「遅《おそ》くなってしまって……」
と、亜由美は、安井常子の家の玄関で、頭を下げた。
「いいのよ。どうせ時間はあるんだもの。さ、上って」
「失礼します」
亜由美は上り込んだ。居間へ通される。
「——あのワンちゃんは?」
と、紅茶をいれながら、安井常子が訊《き》いた。
「ええ、外から直接来たので、部屋で留守番を」
「まあ、それは可哀《かわい》そうね。お腹を空かしてるんじゃない?」
「いえ、少しは食べるものを置いて来ましたから」
「そう。それならいいけど——」
安井常子は、座り込《こ》むと、あれこれ雑談を始めた。
亜由美は、ちょっとがっかりした。何かあるのかと思って来たのだが、ただ世間話をするだけだったのか。
それこそ、ドン・ファンも待っているし、適当に切り上げて失礼しようか、などと考えたが、そんなとき、
「そうだわ、あの[#「あの」に傍点]永田さんの所とすぐご近所ね」
と、安井常子が言い出したのだ。
「ええ。引越《ひつこ》しのとき、手伝っていただきました」
と、亜由美は言った。「——奥様《おくさま》のこと、お気の毒ですね」
「そうねえ、本当に。でも——」
と、言いかけて、常子が言葉を切る。
「え?」
「ちょっと、色々あったのよ」
フフ、と小さく笑って、思わせぶりに言った。
「何か——永田さんに? とても親切な方ですけど」
「そう。でも、若い女性に特に親切って噂《うわさ》だったわ」
「まあ。——まさか。でも、大体男の人はそうじゃありません?」
「そりゃそうね」
と、常子は笑って、「でも、あの人の場合は、少々問題もあったのよ」
「浮気……ですか?」
「殺された奥さん、いつも、険しい顔してたわ。きっと夫婦仲がうまく行ってないのね、とみんな話してたものよ」
「そうですか。——見かけによらないものですね」
「だってね」
と、常子は少し声を低くして、「奥さんが殺されたとき、てっきりご主人が犯人だと思ったくらいよ。みんな、そう思ったんじゃない?」
「だけど、実際は——」
「もちろん、アリバイがあったというから、違《ちが》うんでしょうね。でも、アリバイなんて、結構いい加減なもんじゃない?」
「ええ。それは……」
「それに、時々苦情が来てたのよ、永田さんのことで」
「苦情って、どんな?」
「あのご主人、カメラいじりが好きでね、ほら——何というの、遠くが写る——」
「望遠レンズですか」
「そうそう。それを持ってるの。会社の休みのときなんかにね」
常子は、クスッと笑って、「それで、他の家を覗《のぞ》いてた、っていうの」
「覗きを? まあ!」
「もちろん、当人は、鳥を写してたんだ、とか言ってたわよ。言いがかりだって怒《おこ》ってたけどね。——ま、本当か嘘《うそ》か、何となく疑われる雰囲気《ふんいき》があるのよ」
カメラ。——望遠レンズ。
気になることがあった。
あの、例の脅迫《きようはく》に使われた写真だ。尾田珠子が、狙《ねら》った男の腕《うで》につかまって、親しげに話しかける。
それは難しくあるまい。しかし写真を撮《と》るのはどうだろうか?
