「しかし、本当に良かった」
と、羽佐間が言った。「お前までいなくなって、どうしようかと思ってたんだぞ」
「ごめんなさい」
と、倫子は言った。
羽佐間は苦笑して、
「素直に謝られると、また心配になるよ」
と言った。「小池君、大丈夫かね、傷の方は?」
「ええ、おかげさまで」
朝也も、大分さっぱりした格好で、コーヒーを飲んでいる。「もともと、かすり傷だったんですよ」
——やがて、夜が明けようという時間である。倫子、朝也と羽佐間との会話から、二人が無事、ホテルへ辿《たど》り着いたことはお察しいただけるだろう。
いや、正確に言うと、倫子が人家へ着いて、ホテルに電話をし、それから駆けつけた羽佐間や梅川署長たちと共に、朝也を救出したのである。
こう並《なら》べると、いかにも簡単に聞こえるが、その一つ一つは容易ではなかったので、特に真暗になった山の中で、倫子たちの落ちていた穴を捜し出せたのは、全く幸運と言うしかなかった。
——ともかく、かすり傷だらけの二人、やっとホテルに戻って、一《ひと》風《ふ》呂《ろ》浴び(もちろん別々に)、幻《まぼろし》にまで見たビフテキを食べて、一息ついたところだったのだ。
「中山久仁子さんの容態は?」
と、倫子は訊《き》いた。
「相変らずだ。意識は戻《もど》っていないが、何とか持ちこたえている」
羽佐間は、ゆっくり椅《い》子《す》にかけた。
ここは、あのサロンである。
「——タイム・カプセルは?」
と、倫子が訊いた。
「うん。明日——いや、今日の午後、掘《ほ》り出すよ」
「私もぜひ立ち会わせてね」
「もう東京へ帰ったらどうだ」
と、羽佐間は言った。「充《じゆう》分《ぶん》、スリルは味わったろう」
「失礼ねえ。好きで水に呑《の》まれたり、穴に落ちたりしたんじゃないわ」
と、倫子はふくれっつらをした。「これだけ危い目に遭《あ》ったんだもの、最後まで立ち会う権利、あると思うな」
「それも一理あるな」
羽佐間は、割合にあっさりと、倫子の言い分を認めた。倫子は、ちょっと拍《ひよう》子《し》抜《ぬ》けの感である。
サロンには三人だけだった。——少し、重苦しい沈黙があった。
それを破ったのは、朝也の、いつになく物静かな、それでいて力強い声だった。
「思ってることは、何もかも打ち明けてしまった方がいいよ、お互《たが》いに」
倫子も羽佐間も、同時にギクリとしたように、朝也を見た。
倫子は、あの山の中で、母光江の姿を見たことを、まだ黙っていた。父に話したものか、迷っていたのだ。
「そうじゃない? みんなお互いに隠してることがあるんだ。今は僕ら三人しかいない。ここでなら、たとえ何を話したって、隠した方がいいと思ったことは、隠しておけると思うんだ」
朝也の言葉に、羽佐間が肯《うなず》いた。
「そうかもしれないな」
「お父さん……」
倫子は、ちょっとためらってから言った。
「私も、話さなきゃいけないことがあるの。お父さんを——疑ってたのよ、私」
「私を?」
倫子は、中山久仁子が撃たれたとき、父があまり早く現われたことで、おかしいと思ったことを説明した。
「なるほど」
羽佐間は肯いた。「お前が疑うのは当然だな。しかし、私はやっていないよ」
「じゃ、あのときは、どうして——」
「私は他の人間の後を尾《つ》けていたんだ」
羽佐間の言葉に、倫子と朝也は、ちょっと顔を見合わせた。朝也が、すぐに、
「奥さんのことですね、他の人間って」
と言った。
「そうだ」
羽佐間は、ホッとしたように、「いや、言ってくれて、気が楽になったよ」
「どうしてお母さんを?」
「それは——直感とでもいうのかな」
羽佐間は首を振った。「ここへ来てから、妙だな、と思い始めたんだ。というのも、光江はこの辺りは初めてだと言っていたんだが、気を付けて見ていると、どうもここをよく知っていたらしい。風景を見る目つきや、言葉の端《はし》々《ばし》に、そういう印象を受けたんだよ」
「それで、おかしいと思って?」
