「どこへ行ってたんだ。こっちは心配してたんだぞ」
と、沼田は言った。
「もう大人だぜ」
と、三上は言った。「俺は正常さ。どこも悪くなんかない」
三上が楽しげに笑う。
「あいつ……」
と、尾崎が呟《つぶや》く。「いつもと別人みたいだぞ」
「お前が自分をごまかしても、私には分ってる」
と、沼田はソファにかけて、「何かやって来たな。隠すな」
「どうかね。明日の新聞辺りに出るだろうさ!」
三上は、ソファに寝そべった。
「何をやったんだ? 言ってみろ」
と、沼田が厳しい口調で言った。
「知らない方がいいさ」
と、三上は小馬鹿にしたように、「お互い、何も知らない。その約束だろ?」
「それは、何でもうまく行ってるときのことだ。今となっちゃ事情が違う」
と、沼田は苛立《いらだ》った口調で言った。
「落ちつけよ。何があったっていうんだい?」
と、三上は言った。
沼田が、ため息をつくと、言った。
「彼は死んだ」
——しばらく沈黙があった。
「何だって?」
と、三上が言った。「今、何て言った?」
「死んだのさ。もうおしまいだ」
沼田は首を振って、「お前の話なんかについのせられたのが間違いだ」
「おい、待てよ」
と、三上は言いかけて、パッと窓のほうを向き、「誰だ!」
と怒鳴った。
「まずい!」
と、尾崎が言った。
「逃げる?」
「こっちだ!」
二人は駆け出したが——。聡子がつまずいて転んでしまった。
「待って!」
「早く!」
尾崎が聡子を助け起こすと——。
ズドン、と腹に響くような太い銃声がして、目の前の地面が大きくえぐれた。
「この次は、そっちの腹がえぐれるぞ」
三上が、散弾銃を構えて、窓から狙《ねら》っている。
「こっちへ来い」
銃の前では仕方ない。——二人は、居間の窓の方へと戻って行った。
「——うまくないな」
と、三上は言った。「全くうまくない」
「お前の言う通りにしたんだ」
と、沼田が言った。
「分ってる。しかし、こんな連中がここへやって来るとは思わなかったろ」
三上は、居間の床に縛られて転がされている尾崎と聡子を見下ろし、靴の先で、ちょいとつついた。
「何すんのよ!」
聡子が怒鳴ると、
「気の強い女だな」
と、三上は笑った。
「何て奴だ!」
尾崎が三上をにらみつける。
「世の中は金さ。幸子はどうでもいいんだ。問題はあの親父《おやじ》さん。——分るだろ? あの親父さんが死ねば、後は幸子の夫が継ぐ。何もかもね」
「じゃ、丸山徹男の名前を使ってたのは、あんたなのね」
と、聡子は言った。
「いいや。丸山徹男は本当に[#「本当に」に傍点]生きてたのさ」
と、三上は言った。「この沼田から、それを聞いて、この計画を思い付いた。丸山は、昔のことを憶えてるが、今は薬づけで、何とか生きのびてる。薬をエサにすりゃ、何でも言われた通りのことをやる」
「——もうおしまいだ、それも」
と、沼田は言った。「薬のやり過ぎで、ショック死してしまった」
「何てひどいこと……」
と、聡子は言った。
「それが、今分っちゃ困る」
と、三上は考え込んで、「片瀬隆治は、丸山の手で殺されたことにするんだからね。結婚式当日に」
「それは無理だ」
「できるさ」
三上は、山荘の天井を見上げて、「二人が灰になっちまえばいい。——死体の身許なんか分らないさ」
「何だと?」
沼田は目をみはった。「そんなことまで——」
三上は嘲笑《あざわら》うように、
「もう遅いぜ。とことん、やったんだ。人殺しまでな」
「あれは……薬のせいだ」
「丸山のことじゃない」
三上の言葉に、沼田は一瞬絶句した。
「誰のことを言ってるんだ?」
声はかすれていた。
「女。——片瀬の愛人だった、寺田祐子って女さ」
三上はニヤリと笑って、「俺の女でもあった。ところが、女がこっちにご執心《しゆうしん》でさ、片瀬に何もかもしゃべる、と言い出した。ホテルヘ呼び出し、化粧室へ入ったところを、しゃべれなくしてやった」
沼田が青ざめ、よろけた。
「自分の手にかけたのか!」
「当り前さ。幸子との結婚まで立ち消えになるからね」
と、三上は平然としている。「分っただろ? ここを焼いて、灰にするしかないよ」
「お前は……」
「心配するな。俺がやる」
三上は、ライターを取り出し、カチッと炎を出すと、窓のカーテンの房に火をつけた。
