの、宇野さん? みんな心配してるのよ、あなたがいなくて」
と、ゆかりは言った。
「心配? そんな必要はないさ。僕は生れ変ったんだ。何もかもうまく行く」
宇野の話し方は、別人のようだった。
「宇野さん、私……。あなたとの婚約もキャンセルするつもり。ごめんなさいね。でも、結婚って、もっと大変なことだったのよね。私がいい加減で──」
「その必要はない」
と、宇野は遮った。 「君は僕と結婚すればいいんだ。あの真田みたいな、生っちょろい奴とじゃなくてね」
ゆかりはすっかり面食らっていた。宇野は続けて、
「真田との式はこの女がキャンセルして来たよ。だから君は予定通り、僕と結婚すればいいんだ」
と、自信たっぷりの口調で言った。
「この女、って……。宇野さん、この人はあなたの先輩でしょう。そんな口のきき方しちゃいけないわ」
「先輩だって女は女さ。今は僕のものだ」
ゆかりは恭子を見た。──恭子は青ざめて、うつむいている。
「じゃあ……宇野さん……。でも、この人には、ご家族があるんでしょう」
「もう僕とは切れないのさ。何しろ僕のために、人殺しまでしてくれたんだ」
「何ですって?」
恭子が顔を上げると、
「やめて、宇野君。いけないわ。こんなこと──」
「何言ってるんだ。あんたは僕の言う通りにしてりゃいい」
宇野は、ゆかりの方へと近付いて行った。ゆかりは、後ずさったが、狭い部屋だ。すぐに部屋の角へ追いつめられてしまう。
「宇野さん……。何するの?」
「決ってるじゃないか。君を僕のものにする」
「そんな──」
「おとなしく、言われた通りにするんだ。いいかい、君は僕のことを、前のようないくじなしだと思ってるんだろう? そうじゃない! 僕は、あいつをやっつけてやったんだ」
「あいつ?」
「君に乱暴しようとした品川さ。手ぎわよく、スパッとナイフで首筋を切り裂いてやった。見せてやりたかったよ。君の前に奴の首をさげて帰りたかった」
得意げに話す宇野は、まるでホームランを打ったと言って喜ぶ子供のようだった。
「何てことしたの!」
「男はね、強い者が勝つのさ。君にも、そのことを教えてあげる。男の強さをね。さあ、ベッドへおいで」
宇野が差し出した手を、ゆかりはじっと見て、首を振った。
「いやよ。──宇野さん。以前のあなたは、やさしかったわ。すぐ落ち込んで、頼りない気もしたけど、でも人間らしかったわ。今のあなたは狂ってる」
宇野の顔がサッとこわばった。
バシッと音がして、宇野に平手で頬《ほお》を打たれたゆかりが、アッと声を上げて、倒れた。
「宇野君、だめよ!」
と、恭子が叫んだ。
「引っ込んでろ!」
と、宇野が怒鳴る。 「これが男なんだってことを、教えてやるんだ」
宇野は、ゆかりを引張って立たせると、ベッドの方へ投げ出した。
「やめて……。宇野さん──」
「おとなしくしてろよ。今に、僕から離れられなくなるんだ」
宇野は、ゆかりの上にのしかかって行った。
「いやよ!──やめて!」
と、ゆかりが叫ぶ。
「黙れ!」
宇野がゆかりの首に手をかけた。 「死にたいのか? 俺が妻にしてやると言ってるんだ。ありがたいと思え」
恭子が泣き出した。そして──走って行くと、スチールの灰皿をつかみ、宇野の頭へと力一杯振り下ろした。
ドアが激しく叩かれたのはそのときだった。
「開けろ!」
殿永の声がした。そして、ドアが壊れそうな勢いで開いた。
──宇野は床に倒れていた。
ベッドに起き上がったゆかりは、呆《ぼう》然《ぜん》として、宇野を見下ろしており、笠木恭子が、重い灰皿を手に、立ったまま泣いていた。
「──ゆかり! 大丈夫?」
亜由美が駆け寄る。
「亜由美……。その人が──」
「分ってる。もう大丈夫よ」
亜由美は、ゆかりを助け起こすと、抱きかかえるようにして、部屋から連れ出した。
殿永は、笠木恭子の肩に手をかけて、
「さあ、ゆっくりお話しましょうか」
と、静かに言った。
コトン、と音をたてて、恭子の手から灰皿が落ちた……。
「じゃあ……」
と、母の清美が言った。 「その人は、夫も子もいる身で、年下の男に惚れちゃったの?」
「手っとり早く言えばね」
と、亜由美が肯く。
「そう……」
清美は、考え深げに肯くと、 「分るわ、その気持」
と、言った。
「──お母さん、お茶でもいれてよ」
「はいはい」
清美が居間を出て行った。
「全く、面白い方だ」
と、殿永刑事が言った。 「心が和《なご》みますよ、あなたのお母さんを見ていると」
「こっちは、疲れます」
と、亜由美は言った。 「で……結局、八代を殺したのは──」
「笠木恭子だったんです」
と、殿永は言った。
聡子とゆかりも、ソファに座って、神妙に話を聞いている。
「恭子は、宇野のことが心配だったんですな。まるで自分の弟のような気がした、と言っています」
「何となく分りますね」
「その宇野が、ゆかりさんにプロポーズして、何と、OKしてもらった。恭子は、我がことのように喜んだのです。ところが……」
「ゆかりは他に二人の男とも婚約していた、と」
「恭子は、ゆかりさんがどんな娘さんか気になって調べたんですね。ところが、結婚相手が三人もいると知って、困った。──何とかして、宇野を、好きな人と一緒にさせてやりたい、と思った。それが、すべての始まりだったわけです」
と、殿永は言った。
「じゃ、真田が結婚詐欺師だと投書したのも?」