「あのとき、私は光江がこっそりと部屋を出て行くのに気が付いて、後を尾けていたんだ。庭へ出て、林の中へ入って行った所で、見失ってしまった」
「で、その後に——」
「そう。銃声がしたんだ」
「で、お母さんは?」
「後では、もちろん部屋に戻《もど》っていたが、私も、問いただす気にはなれなかった」
そのとき、ドアが開いた。
「——訊いて下されば良かったのに」
光江が立っていたのである。
「光江。——聞いていたのか」
と、羽佐間は立ち上って、言った。
「あなた。私を信じて下さらなかったんですか」
と、光江は、夫の方へ歩み寄って、言った。
「いや——そう言われると一言もない」
羽佐間は、ため息をついた。「今は信じているよ。たとえお前が何を話してくれても、私の気持は変らない」
「嬉《うれ》しいですわ」
光江は、羽佐間の傍《そば》に座った。
「私を流れから助けてくれたのは、お母さんでしょ?」
と、倫子は言った。「私、声を聞いちゃったの、林の中で」
「そうだったの。あんな穴の中へ落としたりしてごめんなさい」
「じゃ僕をあそこまで運んだのも?」
と、朝也が言った。
「あなた方が滝田先生の死体を運んでいた、手押車を後で拝借してね。痛い思いをさせてごめんなさい」
「でも、どうして?」
と、倫子は訊《き》いた。
「あなた方を、ここから遠ざけておきたかったの。危険にさらしたくなかった」
と、光江は言った。
「でも、飢《う》え死にする危険はあったわ」
と、倫子が恨《うら》みがましく言う。
「ちゃんと食べる物を運んで行ったのよ。ところが暗くなったら、場所が分らなくなってしまって……」
「あの山の中を一人で歩くなんて、やっぱり、お母さん、この辺に詳しいのね」
倫子の言葉に、光江は、ちょっと目を伏せた。
「そう。——子供のころ、私はここに住んでいたんですもの」
「やはりそうか」
と、羽佐間が肯《うなず》く。
「でも、私は、この町の人たちからは、いつも冷たくされていました。父も母も、いなかったんですから」
「というと?」
「母親が誰《だれ》なのかは、私も知っていました。でも、それは他の誰にも知られてはいけなかったんですわ」
——ふと、倫子は、改めて母の顔を見直した。記憶の中で、何かが重なった。
「分ったわ!」
と、倫子は思わず声を高くして言った。「このサロンにかかっていた、高津智子の肖像画。あれを見たとき、誰かに似てると思ったの。——お母さん! お母さんだったのね! あんまり身近で、気付かなかった!」
羽佐間は愕《がく》然《ぜん》として、
「では、君は……」
「お気付きになりませんでした?」
と、光江が微《ほほ》笑《え》む。「私の母親は、高津智子でした」
しばし、三人とも、驚《おどろ》きからさめなかった。
「——お茶を入れましょうね」
と光江が立ち上ると、やっと羽佐間が口を開いた。
「コーヒーにしてくれ。うんと濃《こ》い奴《やつ》で。今の話を聞いたら、『迎えコーヒー』でもしなきゃならん」
光江がコーヒーを入れて来るころには大分、三人とも落ち着いていた。
「お父さんは、母子二代に恋したわけね」
と、倫子が言った。「お母さんは、そのことを知っててお父さんの秘書になったの?」
「ええ。でも、こんなことになるとは思っていませんでしたよ。ただ、就職するとき、この人のことに興味があったので」
「言われてみれば、確かにそっくりだ」
羽佐間は苦笑した。「この私が気付かなかったとはな……」
「こうなってからは、却《かえ》って言いにくくなってしまったんです。私を母と比《ひ》較《かく》されるのがいやだったんです。あくまで、私は私ですもの」
「当然だな」
と、羽佐間は肯《うなず》いた。「しかし、私は、君を愛しているんだ。母親とは関係なしに」
「そうおっしゃって下されば……」
光江は、夫の手を固く握《にぎ》った。倫子は咳《せき》払いして、
「ラブシーンは、お二人のときに願います」
と言った。「——じゃ、高津智子は今で言う『未婚の母』だったのね」