たちまちカーテンが白い煙を上げて燃え出す。聡子は、煙でむせ返った。
「苦しかないさ。焼け死ぬ前に、繊維の出すガスで死ぬ。——ま、俺も死んだことはないけどな」
と、三上は笑って、「さ、行くぜ」
沼田がハンカチで口を押えつつ、三上の後から飛び出して行く。
「畜生!」
尾崎は、必死で、縛られた手足を動かし、聡子の手首の結び目を口でとこうとした。
「無理よ! とても——。苦しい」
涙が出て来る。火は天井へと広がって、木造の家は、たちまち炎に包まれていく。
ここで死ぬのか。——聡子は、もっとおいしいものを食べとくんだった、と悔んだ。
「ワン」
そのとき、居間の中へ、茶色い英雄[#「英雄」に傍点]が飛び込んで来た。
「ドン・ファン!」
ドン・ファンが聡子の手首の縄をギュウギュウかんで、緩める。
「——とけた!」
聡子は、急いで足首の結び目をとくと、尾崎の縄をといた。
しかし、もう火は居間の中を回ってしまっていた。出口も、窓の方も火が包んでいる。
「出なきゃ!」
「しかし——どこから?」
そのとき、窓のほうで、ドカン、と凄《すご》い音がして、車の鼻先が窓を突き破って、中へ乗り上げて来た。
「ここから出て!」
と、亜由美の声。
「亜由美!」
「急げ!」
尾崎たちは、車が突っ込んで、一旦火が途切れた場所から、車の上をのり越えて、表へ転がり出た。
「早く離れて! 車が燃える!」
亜由美が聡子を抱きかかえるようにして、駆け出す。
車が炎に包まれ、たちまち激しく火を吹き上げた。
「——助かった!」
と、地面にへたり込んで、聡子は息を吐いた。
「ごめんね。三上が行っちゃわないと、助けにも行けなかった」
亜由美は、「こちら吉沢先生。私を助けてくれたのよ」
「いや、しかし驚いた」
と、吉沢医師も唖然としている。「こんなことが……」
「丸山って人は死んだそうだ」
と、尾崎が言った。「きっと、あの中に……」
もう山荘は、ほとんど完全に火に包まれていた。
夜を裂かんばかりの火の柱が、窓へ向って伸びて行く。
亜由美たちの見ている前で、山荘は次々に柱だけの姿と化し、それもやがて輝く炎の中へ崩れ落ちて行った……。
「——三上さん。どうしたの?」
幸子は、玄関へ出て来て、当惑した。
「夜遅く、悪いね」
「そんなこともないけど……」
「今、出られるかい?」
「これから?」
もう十二時近い。しかし、父も母も、もうやすんでいた。
「少しなら」
「じゃ、ちょっとだけ」
「ええ……」
幸子は、表に出た。
三上は車の助手席に幸子を乗せると、五分ほどの公園のわきまで走らせて、停めた。
「何なの?」
と、幸子は訊《き》いた。
「うん……。あのホテルで殺された女のことだ」
幸子は、少し青ざめて、
「寺田さん?」
「うん。あの人が、お父さんの恋人だったことは——」
「知ってるわ」
「そうか。じゃあ……」
三上は、ためらった。
「何なの?」
「いや……。言おうかどうしようか、迷ったんだけどね」
と、息をついて、「あのとき、僕は電話しに行ったろ?」
「ええ」
「見たんだ、そのときに。——君のお父さんが、女子化粧室から急いで出て来るのを」
幸子は息をのんだ。
「——どうしたらいいか、迷った。本当なら、警察に話すべきだ。しかし、君のことを考えると……」
「三上さん。お願い。黙ってて」
と、幸子は、三上の手を両手で包み込むように握った。「父のことは——よく知ってるわ。きっと、刑務所へ入るより苦しむはずよ」
「幸子さん……」
「無理なお願いだってことは分ってる。でも、どうか、お願い」
幸子の眼は涙で光っていた。
「分った」
と、三上は肯《うなず》く。「——僕にとっては君が大事だ」
「ありがとう!」
幸子の声が震えた。
三上が……幸子を抱き寄せ唇を重ねる。幸子もされるままに、逆らわなかった。
「——幸子さん。これから……ホテルヘ行かないか」
「え?」
「いいだろう? もう結婚間近だ。不自然なことではないよ」
「でも……」
と、幸子はためらっていたが、やがて、頬《ほお》を染めつつ、「——いいわ」
「いいんだね? 嬉《うれ》しいよ」
三上が声を弾ませる。「君を幸福にしてみせるからね」
「え、え」
と、幸子が肯く。
三上がエンジンをかけ、車を出すと——突然、車の前を何かが横切った。
「ワッ!」
急ブレーキをかける。