男の顔ははっきり写っていないといけない。そうでなきゃ、別人だ、とやり返されて、恐喝《きようかつ》になるまい。
しかし、尾田珠子の顔は、あまりはっきり分っても困るのである。
女子大生なんて、ちょっと見れば似た子がいくらもいる。現に、あの矢原晃子が見た写真は、矢原の顔がはっきり写っていて、尾田珠子の方は、よく分らない。
亜由美ですら、一瞬《いつしゆん》、本当に久恵かもしれないと思ったくらいである。
しかし、あんな風に、うまいタイミングで写真を撮るというのは、そうたやすくはあるまい。しかも、暗い所で撮っているのだ。
写真を撮られたことを、なぜ男が気付かなかったかというのが不思議だったのだが、もし望遠レンズを使って、少し離れたところから、カメラの腕にかけてはベテランの人間が撮れば……。
「——あら、すっかり引き止めちゃったわね」
と、安井常子が時計を見て言った。
「いいえ、こちらこそ、すっかりお邪魔《じやま》してしまって」
亜由美は、立ち上って、礼を言った。
「また、おしゃべりしましょうね。いつでも来てちょうだい」
と、常子は、亜由美を玄関まで送りながら、「もっとも、用事で出かけることが多いから、留守のときもあるわ」
と付け加えた。
部屋へ戻《もど》ってみたが、まだ茂木は帰っていなかった。
ドン・ファンが、ソファの上で、ドテッと横になって、恨《うら》めしげな目つきで亜由美を見ている。
「変な犬ね、本当にお前は」
と、亜由美は言った。「普通の犬はお腹を空かしてて、飼主《かいぬし》が帰って来たら、ワンワン嬉《うれ》しそうに足にまとわりつくもんよ。お前みたいに、そんな目つきで人を見たりしないわ」
文句は言いながら、しかし、帰りが遅《おそ》くなったのは事実だ。亜由美は、早速、ドン・ファンの食事を作った。——といったって、要するにドッグ・フードを器へ出しただけである。
家にいると、母の清美が結構色々作って、ドン・ファンもそれを食べるのだが、ここでは専《もつぱ》らドッグ・フード。
ドン・ファンは不服そうだが(舌がこえているのだ)、このときばかりは、よほどお腹が空いてたのだろう。アッという間に器を空にしてしまった。
「さて、と——人間様の方の食事の仕度もしなきゃ」
そろそろ夕食の用意をする時間だった。
亜由美も女で、料理は大の得意——ではない。「料理」じゃなくて、「推理」なら得意なんだけどね。
で、臨時の夫、茂木も、いつも冷凍《れいとう》食品を電子レンジで温めたものばかり食べさせられていたのである。
「今日はどの冷凍食品にするかな……」
と、迷っていると電話が鳴った。
出てみると、
「帰ってましたか」
と、殿永の声。
「殿永さん。あの後、何か分りました?」
「いや、まだです。実は、ちょっとお知らせがあって——」
「特売か何かのですか?」
殿永が笑いながら、
「いや、そうじゃありませんが、大安売りに出してもいいな、茂木の奴《やつ》を」
「まあ」
「茂木の足の傷が、どうもうんで[#「うんで」に傍点]しまったらしくて、熱を出して入院しちまったんですよ」
「入院?」
さすがにびっくりした。
「いや、大したことはありません。ただ、今日はそっちへ戻《もど》れないと思うので」
「分りました。——気の毒しちゃったわ」
「いや、それも職務ですよ」
「そうだわ、一つ調べていただきたいんですけど」
「何です?」
「矢原と、尾田珠子の写っている写真、望遠レンズを使って撮《と》ったものかどうか、分りません?」
「望遠レンズ?——すぐ当ってみますよ。しかし、どうしてそんなことを?」
「ちょっとした勘《かん》ですわ」
と、亜由美は気取った。
「あなたがそういう事を言い出すときは怪《あや》しいんだ。——いいですか、くれぐれも一人では無茶をしないように」
「分ってますわ」
「どうも怪しいもんだな」
と、殿永は言った。「じゃ、今の写真の件は、すぐに調べて連絡します」
「よろしく」
「いいですね」
殿永が念を押《お》す。「くどいようですが、探偵業《たんていぎよう》は、主婦の副業としては不向きですよ」
