亜由美は家へ帰って、
「ただいま」
と、声をかけたが……。「お母さん?」
居間のほうから、TVの音が聞こえてくる。——またか。
お父さん、今日休みだったのかね。
亜由美の父、塚川貞夫はある企業のエンジニア。エリートと呼んでもいい、優秀な技術者である。
ただし、少々変った趣味がある。今、亜由美の耳に入っている、センチメンタルなメロディ。そして「アーン、エーン」という泣き声。
聞き慣れたTVのアニメ番組なのである。塚川貞夫の趣味は、TVの「少女アニメ」を見ること。それも、「たっぷり泣かせてくれる」超センチメンタル路線のものに限るのである。
「物好きなんだから」
と、父の邪魔をしないように、廊下を回って、台所へ入る。
父がグズグズ泣いているのが、台所まで聞こえてくる。——あれでストレスの解消ができるというのだから、安上りと言えば安上り。しかし、あんまり他人には知られたくない趣味には違いない。
一人でウーロン茶など飲んでいると、
「あの……」
と、突然、女の声がして、亜由美は仰天した。
「あ……。あなた——」
「どうも、その節は」
と、頭を下げたのは、片瀬幸子。
「どうも。——あの、いつ、いらしたんですか?」
「さっきです。お父様がTVを見ていらしたので、ついご一緒してしまいました」
と、幸子は言った。
「はあ。あの——」
亜由美は焦った。「父はその——少し変ってますけど、おかしいわけじゃないんですよ。ええ、確かに」
「おかしい、だなんて」
と、幸子は真顔で、「本当に純情な心をお持ちの方なんですわ。私、感動してしまいました」
「はあ……」
ホッとするやら、情ないやら。「じゃ、お茶もさし上げていないんですね。失礼しました!」
と、あわてて用意をする。
居間へお茶を持って行くと、
「そうなんです! 少女アニメの中には、現代人の忘れた心の潤いが残っている!」
と、父が力説している。「センチだ、『お涙ちょうだい』だと馬鹿にするのは間違っている。涙こそ人間の真実なのです」
「おっしゃる通りだと思いますわ」
と、片瀬幸子は、真剣に肯《うなず》いている。
「いや、あなたはすばらしい! うちの妻や娘には、こんなすばらしいものが理解できんのです。全くぼんくらというか何というか」
「お父さん」
「おお、亜由美か。お前も、こういうすばらしい人と結婚しなさい」
どうも混乱しているらしい。
「いや、全くすばらしい……。あのセリーヌのやさしい心が、どうして人には分ってもらえんのだろう……」
ブツブツ呟《つぶや》きつつ、父は居間を出て行った。
亜由美はやれやれとため息をついて、
「お茶どうぞ。——父はとても喜んでたみたいです」
「でも、すばらしいわ。あんなお年齢《とし》になられても、人間らしい心をお持ちで」
「そうですか」
いささかむずがゆい。「あ、ドン・ファン。ご挨拶《あいさつ》しな」
「クーン」
と、茶色いダンディは、いつになく気どって入って来る。
「まあ、きれいな犬」
ドン・ファンは幸子にやさしく撫《な》でられてウットリしている。——ドン・ファンの好みのタイプなのである。
「——塚川さん」
と、幸子は座り直すと、「本当にあなたにはすっかりご迷惑をおかけして」
「いいえ。で、あの後、お化けからの呼出しはありまして?」
相手が気を悪くするかもしれないと思ったが、わざとふざけた口調で言ってみる。
「いいえ」
幸子は真面目に首を振って、「でも、感じるんです。あの人[#「あの人」に傍点]が近くにいることを」
「あの人って……」
「丸山徹男です。あの人は死んでも、きっと魂が地上にとどまって、私の心変りを怒っているんですわ」
「でも、幸子さん——」
「今日は、お願いがあって、伺いましたの」
と、幸子は言った。
「何ですか」
「実は——これは、公平さんにも内緒なんですけど。聞けばきっと怒りますから」
と、幸子は少しためらって、「私、徹男さんと会うつもりなんです。で、塚川さんに同席していただけないかと思って」
「は?」
と、思わず亜由美は言っていた。「今、誰に[#「誰に」に傍点]会うって——」
「徹男さんです」
「はあ」
亜由美も好奇心は人一倍|旺盛《おうせい》だが、どうも「お化け」に会いに行くというのは気が進まない。
「あ、ご心配なく」
と、幸子が言った。「ちゃんと戻って来られますから」
戻れなかったら大変だろう。
「どうやって会うんですか?」
「あの——ある人の紹介で、霊媒っていうんですか、死んだ人の代りになってしゃべってくれる……」
亜由美も、ここに至ってホッとした。そういうことね。びっくりさせないでよね、全く!
