激しい雨を突き破るような勢いで、少女は走っていた。
靴は路面を蹴《け》って、その度に水しぶきが飛ぶ。濡れていることなど、何でもなかった。冷たさも、気持悪さも感じない。ただ、自分の心臓が鋭い音をたてて、自分をせき立てるように聞こえているだけだった。
夜。——まだそれほど遅い時間でもないが、やはりこのひどい雨の中、この辺りが高級住宅地で、もともと人通りが少ないせいもあってか、少女は数百メートルも走って、その間、誰とも出会わなかった。
足を止めたのは、疲れて走れなくなったからではなく、自分がどこにいるのか、考える余裕ができたからだった。
足を止め、左右を見回して、初めて少女は見たこともない場所にいる自分に気が付いた。
窓に明りの点いた家が並ぶ。通りは決して狭くないが、今は誰も通っていない。
少女は後ろを——自分が駆《か》けて来た道を、振り返ってみた。
大丈夫。誰も追いかけてなんか来ないわ。
大丈夫。——もう大丈夫。
雨が全身を濡らしている。初めて、身《み》震《ぶる》いした。吐《は》く息が白くなっている。
三月に入ったが、まだ寒い。風邪を引くかもしれない、と思って、それから少女は天を仰いで軽く笑った。間違いなく、笑ったのである。
車のライトが目に入った。近付いて来る。
——何の車?
屋根にタクシー会社のマークが黄色く光っている。タクシー? でも、もちろん誰か乗っている。この雨だもの……。
近付いて来ると、赤く〈空車〉の文字が、雨を通しても読みとれた。——まさか! そんなことが……。
少女は、手を上げた。——そう、きっと素通りして行ってしまうんだわ。こんな所で、女の子一人なんて乗っけちゃくれない。
でも、タクシーはブレーキをかけ、少女の方へ寄って停った。後ろのドアがスッと開いて、明るい、雨の降っていない空間が——快適そうな空間が、少女を誘惑した。
「あの……」
と、頭だけ入れて、「雨で濡れてますけど……いいですか?」
運転手は、中学校のときの体育の先生によく似ていて、ドキッとした。もちろん、別の人なのだけど。
「早く乗りなさい」
と、大分髪の白くなった、色の浅黒い運転手は言った。「風邪引くよ。座席はビニールシートだから拭《ふ》けばいい。心配しなくていいから」
「すみません」
座席に体を落ちつけると、初めて自分がどんなにひどく濡れているか、いや、むしろ水を着ているようなものだということに、気が付く。
ドアがバタンと音をたてて閉じる。——もう、ここには雨も降っていない。不思議な気がした。
「どこまで?」
と、運転手に訊《き》かれて、少女は、
「あ、ごめんなさい」
と言った。「あの——世田谷の方へ。遠くてすみません」
「構わないけど……大体どの辺り?」
ゆっくり車を走らせながら、運転手が訊く。
家の場所を説明しながら、少女は徐々に落ちついて来た。自分が確かな大地に足を着けている(今は車を介して、だが)と感じられた……。
「大分あるね」
運転手の言葉に、少女は、ブレザーのポケットを探った。——お財布。落としてないかしら? あった!
「ちゃんと、お金、持ってます。先にお払いしても——」
運転手は笑って、
「いや、そんなことは心配してないよ」
と、言った。「ただ、ひどく濡れてるだろ。風邪引くと可哀そうだと思ってね」
「あ——いえ、大丈夫です」
大丈夫。——大丈夫だ。大丈夫だった。
何もなかったのだ。私には。
もっとも、あれを「何もなかった」と言えればのことだけど。
ただ、人を殺しただけだ、とでも言えればのことだ……。
目が覚めて、初めて小西智子は自分がいつの間にか眠ってしまっていたことに気が付いた。
雨は、大分小降りになっていた。タクシーは快適なスピードで走り続けている。
「——目が覚めた?」
運転手が訊く。
「はい。——眠る気じゃなかったのに」
「こっちでいいね、道は」
窓の外のネオンサインには見憶えがあった。レンタカーのオフィス。小さな営業所の割には、大げさなネオンを出している。
「ええ、この先の信号で左折です」
——人間って不思議なものだ。
智子は思った。眠っていても、意識の内の百分の一くらいは、ちゃんと時間を計ってでもいるのだろうか。家が近付くと、ちゃんと目を覚ます。
あれは、何もかも夢だったのかしら?