「そういうことになるわね。でも、それは本人が選んだ道だったようだわ。結婚しようと思えばできたのに。——たぶん、相手の男の家の方で、何か問題があったらしいの」
「なるほど。父親が誰《だれ》なのかは——」
「言わなかったんです。もちろん、私も、まだ小さくて、よく事情が呑《の》み込めていなかったから、会いに来てくれたときにも、訊《き》きもしなかったけれど……」
「あの事件のことは?」
「よく憶《おぼ》えていません。ともかく子供だったんですもの。育ててくれていた親《しん》戚《せき》の人が、私を連れて、この町を出たんです」
羽佐間は、ゆっくりと肯いた。
「そうか。——いや、そう分って嬉《うれ》しいよ」
「今度の一連の事件と、お母さんはどういう関係があるの?」
と、倫子は訊いた。
「誰かが、私のことを知ったのね。たぶん、殺された石山さんという人だと思うわ」
「石山が?」
「あの日、会社へ電話があったんです。『あなたの父親のことでお話がある』と言いました」
倫子は意外そうに、
「父親の? 母親の、じゃなくて?」
「ええ、父親、と言ったわ。そして、自分は羽佐間君の同級生だった、って」
「それで君はどう答えたんだ?」
「お昼休みに会うことにして、約束の場所に行ったんですけど、結局、現われず、午後になって、あの殺人のことを知ったんです」
「すると、なぜ石山は殺されたんだろう?」
羽佐間は首をかしげた。
「それに、どうして、あんな風に貧《びん》乏《ぼう》暮《ぐら》しをしてたのかしら」
と、倫子が言うと、
「そいつは簡単だよ」
と、朝也が即《そく》座《ざ》に言った。「貧乏だったからさ」
「小池君、私は真面目に——」
「真面目だよ、僕だって。人間、誰しもが君のお父さんみたいに金持になれるわけじゃないんだぜ」
羽佐間が、ちょっと笑って、
「こいつは倫子も一本取られたな。石山があんな暮しをしてたのと、この事件が関係あるという証拠はないんだ」
「あ、そうか」
倫子は、肯《うなず》いた。「じゃなぜ殺されたのかしら?」
「そっちは何か関係ありそうだな」
「待ってよ。普通、金持の方が悪い奴《やつ》で、従って殺されることも多い。でも、石山さんの場合は……。どんな理由がある?」
「何かを知ってたからだ」
と、朝也が言った。
「それはつまり——高津智子を殺した犯人を知ってた、ってことね」
「たぶんそうだろう。もしかすると、犯人をゆすっていたのかもしれない」
「可能性あるわね」
と、倫子は、目を輝《かがや》かせた。「石山さんはお父さんに、話そうとして、刺された……」
「犯人は、ずっと石山さんをつけ狙《ねら》っていたんだ」
「でも誰《だれ》が?」
「中山久仁子も怪しい。何しろ拳《けん》銃《じゆう》を持ってたんだから」
と、朝也が言った。
「私は、秀代さんのことも気になるの」
と、倫子は言った。
「父親を殺したというのか?」
と、羽佐間がびっくりして言った。
倫子が、秀代の話を本当だと信じる根《こん》拠《きよ》がない、と説明すると、羽佐間は目を見開いて、
「お前も、ずいぶん回りくどいことを考えるようになったんだな」
「あの人は、ともかく、石山さんが殺されたとき、現場の近くにいたわけだもの」
「そりゃ確かだけど。でも——」
朝也は光江の方を見て、「他《ほか》にも、何かご存知なんじゃないですか?」
と言った。
「どうして?」
「僕らが危いって、どうして考えたんですか?」
光江は、少し考えていた。それから、ゆっくりと首を振って、
「後は、カプセルが掘り出されれば、何もかも分ると思うわ」
と言った。
——しばらく、誰も口をきかなかった。
立ち上ったのは、倫子だった。
「もう朝よ!——さあ、少し眠ろうっと」
と欠伸《あくび》をした。
それで、ホッと緊張がほぐれた。
「それがいい。みんな休もう。——タイム・カプセルを掘り出すときは、ちゃんと起こしてやる」
羽佐間の言葉に、倫子は、ちょっといたずらっぽく笑った。
「約束破ったら、お二人の寝室へ、邪魔しに行くからね!」