亜由美は、つい笑ってしまった。
「分りました。何かやるときは、必ずご連絡します」
「本当は、何もやらないでいて下さるのが、一番ありがたいんですがね」
と、殿永が、ため息と共に言った。
——電話を切ると、亜由美は、
「今夜は寂《さび》しく独り寝《ね》か」
などと呟《つぶや》いてみた。
もちろん、いつも独り寝なのである。あ、いや、一人じゃない。
「クゥーン」
まさか、亜由美の言葉が分ったわけでもあるまいが、ドッグ・フードを食べ終えて、やっと一息ついたドン・ファンが、鼻を鳴らして、すり寄って来る。
「分ってるわよ。だけど、お前はね、『一人』じゃなくて、『一匹』なのよ。自分じゃそう思ってないかもしれないけど」
それにしても、あの茂木という刑事、気の毒なことをした。
「まだ若かったのに」
などと、死んでもいないのに呟いていると——。
「失礼します」
玄関の方で声がした。
「はい」
急いで出て行くと、どうやら、鍵《かぎ》をかけていなかったらしく、大柄な、若い女性がトレーナー姿で立っていた。
その手をつかんでいるのは、永田の娘、由里だった。
「あら、由里ちゃん」
「保育園の者なんですが」
と、その若い女性は言った。
「まあ、ご苦労様です」
「実は、さっき永田さんからお電話がありまして、今夜、急な仕事で、どうしても遅《おそ》くなる、ということなんです。それで、もしよろしかったら、由里ちゃんを預かっていただけないかと思って」
「それは——構いませんけど、永田さんはご承知なんですか?」
「ええ、永田さんが、お願いしてみてくれないかと言われたんです」
「あら、それじゃもちろん。——由里ちゃん。あのワンちゃんがいるから、遊んでらっしゃいね」
「うん!」
嬉《うれ》しそうな声を上げると、由里は、飛び上るようにして、部屋へ入って来た。
「まあ、元気のいいこと」
と、亜由美は笑った。
「では、失礼します。よろしく」
と、保育園の女性が帰って行く。
ああいう仕事をしてる人って、飾《かざ》り気がなくて、爽《さわ》やかでいいわ、と亜由美は思った。
「ねえ、由里ちゃん。お姉ちゃん、これからご飯なの。一緒《いつしよ》に食べようか?」
と、早くもドン・ファンを相手に遊んでいる由里へ声をかける。
「いいの?」
「もちろんよ。お姉ちゃんも、一人で食べるの寂《さび》しいなあって思ってたのよ」
「じゃ、食べる!」
「待っててね」
——それほどの手間もかけずに、一応の食卓が整うのは、何といっても、食品産業の発達のなせる業《わざ》である。
「——おいしい」
と、由里も、多少はお世辞もあったかもしれないが、せっせと食べてくれて、亜由美は子供ってのもなかなかいいもんだわ、などと考えていた。
「うんと食べてね」
と、自分も食べながら、亜由美が言うと、
「お姉ちゃん、旦那《だんな》さんは?」
と由里がいきなり訊《き》いた。
「え?」
一瞬《いつしゆん》、誰《だれ》のことかと思った。——由里を前にして、つい、自分が「神田亜由美」だということを忘れていたのである。
「ああ、旦那ね」
と、笑ってごまかす。「ちょっと今夜はね——」
「殺されたの?」
亜由美はギョッとした。
「いいえ! 生きているわよ。でも、どうして?」
「うちのママみたいに、殺されたのかと思った」
「ママ、ねえ……。寂《さび》しいわね」
「パパは、ママが病気で死んだって言ってるけど、保育園で、もっと大きい子が言ってたんだ。お前のママは殺されたんだぞ、って」
余計なことを言う奴《やつ》がいるもんだ、と亜由美は思った。もっとも、やっと五歳の由里は、「殺された」ということの意味は、分っていないかもしれない。
「ママは、とてもすてきな人だったんでしょうね」
「うん」
と、由里は力強く肯《うなず》いた。「写真、見せてあげようか?」
「ママの写真? うん、お姉ちゃん、ぜひ見たいなあ」
「じゃ、ごちそうさましてから、うちに行こうよ」
「由里ちゃんの所へ?」
「そう。——ね。いいでしょ? ワンちゃんも来ていいから」
「それはいいけど——」