このタクシーに乗っている間に見た夢……。
しかし、そうではないことを、智子はよく知っている。もし夢だったら、こんなに雨に濡れた姿でいることはない。
そう。何よりも……膝や肩に残る痛みが、智子にあの出来事を思い出させてしまうのである。
もし——本当に夢であってくれたら!
智子は、深々と息をついて、座席にもたれた。
事実は、十八歳の高校三年生が受け止めるには、あまりにも重いものだったのである……。
「——そこでいいです」
と、角を曲って、すぐに智子は言った。
「どうもすみません」
料金を払って、いくらかおつりがある。「おつり、いいです」
と、降りかけると、
「いやいや」
運転手は、細かい硬貨を数えて、「チップは大人からもらうことにしてる。ちゃんとおつりも受け取ってくれ」
何となく、智子はホッとして笑った。——もう二度と笑うことなんかないんじゃないかと思っていたのに。
「はい」
と素直にもらって、「どうもありがとう」
「ありがとう、はこっちのセリフだよ」
と、運転手が言って笑った。「早く家に入って。風邪引かないようにね」
「はい」
智子は、目の前の家の玄関へと、トントンと石段を上って振り向いた。
タクシーは、エンジンをふかして走って行く。
少し待って、道へ戻った。
何のためにこんなことをしているのか、自分でもよく分らなかったが、ともかく自分の家を知られたくなかったのだ。
もちろん、小西家はそう遠いわけではない。ただ、一本違う道を入るのである。
雨はやみかけていて、智子は普通に歩いて行った。
大きな門構え。——この辺りでも、一番大きな「屋敷」である。もっとも、「お化け」がその前につきそうな古さではあった。
門の前で、インタホンを押そうとすると、後からパパッとクラクションの音がして、飛び上りそうになった。
姉の、赤いポルシェが静かに停るところだった。
「お帰り」
と、窓から顔を出した姉に向って言ってやるのは、妙な気分だ。
「智子、今帰ったの? どうしたの、びしょ濡れよ」
「雨」
と、簡潔に答える。「門、開けて」
「乗りなさいよ」
「面倒くさいよ」
姉の聡子が、リモコンを門に向けてスイッチを押すと、一見、古びて動きそうもない木の門扉が、音もなく開く。
智子は、門が通れる幅だけ開くと、さっさと中へ入っていった。
「——お帰りなさい。あら、ご一緒だったんですか?」
お手伝いのやす子がエプロン姿で出て来る。
「お姉さんと門の前でバッタリ。——ね、雨に降られて、ずぶ濡《ぬ》れ。タオル、持って来て」
「はい!——まあ、傘は?」
「失くした」
智子は、水を一杯に吸い込んで、ずっしり重いブレザーを脱いだ。
このまま上ったら、廊下の床板に、濡れた足跡を残すことになるだろう。
「そのままお風呂に入ったの?」
と、後から入ってきた聡子がからかうように言って、上って行った。
智子は姉がラフマニノフのメロディーを口ずさみながら、階段を上って行くのを見送って、不意に身震いした。
ラフマニノフ。——これはね、ラフマニノフだよ。いい曲だろ? 女性を口説くときには一番効果的ってことになってる……。
あの人はそう言った。
そう言って——。
「早く上って、着がえないと、風邪引きますよ!」
やす子が、大きなバスタオルを智子の頭からスポッとかけた。
「なあに、二人とも。こんな時間に夕ご飯なの?」
人のこと言える?——智子と聡子は、熱いスープを飲みながら、互いに目でそう言い合った。
「智子はね、どこかでずぶ濡れになって帰って来たんだよ」
「お姉さん、告げ口はひどいじゃない」
「単なる報告。別に悪いことして来たんじゃないなら、心配しなくてもいいでしょ」
「まあ、大丈夫? 風邪引くわよ」
と小西紀子、つまり聡子と智子の母親は、智子のおでこに手を当てた。
煩《わずら》わしげにその手を払って、
「お母さんこそ、もう十時よ」
と、言い返す。
「忙しいのよ。あんたたちと違って、お付合いってものがあってね」