「どうしたの?」
「何だか……犬かな? 車の前を。びっくりした。はねちまうところだ」
と、息を吐いて、「さ、行こうか」
トントン、と窓を叩《たた》く音がして、三上はギョッとした。
「——何です?」
と、窓を下ろすと、
「警察の者ですがね」
と、その太った男は言った。「三上さん。あんたに逮捕状が出ています」
「何だって?」
「寺田祐子を殺害した容疑、放火。殺人未遂……。相当の年数になるね、合計すると」
「何を馬鹿な——」
と言いかけて、三上は、刑事の後ろから現われた、聡子、尾崎の顔を見て、青ざめた。
「三上さん! どういうこと?」
幸子は、体を震わせた。「あなたが寺田さんを?」
「降りてくれ」
と、三上は言った。「全く——うまくいかないもんだね、世の中は」
三上は声を上げて笑った。
「さ、外へ出て」
と、殿永が促す。
「ああ。——じたばたしてもむだか」
と、三上は、幸子が車を出たのを見ると、いきなり、アクセルを踏んだ。
三上の車は、真直ぐに突っ走って——車止めの柵《さく》へと激突した。車が宙へ逆立ちするようにして、ガラスの粉が飛び散った。
「やれやれ」
殿永は首を振って、「あんな死に方が、かっこいいとでも思ってるんですかな」
三上の車が火に包まれた。
「哀れな人……」
と、幸子が呟いたのだった。
「——じゃ、三上は沼田院長の息子?」
と、亜由美がびっくりして言った。
「そうなのです」
殿永は肯いて、「や、どうも」
と、片瀬知子の出してくれたお茶をすすった。
「姓が違うのは……」
「沼田が愛人に産ませたのが三上で、ずっと面倒はみていたのです。しかし、三上は一時、沼田の病院で治療を受けていたこともあるんです」
「それで、沼田は三上の言うなりになっていたのね」
と、聡子が言った。
——片瀬家の居間に、片瀬親子と亜由美たち(もちろんドン・ファンもこみ[#「こみ」に傍点]で)、そして尾崎も来ていた。
「丸山徹男さんとの関係は?」
と、亜由美が言った。
「幸子。お前に詫《わ》びねばならん」
と、片瀬隆治が言った。「丸山は生きていたのだ」
「そうだろうと思ったわ」
「丸山はな、助け上げられて、意識不明だった。私は、お前に知られないよう、前から知っていた沼田に頼んで、入院させてもらった。しかし、病院では何かと不便ということで、沼田の山荘に移したのだ。もちろん、沼田には充分な金をやってな」
「丸山さんは——」
「長いこと、何も分らなかった。この二、三年、徐々に過去を思い出し始めていたんだ。それに三上が目をつけ、利用してやろうと考えた」
「丸山さんのせいにするつもりだったんですね、何もかも」
と、幸子は言った。
「そうなんです。三上はあなたと一緒になってから、父親を殺し、丸山に罪をなすりつける、という計画を持っていた」
「そのために、丸山の存在を印象づける細工をあわててやってたんですね」
と、亜由美は言って、「でも、わざわざ丸山が失踪《しつそう》したという届をなぜ出したんですか?」
「丸山はあの病院にもいないことになっていましたからね。届を出しておかないと、もともと存在しない人間ということになる。まさか、それをわざわざ探りに来る人間がいるとは思わなかったんでしょう」
「沼田が、三上に力を貸したのは——」
「もちろん、息子ということもありますが、病院そのものが経営難で、金の魅力にひかれて、ということですね」
と、殿永は言った。
「でも、ひどい目にあったわ」
と、亜由美は言った。「どうして私のことを、あんな風に——」
「沼田です」
「沼田の指図?」
「あなたのことが気に入っていたようです。ああして、薬で言うことを聞かせようというつもりだったんですよ」
「——何て奴!」
と、亜由美は改めて怒っている。
「物好きもいるんだ」
と、聡子が言った。
「何よ!」
「まあ、落ちついて」
と殿永が笑って、「ともかく、お二人が無事で何よりでした」
「それにしても、私のこと、放っといて! ひどいじゃありませんか」
と、亜由美が苦情を述べる。
「その点はお詫びします」
と、殿永が頭をかいて、「いや、姿が見えないというので、まさか誘拐されたとは思わず、てっきり潜入したんだと思ったんですよ」
「日ごろの行動のせいね」
と、聡子がからかい、亜由美も何とも言えなかったのである……。