「じゃ、いわゆる降霊術みたいなものをやるわけですね」
「そうなんです。でも、きっと公平さんが聞いたら怒ると思うんで。——こっそり訪ねて行きたいんです」
「分りました」
そんなことならお安いご用、と引き受けた亜由美だったが……。
「——座って」
薄暗い部屋の中は、よくTVなんかで見るのと同様に、色々な星の形の絵とか、鳥の剥製《はくせい》、ゆっくりと振れる振り子、そして——そう、これがなくちゃね! 水晶球が、テーブルの真中にのせられていた。
「——占いをしに来たわけじゃないのね」
と、その太った女は、長い裾《すそ》を引きずるようなガウンをはおって、言った。
「死んだ人と、話をしたいんです」
と、幸子が言った。
「そうそう。聞いてるわ。心中した相手ですって? 若かったのね。今の私くらいの年齢になりゃ、男なんて、命を賭《か》けるほどのもんでもないってことが分るわよ」
と、女はえらく現実的なことを言った。「でも、あんたには霊を呼ぶ力がありそうね」
「私にですか?」
「そう。間違えないで。私はあくまで仲介役なの。あんたが霊を呼びたいと真剣に祈ってなくちゃ、霊は私の心にやって来ないのよ」
「はい」
「こっちの人は——」
と、亜由美のほうを、少々うさんくさそうに見る。
「あ。私の知人です。一緒に来てもらったんです。いけなかったでしょうか」
「構わないけど、この人は霊感がゼロね」
大きなお世話だ、と亜由美は思った。
「じゃ、ここへ座って」
と、女は幸子を椅子《いす》にかけさせて、自分も膝《ひざ》がくっつくほど間近に、向い合った椅子に腰をおろした。
「——さあ、その人のことを、じっと考えて。少しでも他のことを考えちゃだめよ」
「はい」
「目を閉じて。——自分が七年前に戻ったように……。その人と一緒にいるんだと思いなさい……」
ずいぶん、やり方が違うのね。——亜由美は、分厚いカーテンに囲まれた、その狭い部屋の中で、隅の方の椅子にかけて、じっと、様子を見守っていた。
降霊会とか、よく映画やTVでも見るけれども、もう少し霊媒の方が催眠状態に入ったりして、ドラマチックになるもんだ。
しかしこの雰囲気は……。
今夜のおかずでも当ててくれそうな、そんな感じなのである。
しかし——霊媒の女が、ゆっくりと体を揺らし始めて、少しそれ[#「それ」に傍点]らしいムードになって来た。
太った女の口から、呻《うめ》き声ともハミングともつかないものが洩《も》れてくる。——幸子はじっと目を閉じて、それこそ心底、女を信じているようだ。
女が突然、体を震わせた。そして——急に若々しい男の声が、その口から飛び出した。
「君……。君か。幸子か!」
「——あなた? 徹男さん?」
と、幸子が目を見開く。「あなたなのね?」
「ああ……。会いたかった」
と、男の声。
「徹男さん……」
「よく呼び出してくれたね」
「どうしても——話したかったの」
「幸子……。僕のことを、もう忘れちまったのかい」
「徹男さん! 忘れるわけがないでしょう」
「でも、他の男と結婚しようとしている。そうだろう?」
幸子は、辛そうに目を伏せた。
「それは……。でも、徹男さん。その人は私のことを、愛してくれてるのよ」
「悲しいね。人の心なんて、そんなものか」
と、男の声は自嘲《じちよう》的に言った。「七年……たった七年。ねえ、僕は、この辛い世界で、ずっと君が来るのを待ってるんだ。でも、君はもう、僕を捨てようとしてる」
「違うわ。そうじゃない」
「どうして違うんだ? 僕のことを忘れていないのなら、他の男に心を許すなんてこと、できっこないだろう。もし、君の気持が変ってないのなら、生涯別の男を愛したりできないはずだ。それとも、君は愛してもいない男と結婚するつもりなのかい」
「徹男さん……」
幸子は苦しげに息を吐いた。
「いいさ。君は一人で幸せになるといい」
と、その声は言った。「僕は忘れない。君が裏切れば、僕は永久に死に切れないままで、さまようんだ。それがどんなに辛いことか、分るかい?」
幸子がすすり泣く。
「——僕はね、君が一緒に死んでくれると思ってた。あのとき、君が助かったことは、偶然で、仕方のないことだった。でも、君はもう自由[#「自由」に傍点]だ。そうだろう? 今からでも遅くない。僕の所へ来ておくれ」
「徹男さん——」
亜由美は、パッと立ち上ると、
「やかましい!」
と、怒鳴っていた。「あんたなんか死んで良かったのよ! 甘ったれんじゃないわよ。本当に幸子さんを愛してたら、そんなわがまま言えるわけないでしょ! 引っ込んでろ!」
霊媒の女がポカンとして、亜由美を眺めている。
「さ、帰ろ」
と、亜由美は幸子の手を引っ張って、その部屋から飛び出したのだった。
「ごめんなさい」
と、夜の道を歩きながら、亜由美は言った。「——でも、あんまり勝手ばっかり言うんで頭に来て」
「いいんです」
と、幸子は首を振って、「私も頭に来てた[#「頭に来てた」に傍点]から」
亜由美がびっくりして見ると、幸子はちょっと笑った。亜由美はホッとした。
その笑いは、至って健全な、当り前の笑いだったからである。
「——ご心配かけてすみません」
と、幸子は言った。「もちろん、私はあの人のことを忘れてはいません。でも、七年前……、私も、あの人も子供だったんです」
夜風がスッと快く吹き抜けて行く。
「今思うと……。あの人も私も、大人になり切れていなかった。だからこそ、あんなことになったんでしょう」
と、幸子はつづけた。「でも、今の徹男さんの言葉……。もし、あれが本当にあの人だったとしても、私、分るんです。あの年齢のままだったら、ああ言うのも当然です」
「わがままな子供……。そうね。そうかもしれない」
と、亜由美は肯いた。「これから、どうするんですか」
「私、やっぱり公平さんと結婚します」
と、幸子はきっぱりと言った。「もし、徹男さんが恨んで出て来たら、肘鉄《ひじてつ》を食わせてやります」
亜由美は笑った。——この幸子のことが、すっかり気に入って来ていた。