「困ってるの。相談にのっていただけないかしら」
——かつての恋人から、こう頼まれて、断ることのできる男はそういないだろう。
山上忠男にしても、同様である。
電話に出てしまった以上、何とか返事をしなくてはならない。
山上は、ちょっと送話口を手で押えて、
「草間君」
と、秘書の方へ声をかけた。
「はい?」
顧客リストのチェックをしていた秘書の草間頼子は、顔を上げた。
「悪いけどね、下の売店に行って、喉《のど》のアメを買って来てくれないか」
「はい。お風邪ですか」
と、草間頼子はメガネを外した。
「ちょっといがらっぽくてね」
と、山上が咳《せき》払《ばら》いをする。「悪いけど、頼むよ」
「はい」
草間頼子は、もう山上の下で三年以上働いていて、たいていのことはのみ込んでいる。
「下の売店へ」行って来てくれ、というのは、電話の内容を聞かれたくないときに、山上がいつも使う口実なのだ。
それでも、もらっているお給料の中には、「騙《だま》され代」も入っている、というわけで、真面目に財布を手にオフィスを出て行くのだった。
「——ああ、もしもし」
と、山上は、背もたれの高い椅《い》子《す》に、少し体をずらして楽に座り直すと、受話器を持ちかえた。
「どなたか一緒だったの?」
と、電話の向うの声は言った。
「いや、秘書にちょっと買物を頼んだだけさ」
と、山上は言った。「久しぶりだなあ、君の声を聞くのは」
向うは少し黙っていたが、
「——怒ってる、私のこと?」
「怒るって……。もう昔のことじゃないか」
と、山上は言った。「困ってるって……どういうことで?」
「電話じゃ、ちょっと……」
「分った。会うのは構わないけどね。僕も結構動き回ってるんだ」
「知ってるわ。あちこちの雑誌とかで、よく写真を見るもの。偉くなったわね」
「偉くはないさ」
と、山上は苦笑した。「ただ、そういう仕事をしてるってだけだ」
「そっちへうかがうわ。もちろん、こちらがお願いするんだから。ただ——できるだけ、急いで会ってほしいの」
——そう。昔の彼女の面影が、その口調に残っている。
「分った。ただ、毎日、予定が詰ってるんでね。こうしよう。昼飯でも一緒に、どうだい? そのときに話を聞く」
「そうしてくれる? 助かるわ」
と、美沙は言った。
「じゃあ……明日? ——結構」
山上は、明日の昼、この近くの高層ビルに入っているレストランで会う約束をして、メモした。
「それから、連絡先は? 今、何て姓なんだい?」
「私? 倉林よ。昔の通り」
「しかし……結婚したって聞いたよ」
「未亡人なの。この三年ほどね」
「そりゃごめん。無神経な言い方して」
「いいえ。今は、息子と二人暮し。父も去年亡くなったもんだから」
「そうか。知らなかった」
「色々あって……」
と言いかけて、「詳しいことは、また明日ね」
「ああ、それじゃ、お昼に」
「私のこと、分らなかったら、太ったおばさんを捜してよ」
そう言って、倉林美沙はちょっと笑った。
その笑い声の響きは、山上忠男の胸を、束《つか》の間《ま》痛ませた。遠い青春の日のこだまを聞いたようだった……。
——数分して、草間頼子が戻って来ると、
「これでよろしいですか」
と、喉のアメをボスの前に置く。
「え?」
山上は、ちょっとキョトンとしていたが、「ああ。——うん、ありがとう。いくらだい?」
「二〇六円です。消費税こみで」
と言って、「二〇〇円におまけしておきます」
「どうも」
と、山上は百円玉二つを渡して、「明日、午後は何だっけ?」
「K商事の常務さんに呼ばれています」
「ああ、そうか。輸入代理店契約の話だったな。資料、来てる?」
「夕方には届くと連絡がありました」
「そうか。——時間、何時からだった?」
「一時半です」
「一時半ね……」
山上は、肯《うなず》いて、少し考えてから、「少し遅らせてほしいと連絡してくれないか。あの常務はいつもどうせ暇だ」
「何時にします?」
「そうだね……。三時」
「電話入れてみます」
草間頼子には、山上がさっきの電話の女性と会うのだということが分っている。
そして、草間頼子がそれを知っていることを、山上も承知している。ややこしい話だ。
十二時に昼食の約束。——食事そのものはランチで、コースで取っても一時間もあればすむ。三時に先方へ出向くとして、ここを二時半に出れば間に合う。
一時間半の余裕を、山上はみていることになる。
積る話が山ほどある。一時間半あっても、長すぎるってことはないだろう。
そう……。美沙はおしゃべりだった。昔から、しゃべり出すと、止らなかったものだ。
積る話が……。
いや、話だけですまないことも——。未亡人だというし、別に彼女にしてみれば浮気ってわけでもないのだ。
そう。もしその場合でも、一時間半あれば……。
山上はちょっと笑った。——どうせ何も起らないに決っているのだ。俺《おれ》にそんな度胸はない。
今の暮しを——妻と娘との三人の生活を危機にさらしてまで、昔の恋人と浮気してみたいとは思わない。それには失うものが多すぎるのである……。
「所長」
と、草間頼子が言った。「お昼の店、予約しておきますか」
この秘書には何でも分っている。
「頼むよ。——〈S〉にしてくれ。個室がとれたら、頼んどいてくれ」
「はい。十二時でいいですか」
「ああ、十二時でいい」