と、亜由美は、ちょっとためらって、「お部屋へ入れるの?」
「鍵《かぎ》があるもの」
「鍵が?」
「うん。ここに」
由里がえり元につけたブローチを、指して、言った。「この裏っかわにね、鍵がとめてあるの」
「へえ、便利ねえ」
これはチャンスだ、と亜由美は思った。
例の望遠レンズの話も確かめられるかもしれないし、何か証拠《しようこ》が残っているかも……。
だが、由里の目の前で、家捜《やさが》しするわけにはいかない。
「でも、黙《だま》って、由里ちゃんのお家に入ったら、パパに叱《しか》られないかな?」
「大丈夫よ」
と、由里は言った。「じゃ、パパに電話して訊《き》いてみる」
「パパの会社に?」
「うん」
これはいい手かもしれない。亜由美が望遠レンズのことを知っているとは、永田も思っていないだろう。
亜由美としては、調べている所へ、ひょっこり永田に帰って来られたりしては困るのである。今、電話して会社にいたとすれば、そうすぐには戻《もど》って来られない。
「電話番号、分る?」
由里は、ちゃんと番号をそらんじていた。
「じゃ、お姉ちゃんがかけてあげるわ」
亜由美は、その番号を回してみた。——少し間があって、
「——はい、T産業」
と、男の声。
「あの、永田さん、いらっしゃいますか?」
「永田ですか。ちょっと待って」
捜《さが》しているらしい間があってから、「——もう、こっちを出たらしいですよ」
「そうですか」
亜由美は少しがっかりした。
「おうちの人?」
「いえ——近所の者です。娘さんを預かってるんで」
「ああ、そうですか。早く帰んなきゃ、とは言ってましたよ」
と、気の良さそうな男で、「でも、今日は午後から出社だったから、仕事が片付かなかったみたいだね」
と、わざわざ付け加える。
「どうもありがとうございました」
亜由美は、電話を切って、由里の方へ、「パパ、もう会社を出て、こっちへ向ってるみたいよ」
と言った。
「じゃ、もうじき帰って来るわね」
「そうね。分らなくなるといけないから、ここにいましょ」
「うん」
亜由美は、由里にジュースを出してやりながら、
「今日は、何かご用があったの?」
と、言った。「朝、どこかへ寄って行ったのかな?」
「知らない。パパ、何も言ってなかったよ」
「そう。——いつも通り、保育園に行ったの?」
「うん。パパもそのまま会社に行った」
「——そう」
別に、どうってことじゃないだろうが、何だか気になった。
永田は、由里を保育園に置いて、真直ぐ会社に行かなかったのだ。もちろん、どんな用事があったのかは分らないが……。
そこへ、玄関のチャイムが鳴って、
「すみません」
と、当の永田の声がした。
「パパだ!」
と、由里が叫《さけ》んだ。
「すみませんでした。ご迷惑《めいわく》をおかけして」
と、永田は丁寧《ていねい》に礼を言った。「夕ご飯までごちそうになっては……」
「いいえ、ごちそうなんてものじゃないんです」
亜由美は正直に言った。「主人が、今夜、ちょっと出張で帰らないものですから」
「そうでしたか」
「あの——よろしかったら、お上りになりません?」
亜由美の言葉に、永田は、ちょっとためらっていたが、
「構わないんですか?」
と訊《き》いた。
「ええ、もちろん。何もありませんけど」
亜由美は、一応紅茶などいれて出しながら、
「——大変ですね、毎日、由里ちゃんの送り迎えを」
と言った。
「朝はともかく、帰りが時にはこうして遅《おそ》くなるんです。それが困るんですよ」
と、永田は言った。
「やっぱり仕事となれば、仕方ありませんものね」
「そうなんです。今日もずっと会議が続きましてね。そのせいで仕事がたまって。——会議中も、苛々《いらいら》のし通しですよ」
と、永田は苦笑した。
「まあ。会議ですか。いやですね、あんまり意味もない会議って」
知りもしないのに、亜由美は分ったようなことを言った。「じゃ、朝からずっと?」
「そうなんです。——またそういうときに限って、どうでもいいような議題ばかりなんですね」
と、永田は笑って言った……。