「もちろん、彼女です。しかし、それぐらいでやめておけば、どうってことはなかったんですがね」
「ポルシェに細工もしたんですか」
と、聡子が訊いた。
「当人は否定しています。──ま、ゆかりさんまで死んでしまっては、元も子もない。あれは、たぶん真田の整備が悪かったんでしょう」
「やりかねない」
と、亜由美が肯く。
「でも、宇野さんの代わりに映画館で刺された人が──」
と、ゆかりが言った。
「あれからです。恭子の方も、まともでなくなったのは」
と、殿永が首を振った。 「たぶん、恭子の中で、宇野を幸せにしたいという思いが、異常なまでにふくらんで来たんでしょう」
──清美が紅茶をいれて来た。
「これがね、あの出張所のくずかごに入ってたの」
と、亜由美が、小さな紙片を、テーブルに置く。
聡子が取り上げて、
「映画の指定席券じゃない」
「そう。宇野が買った、五時二十分の回の券」
「じゃあ……」
「恭子は、自分で七時半の回のチケットを買っておいて、すりかえたのよ。チケットは、宇野の上衣に入っていて、ロッカーにかけてあったわけだから、すりかえるのは簡単だったのよ」
「ワン!」
と、ドン・ファンが鳴いた。
「分ったわよ」
と、亜由美がにらんで、 「これ、ドン・ファンの足にくっついてきたの」
「もっと早く捨てときゃ良かったのにね」
「捨てたんですよ」
と、殿永が言った。 「ところが、たまたまその一枚は、こぼれたお茶か何かで濡れてしまって、くずかごの底にはりついていた」
「よくあるわね」
と、聡子が言った。 「濡れ落葉、か」
「これで分ったわけ」
と、亜由美が言った。 「恭子は、わざと宇野が狙われているように見せかけて、彼に疑いがかからないようにしたのよ。運悪く、その席に座った人を、軽く傷つけるつもりで刺して逃げた。──でも、思いの他、ひどい傷になってしまった」
「もう、戻るに戻れなくなったんですね」
と、殿永が続ける。 「──や、こりゃ旨《うま》い紅茶だ。──その後、恭子は、八代を殺した。八代のことも調べ上げていて、あの日、ゆかりさんをホテルへ連れ込むつもりだと知ったからです」
「あの八代さんが?」
と、ゆかりが目を丸くした。
「ホテルに予約の電話を入れているのを、聞いてしまったんですよ、会社のビルの下でね」
「それで殺したのか」
聡子は、ため息をついて、 「自分のためでもないのに」
「そう。恭子も、命がけになっていた。宇野が相変らず落ち込んだままなので、恭子は何とかして、自信をつけさせたいと思い、思い切って自分から彼をホテルへ連れて行き、抱かれたのです」
「──凄《すご》いことするのね」
と、聡子は唖《あ》然《ぜん》としている。
「ところが……思いもかけなかったことが起きた。──宇野が、それを境に、ガラッと変ってしまったのです」
「男は力だ、と思ったのね。力ずくでものにすりゃ、女はついて来る、と」
亜由美は首を振って、 「要するに、屈折していたものが、全部一度に裏返ったのよ」
「今度は、宇野が、恭子を支配し始めたのです。恭子が八代を殺したのも知っている。宇野としては、女一人、自分の思いのままになる面白さに、酔っていたんでしょう」
「虚《むな》しいことです」
と、清美が言った……。
「恭子も悩んでいました。よかれと思ってやったことが、宇野の狂気を誘い出してしまった。──品川を殺す、と言い出し、恭子は止めようとしたのですが、宇野は実行してしまった」
「それで宇野は、ますます自信をつけてしまったのね」
と、亜由美が言った。 「真田の方は、一旦、宇野の言葉にのって、品川を殺すなんて言ってみたものの、後になって、とてもやる気にならなくなった。そして実際に品川が殺されると、怖くなって、姿を隠してしまったのよ。次は自分が殺されるかもしれない、と思ったのね」
「じゃ、わざと車を落として?」
「そう。──宇野が捕まって、やっと出て来たわよ。どこかの女のマンションに隠れてたんですって」
「情ない男」
と、聡子が顔をしかめる。 「ねえ、ドン・ファン」
「ワン」
「ともかく、このチケットを、塚川さんが発見して下さったので、我々も笠木恭子の方へ目をつけたわけです。で、尾行してみると、案の定、ゆかりさんをさらって、宇野の所へ案内してくれた」
「怖かったわ」
と、ゆかりは言った。 「でも──怖いより、気の毒だった。女は力で従えればいい、なんて信じてる宇野さんが、哀れだった」
「殺されるとこよ、下手すりゃ」
「分ってるけど……」
「しかし、一番哀れなのは、笠木恭子ですな。宇野におどされて、言うなりになっていたが、やはり、黙って見てはいられなかった」
「宇野の傷は?」
「大したことはありません。石頭だったようでしてね」
「あの女《ひと》、私を助けてくれたのよね」
と、ゆかりは言った。 「いくらか、罪が軽くなるでしょうか」
「たぶんね」
と、殿永が肯いた。 「彼女のご主人にも会いました。事情をよく説明しておきましたよ。彼女の出所を待つ、と言っていました」
「──少し、救われたわね」
と、亜由美が紅茶を飲んで、息をつく。 「でも、ゆかり、今度婚約するときは、ちゃんと事前に私に相談しなさい」
「そうするわ」
「いけませんよ」
と、清美が口を出した。 「いい人だったら、亜由美が横どりするかもしれません」
「お母さん!」
亜由美がにらむと、ドン・ファンが、
「ワン!」
と、笑ったのだった。