やがて黄昏《 た そ が》れて来た。
射《さ》し入る光は、ゆるい角度を、更《さら》にゆるめて、赤い夕焼けの色で染《そま》りつつある。
「お腹空《す》いたなあ」
と、倫子は素直に言った。「小池君、空かない?」
「空いてるよ、もちろん」
と、朝也は言った。「でも、言ってみたって、食べ物が降って来るわけじゃないもんな」
「黙ってたって、お腹の足しにはならないわよ」
と、倫子は言い返した。「——何とかここから出られないかなあ」
「肩車したくらいじゃ、無理だろう」
「やってみなきゃ分らないわ」
「体の方は大丈夫かい?」
「何とかね。痛みも大分おさまったみたい」
「でもなあ……」
「大丈夫よ。落ちたって、私の体じゃないの」
「いや——君をかかえ上げるのが、どれくらい苦しいかと思ってるんだよ」
倫子は、朝也をにらみつけた。
「早くしないと、完全に日が暮《く》れちゃう」
「分ったよ」
倫子の両足の間に、朝也がかがみ込んで、頭を入れ、よいしょ、と持ち上げる。
「——どう?」
重味によろけそうになるのを、必死でこらえながら、朝也がかすれた声を出した。
「うーん……届かないなあ。あと一メートルくらいある」
「飛び上っても無理だよ、それじゃ」
朝也が、ゆっくりしゃがみ込んで、倫子をおろすと、息をついた。
「君、あんまり軽い方じゃないね」
「失礼ねえ。そういうことは、思っても言わないもんよ」
と、倫子は言った。「でも、何とかしないと……。ずっとここにいたら、餓《が》死《し》しちゃうわ」
「だけど、届かないんだから、仕方ないよ」
と、朝也は肩をすくめた。
「他の所は? その道を塞いでる石を取り除けない?」
「少々の量じゃないんだ、まあやってみてもいいけど——」
「そうよ!」
倫子が突然声を上げたので、朝也は仰《ぎよう》天《てん》した。
「何だよ、一体?」
「どうして気が付かなかったんだろ! その積み上げられてる石を、ここへ運ぶのよ!」
「そうか!」
朝也は、パチンと指を鳴らした。「ここへ積んで、その上にのって、上の蓋《ふた》へ——」
「石を運びましょ! 明るいうちに早く!」
——すでに、光は弱まりつつある。
二人は、必死で石を運びつづけた。
「早く早く!」
光の洩《も》れるその真下に、石が積まれて行く。
かなりの重労働だが、朝也も倫子も、流れる汗《あせ》を拭《ぬぐ》う間もなく働いた。
ともかく、時間との競走である。二人とも、生れてこの方、こんなに働いたことはなかったかもしれない。
「もう陽《ひ》が落ちるわ」
と、倫子が、喘《あえ》ぎながら言った。
急速に、この洞窟の中が暗くなって来る。
「よし、この上で、さっきみたいに肩車してみよう。今度はきっと届く」
「そうね!」
二人は、石の山の上に上った。
「足下がおっかないな……。よし、これで踏《ふ》んばれるだろう」
「——じゃ、いい?」
「OK」
さっきのように、朝也が、倫子を両肩に、エイッと体を起こした。とたんに、朝也の足下の石が崩《くず》れて、二人はもののみごとに転がり落ちた。
「——ああ! 畜《ちく》生《しよう》!」
朝也が、やっと起き上って、「おい、大丈夫かい?」
「何とかね」
倫子も息を弾《はず》ませて、「もう一度やりましょ」
「大丈夫かね」
「やってみなきゃ……。ホテルへ戻《もど》ったら、ビフテキが食べられるわ!」
「よし、それを信じて——」
空腹感に脅《きよう》迫《はく》されて(?)、二人は、再度石の山の上に上った。
「行くぞ。——それ!」
今度はうまく行った。倫子は、朝也の肩の上にのって、両手を上に伸ばした。
「届いたわ!」
蓋《ふた》を両手でつかんで、力を入れると、ズズッと音がして、大きく開いた。
「よじのぼれ!」
と、朝也が下で言った。「ともかく上るんだ」
「分ってるわよ!」
倫子は穴のへりに両手をかけて、体をぐっと引き上げた。
地上へ這《は》い上るのは、容易ではなかったけれど、ビフテキの幻影の導きのおかげか、何とかやりとげることができた。
しばらくは、その場にひっくり返って動けない。胸が、激《はげ》しい呼吸で、ピストンのように上下している。
でも、外は、まだ意外に明るかった。山の中らしく、周囲は林だ。
どの辺なのか、見当がつかなかった。
しかし、ともかく、穴からは脱《ぬ》け出したのだ。
「おい! どうした?」
と、穴の下から声がした。
「あ、そうか。小池君もいたんだっけ」
ついさっきキスした相手も、ビフテキの幻影に比べると存在感は薄いようだった。
「待って! 何かロープみたいなものを捜して来るわ」
「早くしてくれよ。ミイラになっちまう」
と、朝也の声がした。
「できるだけ急いで戻《もど》るわ!」
「そう頼むよ」
倫子は、周囲を見回した。まだ明るいうちに、場所を頭に入れておかなくてはならない。
目印に、と、その穴の周囲の木の枝を、方々折っておく。
さて、どこへ出ればいいだろう?
倫子は、急に、暗がりに包まれて、びっくりした。
陽《ひ》が沈んだのだ。たちまち周囲は闇になる。
こうなると、まるで方向も分らないのだ。穴の中にいるのと大差なくなる。
「どうしよう……」
——ふと、光が見えたような気がした。
一つ、二つ。——光だ!
人家の明りらしい。夜になって、灯《ひ》がともったのだ。
ともかく、あれを目指して行こう。
倫子は、木の根につまずかないように、用心しながら歩いて行った。
——十分くらい歩いてからだろうか。ふと、動いてくる灯に気付いたのは。
誰《だれ》か来る。——一瞬、倫子は胸をときめかせた。
声をかけ、案内を頼めばいいのだ。
しかし、なぜか倫子はためらった。第六感とでもいうのか——いや、万一、自分や朝也を、あの穴へ落とした人間だったら、と直感的に考えていたのだ。
その灯は、倫子のいる方へと近づいて来るようだった。倫子は、足を止め、手近な木の幹に寄り添《そ》うようにして、身を隠した。
明りは、懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》のようだ。そして——その誰かは、倫子から少し離れた所で、立ち止っていた。
光が、ゆっくりと周囲を巡《めぐ》る。
倫子は、ピッタリと木の幹に体を押しつけた。
息を殺していると、やがて、また足音がした。
「どこだったかしら……」
ためらいがちな呟《つぶや》きが、倫子の耳に入って来た。
倫子は、その声に聞き憶《おぼ》えがあった。——でも、まさか!
そんなことが……。信じられない!
「——分らなくなっちゃったわ」
と、その声が、ため息とともに言った。
間違いない。信じたくはなかったけれど、倫子にも疑いようがなかった。
その声は——倫子の母親、光江のものだったのである。