そのマンションが見えた所で、女は車を停《と》めた。
道のわきへ寄せ、エンジンを切る。——深夜の道に、人通りはなかった。
女は車を出ると、コートの前をかき合せた。霧ともつかぬ細かい雨が降っていて、歩けば濡《ぬ》れそうだったが、傘をさすのも面倒だったのだ。
ドアが、ちゃんとロックされているか確かめることも忘れなかった。
あのマンションか……。女は、夜の中にも白く浮き出て見えるその建物を、それ自身が憎いような目でにらんでいた。
夜道を歩き出すと、顔に雨が貼《は》りつくように当って、冷たい。——秋といっても、まだ初秋である。その割には冷え込む夜だった。
マンションまで、約五分。
その明るいロビーへ足を踏み入れたとき、コートや髪はしっとりと濡れていた。
腕時計を見る。——午前二時三十分。
電話を受けて、二十分しかたっていない。時間をむだにしなかったことでは、自分を褒めてもいい、と女は思った。
エレベーターの方へ歩いて行くと、ブーンと音がして、エレベーターが下りて来る。女はとっさに、今は空っぽの受付のカウンターの中へ入ると、頭を低くして、身を隠した。
こんな時間に、誰《だれ》が下りて来たのだろう?
まさかこのカウンターの中を覗《のぞ》くことはあるまいが……。
息を殺していると、エレベーターの扉が開いて、ガシャンと大きな音をたてる。少し古いエレベーターなのだ。このマンション自体、決して新しくはない。外観の白さも、後から塗り直したものだろう。
ガサガサと音がして、パタパタ、サンダルのはねるような音が、わきの方へと遠ざかって行く。覚えのある音だ。ゴミ袋の音である。
共同のゴミ捨て場が、マンションの中にあるのに違いない。
夜中でも、置いておけば、翌朝来た管理人が外へ出しておいてくれる、というマンションの便利な点の一つである。
仕方ない。当然、今のサンダルをはいた住人は戻って来る。それをやり過す他はない。
女は、苛《いら》立《だ》つ自分を何とか抑えた。何分のことでもない。すぐに戻って来るはずだ。
——来た。
そう。早く行って! ぐずぐずしないで!
やっとエレベーターが上って行く。
女は、カウンターからそっと顔を出した。エレベーターは六階で停《とま》っている。
もう大丈夫だろう。——エレベーターの上りボタンを押すと、ブーンとモーターの音がして、下りて来る。
四階と言ってたわね、あの人。
四階。〈405〉。そこで、彼は待っている。一人ぼっちで。震えながら。
一人ぼっちで? いや、正確には一人ではない。
エレベーターの中は、タバコの匂《にお》いがこもっていた。中でタバコを捨てる住人がいるらしく、床にこげた跡がついている。
四階まで、エレベーターはのんびりと上って行く。
扉が開く、ガシャンという音に肝を冷やした。静かな廊下に響きわたるようだ。
階段で来れば良かったか、とチラッと後悔した。しかし、住んでいる人間は慣れているだろう。
あまり足音をたてないように、用心して歩いて行くと、〈405〉はすぐに見付かった。
コートのポケットから手袋を出し、はめる。ドアのノブを回してみたが、ロックされていた。
インタホンを鳴らすと、しばらくは返事がなかった。——早くして!
「誰だ?」
と、囁《ささや》くような声が応《こた》えた。
「私よ。開けて」
と、女は言った。
「ああ……」
すぐにドアの向うで物音がして、ドアが細く開いた。
「一人かい?」
片目を覗かせて訊《き》く彼は、いつもの彼とは全く違っていた。
「さあ、中へ入れて」
「うん……」
女は、入ってロックすると、
「この匂いね」
と、言った。
「匂い?」
気付かないのだろう。そうだ。女の方は、ずっと前から気付いていた。
「他の女の匂い」に……。
「いいわ。どこ?」
「——こっちだ」
重苦しい足どりで、男は先に立って行く。
寝室。もちろん大して部屋数はないので、そこが一番広い部屋だった。
「ここ?」
と、女は訊いた。「暗くて見えないじゃないの」
「うん……。怖くてね……」
明りを点《つ》ける。手袋をはめた手で。
寝室が明るくなったとき、女はまず、意外によく片付いているという印象を持った。
もちろん、それも目に入ったが、予期していたことだから、大してショックを受けはしなかったのだ。
死んでいるのは、ベッドの上。頭が、端から落ちて、逆さになっている。長い髪が、床へ届くかと思うほど。
死んでいることは、確かめる必要もない。
ガウンの胸から腹の辺りにかけて、赤く血が広がって、その真中に、ポカッと空虚な穴があいている。
「——拳《けん》銃《じゆう》は?」
と、女は訊いた。「どこなの?」
「その……テーブルの上」
と、男が答える。
背広がだらしなく乱れ、ネクタイもゆるんでいる。混乱と当惑が、その服装から分る。
拳銃を、女はとり上げた。——重い。ずっしりと重い。
本物を手にとるのは、初めてだった。
「弾丸は残ってるの?」