紀子は苦しげに、帯に手を当てた。——和服で出かけるときは、たいてい決ったグループの夕食会。
もともとは、聡子と智子の通っているN女子学園の父母会を介しての付合いだが、二人ともN学園には幼稚園からお世話になっているから、母親同士の付合いも相当に長いわけである。
太っては来たが、母親の紀子はずいぶん若く見える。今、四十六歳。三十代といっても通りそうな、マシマロのような色白の頬をしていた。
「聡子はどこへ行ってたの?」
不思議なことに、紀子は妹の智子より、姉の聡子の方を「頼りない」と見ているようで、智子には、「どこへ行ったか」「何をして来たか」とか、訊《き》くことをしない。
「買物よ」
と、聡子は答えた。「お誕生日のプレゼント、買いにね」
智子の手が止った。
「——お姉さん、誰の誕生日?」
「内緒」
と、聡子は言って、ちょっと舌を出した。
「何してるの」
と、紀子が呆《あき》れて、「やす子さん、お風呂は入れる?」
「今、智子さんが入られたばかりです」
「じゃあ、すぐに入るわ。——主人から電話あった?」
「いえ、特に」
「もしかかったら、お風呂場へ持って来て。ニューヨークだから、かけ直すの面倒で……」
母の声が、廊下から階段へと小さくなって消える。
「何、笑ってるの?」
聡子が不思議そうに妹を見る。
「うん、入浴中にニューヨークから電話が入ったら、と思っておかしくて」
「下らない」
と言いながら、聡子も笑っている。
やす子が、スープ皿を下げて、食事を運んで来る。
「へえ、グラタン? 冷凍の?」
と、聡子が言った。
「ちゃんと作ったのを冷凍しといたんですよ。何しろお二人とも、いつお帰りか分らないんですから」
やす子は、ちょっと皮肉って、「智子さん、足りますか?」
「パン、ちょうだい。それで充分」
——食べられる。
どうして食べられるんだろう。智子には不思議だった。
あんなことの後でも、お腹は空く。それは新発見だった。
「——いいもの、あったの?」
と、智子は姉に訊いた。「プレゼント」
「うん。少し値は張ったけど」
「誰にあげるの?」
「お母さんに内緒よ」
言いたくてうずうずしているのだ。「——片倉先生」
やっぱりか。それで分った。
プレゼントだな、君は。
あの人はそう言った。一日早いけど、いいだろう。
何が一日早いんですか? そう訊くひまはなかった。——君はプレゼントだ。そう言って……。
「明日、先生の誕生日なの」
と、聡子は言った。「きっと大変よ、大学。片倉先生にプレゼントあげたがる子、大勢いるからね」
「もう休みに入ってるんでしょ」
「うん。でも、先生は大学へ来てるから」
行ってやしない。もう二度と、先生は大学へは行かないよ……。
「どうぞ」
やす子がパン皿にのせてくれる、切りたての、しっとりとした、弾力のあるパン。その白さが、懐しいようだ。
「お味は?」
「うん。——おいしい」
智子は、本当に味も分っていた。決して機械的に口を動かしているわけではなかった……。
「じゃ、奥様のお風呂を見て来ます」
と出て行く、やす子の後ろ姿は、なかなかみごとなプロポーションだ。
もう一年くらいこの家に住み込んで働いている「やす子」は、二十七、八だろう。丸顔で、美人とは言えないが、人目を引く華やかなものを持っている。
「やす子」は本当の名前ではない。この家では、お手伝いさんはずっと「やす子さん」なのだ。——理由は知らない。智子が生まれる前から、そうだったのだから。
だから、もう何人もの「やす子」が、この家にいたことになる。
今の「やす子」は何代目なのか。本名は確か岡田とか岡崎とか……。〈岡〉の字がついているとしか、智子も憶えていない。
「お腹一杯!」
と、聡子が言って、智子も同感だった。
一つの発見。——人を殺しても、ちゃんとご飯はお腹一杯食べられる、ということ。智子は残ったパンを、グラタンの皿にこすりつけるようにして、口へ入れた。
——智子が片倉道雄を殺してから、三時間ほどたっていた。