「その後の予約は?」
「その後?」
「ホテルとか」
「おい……」
「冗談です」
草間頼子は笑いをかみ殺して、言った。
草間頼子は三十歳。秘書としては有能である。
英会話も仕事に必要な程度は充分にこなせた。
山上が、それまで勤めていた大手の経営コンサルタント会社から独立して、一人でこのオフィスを構えたとき、草間頼子はちょうど勤め先が倒産して、この同じビルの中のオフィスから出なくてはいけなくなっていた。
今でも、山上はよく憶《おぼ》えている。
越して来たばかりのオフィスで、ここは段ボールの山だった。——そして、その中に、ここのものでない箱が一つ、紛れ込んでいたのである。
どうしていいか困ったのは、中身が女性の私物で——中にはパンティストッキングまで入っていたからだ。
どうしたものかと迷っていると、
「あの……」
と、おずおずと声をかけて来た女性がいた。「すみません、こちらに私の持物が——」
「え? ああ、パンティストッキングの入った?」
彼女は真赤になった。
「ええ、たぶん……。持って帰るつもりで下に置いておいたら、なくなっちゃって」
「じゃ、うちの荷物を運んで来た運送屋が、間違って持って来ちゃったんだな。これです。——どうしようかと思ってた」
「すみません……」
と、その段ボールを受け取って——。「あの……」
「え?」
「ここ、新しく入られるんですか」
「ええ。まだ一人きりでね。これからコンサルタントの看板を出すんですよ」
と、山上は言った。
「何か——私にできる仕事、ありません?」
「あなたに?」
山上は面食らったが——話してみると、草間頼子は秘書として充分役に立つ技術を身につけているのが分った。
偶然が二人を引き合せた、ということになる。
といっても、もちろん二人は仕事の上以外で関係があるわけではない。草間頼子はなかなかきりっとした美人だが、何となく「女」を感じさせない。
山上の妻や娘とも年中会っていて仲がいいし、その点、山上も気が楽であった。
「所長」
と、草間頼子はレストランに明日のお昼の予約を入れた後、言った。
「うん?」
「来週の土曜日、憶えてらっしゃいます?」
山上は考え込んだ。
「何かあったかな」
「奥様のお誕生日ですよ」
山上はポンと額を叩《たた》いた。
「そうか! 忘れてた。——よく憶えてるね!」
「日付を憶えるの、得意ですの」
と、頼子は言った。「どうなさいますか? お食事だけならいいですけど、温泉にでも行かれるんでしたら、予約を入れておきませんと」
「温泉か……。悪くないね」
と、山上は手帳をめくって、「どこか、適当な所を捜してみてくれる?」
「分りました。JTBに友人がいますから、訊《き》いておきますわ」
頼子は微《ほほ》笑《え》んで言った。
「君に言われなかったら、完全に忘れてるところだよ」
「秘書の役目ですわ」
頼子は、楽しげに言った。
草間頼子は独身の独り暮しである。いや、少なくとも、山上の知っている限りではそうだ。もう三十だし、恋人の一人もいないわけではないと思うのだが、私生活に関しては語りたがらない。
いささか謎《なぞ》めいたところのある女性だった。
「もうお出かけになった方が」
と、頼子は腕時計を見て言った。「N社のパーティです」
「おっと、そうだったな」
と、山上は机の上を片付けた。
「スピーチを頼まれています」
「うん、分ってる。あそこは適当に社長夫人を持ち上げてやりゃいいのさ」
「直接、お宅へお帰りですね」
「たぶんね。君も適当に帰ってくれ」
「適当にさぼらせていただきます」
と、頼子は言って微笑んだ。
「君もパーティへ来て、夕飯をすませるかい?」
「約束がありまして」
「デートかい?」
「そんな意外そうな顔をなさらなくても」
と、頼子が山上を軽くにらむ。
「いや、そうじゃないけどね」
と、山上は笑って、「じゃ、楽しくやりたまえ」
「恐れ入ります」
山上は、草間頼子のデートの相手は、どんな男なんだろう、と考えていた。どんな男でも不思議はないし、また、どんな男でも、どこかしっくり来ないようでもある。
要するに、頼子には「生活の匂《にお》い」というものが、あまりないのだ。
「何を見てらっしゃるんですか」
と訊かれて、
「いや別に」
と、あわてて首を振る。
「私とデートするもの好きはどんな奴《やつ》だろうって考えてらっしゃるんでしょ」
当らずといえども遠からずだ。
山上は、思わず笑って、メガネを外し、布で拭《ふ》き始めた。——気分を変えたくなったときの、山上のくせなのである。
「君に惚《ほ》れられる幸運な男ってのはどんな奴かな、と思ってたのさ」
「『不運な』の間違いじゃないんですか?」
「そういじめるなよ」
「私は——結構年下の趣味なんです」
「ほう。じゃ、弟のような?」
「息子のような、ってとこまでは行きませんけどね」
と、頼子は言った。「タクシーをお呼びします?」
「いや、いい。電車で行くよ。少し歩いた方が体にもいいし」
「少し風はありますけど、気持のいいお天気ですよ」
と、頼子が窓の方へ目をやって、言った。
「ああ……。二日酔にならないようにしないとね」
山上は、立ち上って、「じゃ、行ってくるよ」
と言った。
——もちろん、山上はこの日、自分がいわば「事件」の扉に手をかけたのだと、知る由もなかったのである。