「ああ……。五発入ってると思う。一発……使ったから、あと四発」
男の顔は蒼《そう》白《はく》で、今にも気を失いそうだ。
「しっかりして」
と、女は言った。「もうこの女は生き返らないわ。でも、逃げられるかもしれない。まだ誰《だれ》も気付いてないんだから。分るわね?」
「うん……」
と、男が肯《うなず》く。
「いいわ。じゃ、私の言うことに答えて」
女は男の手を引いて、ソファへ座らせた。「これはどこで手に入れたの?」
「買ったんだ。外国人から。どこの国の人間か知らない。弾丸五発しかないがいいか、と言われて、いい、と言った」
「そう。——後くされはないの? 確かなのね」
と、念を押す。「いいわ。ともかく、ここにあなたがいたっていう証拠を一切消さなくちゃ」
女は拳銃を、持って来た大きめのバッグの中へしまった。
「どうするんだ?」
と、男は不思議そうに訊いた。
「持って行くしかないでしょう。ここに置いて行けば、どんなことから足がつくかもしれない。——捨てるにしても、絶対見付からない所でないと」
女はバッグから男ものの布の手袋をとり出した。「これをはめて」
「え?」
「早くして。今でも、いやになるくらい、あなたの指紋がこのマンション中に残ってるはずでしょ。それをはめて、指紋を消して回るのよ」
「ああ。——そうか」
と、男は言われるままに、手袋をはめた。
「これで」
と、女が、バッグから使い古したタオルを取り出す。「触った所、全部、拭《ふ》いて回って。いいわね」
「ああ……」
男はタオルを手に、どうしていいか分らない子供のように、座ったままでいる。
「どうしたの? しっかりして。捕まりたいの?」
「いや……。そうじゃないが……」
「じゃ、何なの? 良心の呵《か》責《しやく》? そんなもの何の足しにもならないわ。私とあの子はどうなるの? あなたが刑務所へ入ってる間、じっと堪えて待つの? そんなのはごめんよ。捕まらないことよ。要は、何の証拠も残さないこと。——この女のことは、やがて忘れて行くわ」
女の言葉は、男を圧倒した。男はゆっくりと肯いて、
「分った」
と、立ち上ると、「君も、指紋を拭くのか?」
「私は、ここにあなたの物とか、あなたのことが分るようなものがないか、徹底的に捜すわ。——いい? よく考えて、自分が触ったと思う所は全部拭くのよ」
「うん」
男は、少し自分を取り戻した様子だった。
「そうのんびりしてはいられないわ。五時過ぎれば、新聞も来るし、朝早く出る人もいるでしょう。明るくなる前に、ここを出るのよ」
「分った」
二人は、それぞれに行動を開始した。
男は、ドアのノブから始めて、戸棚のガラス、テーブル、椅《い》子《す》、食器、と一つ一つ、タオルで拭いて行く。
女の方は、寝室のクロゼットから始めて、あらゆる戸棚、あらゆる引出しを探って行く。
荒らした、という風に見えないように、ていねいに元通りにした。
下着をしまった引出しの、ビニールの敷布の下から、小さなメモ帳を見付け、バッグへ入れる。
何枚あるか分らないほどの服、帽子の箱、バッグ、アクセサリーのケース。一つ一つを開けて行く。
帽子の箱の一つには、金属のケースが入っていた。開けてみると、注射器とガラスの皿が入っている。——何に使っていたかは明らかだ。
女は少し考えてから、その金属ケースを、下着の引出しの奥へ押し込んだ。すぐに見付かるだろう。
寝室を終えると、バスルーム。そしてダイニングキッチン……。
四時半を少し回ったところで、二人の「作業」は、一通りすんでいた。
「もう……大丈夫だと思う」
男は肩で息をして、額には汗が浮いていた。
「こっちも、いくつか収穫はあったわ」
と、女は言った。「——本当に大丈夫?」
「うん」
「じゃ、長居は無用だわ。行きましょう」
女は明りを消した。玄関へ出て、ふと思い付いたように、
「リモコンは? TVの」
「ちゃんと拭いたよ」
と、男が肯く。
「中の電池は?」
「え?」
「中の電池、換えてやったりしなかった?」
男は一瞬ポカンとして、
「——そうだ! リモコンがきかなくなった、とあいつが『何とかしてよ』って……」
「電池を抜いて持って来て」
と、女は言った。
——マンションを出ると、雨は上っていた。
車まで、二人は黙って歩いていた。
「早く乗って」
「ああ」
ドアへ手をかけ、「——すまん」
「今さら謝ってもらっても……。今は帰るのよ、急いで」
「うん……」
男は、助手席に乗った。女はバッグを後ろの席へ置いて、運転席に腰を落ちつかせた。
男が、女の肩へ手をかける。——ふと、女の肩が震えた。
「すまん……」
と、男は言った。「こんなことになるとは——」
女が、激しく男をかき抱く。
「離さない……」
と、女は祈りの言葉でも唱えるように、口走った。「絶対に、誰にも——誰にも渡さない……。私だけのものよ」
その言葉は、祈りのようにも、呪《のろ》いのようにも聞こえたのだった……。