目を覚ますと、もうお昼近くだった。
一瞬、智子は焦った。
「遅刻だ!」
パッとベッドで起き上って——。「そうか、試験休みだ……」
学年末試験が終って、二日間の休み。一番のびのびとできる日である。
でも……。こんなにぐっすり眠ってしまった。
カーテンを通して射してくる日射しで、部屋の中はかなり明るい。
あれは、夢だったのかしら? 雨の中、濡《ぬ》れながら走ったのは……。
いや、そうじゃない。——パジャマを脱いで、智子は膝《ひざ》の辺りにあざができているのを見下して、思った。本当に起ったことなのだ。何もかも。
こんなにぐっすり眠って……。自分でも信じられないようだった。
人を殺したことが、こんなに何でもないものだなんて。
あれは仕方のないことだった。私のせいじゃないんだわ、と智子は自分に向って呟《つぶや》いた。
でも、それはそれとして、本当ならば、ちゃんと名のり出なければいけない。
分っている。でも……。
カーテンを開けると、まぶしさに智子は目を細めた。
ともかく顔を洗おう。シャワーを浴びて、さっぱりするんだ。
そして考えよう。どうしたらいいのか。
とはいえ、今さら警察へ届け出るわけにもいかないし、また自分が決してそうはしないだろうということも、智子には分っていた。
——一階へ下りていくと、
「お目覚めですか」
と、やす子が、階段の手すりを拭いている。
「うん……。お母さんは?」
「お出かけです」
「お姉さんは——お出かけね」
と、智子は、やす子が、
「お出かけです」
と答えるのに重ねて言った。
二人はちょっと笑った。
「よく出るわねえ、二人とも」
「あまり他の方のことは言えないんじゃありませんか?」
と、やす子がからかう。「何か召し上ります?」
「うん。コーンフレークみたいなもんでいい。新聞は?」
「居間のテーブルです」
——もちろん、朝刊に事件のことが出るわけはない。
分っていても、智子はつい社会面を開き、記事をざっと眺めて、死亡欄にまで目を通していた。死体が見付かれば、当然記事になるだろうし、学園だって大騒ぎになるはずである。
そうか。姉は大学へ出て行ったのだ。
片倉道雄教授へ、バースデープレゼントを渡しに。
でも、姉たちは(たぶん何人もいるだろうから)、待ち呆《ぼう》けを食わされることになる。
今ごろ、おかしいね、と首をかしげ合っているかもしれない……。
まだ死体は見付かっていないだろうか?——あのまま、深々としたカーペットに、倒れたままだろうか。
血を吐《は》いて倒れた片倉……。うつ伏せに倒れて、動かなくなった片倉。
もし——もし、片倉が死んでいなかったら? 重傷を負いはしたが、生きていたとしたら?
でも、そんなことはあり得ないと、智子にもよく分っている。頭をあれだけひどく割られて、生きていられる人間はいないだろう。
あれは弾みだった。もちろん夢中でもあったけれど、智子の力では、とてもあの重い彫像は持ち上げられない。
激しい勢いでサイドボードにぶつかったとき、たまたま安定が悪かったのだろう、あの彫像が落ちて来て、片倉の後頭部に当ったのだ……。
智子は目を閉じた。
君はプレゼントさ……。そう言ったとき、片倉の顔は、今まで見たこともないような、別人のそれに変っていた。
のしかかってくる片倉。その重さは、智子の想像もつかないほどだった。まるで地球そのものが自分の上にのっかったような——。
セーターの上から智子の胸をわしづかみにする手、膝の間に割って入る足。
警戒心を起す間もなかったことが、却《かえ》って抵抗を可能にした。もし、じわじわと片倉が迫って来ていたら、恐怖で身がすくんで、智子には何もできなかったろう。
突然の嵐のような暴力に、智子は反射的に抵抗していたのだ。何が自分に起ろうとしているのかさえ、分らなかった。
幸運だったのは、もみ合ったのが、手狭なソファの上だったということだ。身をよじった拍子に、一緒になって二人は床へ落ちた。片倉は、テーブルの足に膝頭をしたたか打ちつけたのだった。
その痛みにしかめた顔を、今でも智子は憶えている。おかしい顔だった。普段のときに見たら、笑い出していたかもしれない。
ともかく、その痛みで、片倉の手が力を失ったのである。
智子は床を転って、片倉から逃れた。
玄関へ。玄関へ。それしか考えなかった。玄関へ!
スリッパが脱げていて、カーペットに靴下が滑った。よろけた智子の腰を、片倉が後ろから抱きしめた。
振り回され、投げ出されたのが、あのサイドボードの前で、智子は膝と肩を強く打ちつけた。
痛さで涙が出た。片倉はもう自分のペースになったと知って、余裕を見せ、智子に馬乗りになった。そして……。
智子は、思い出して身震いした。
スカートの下を探って来る手、胸もとへ忍び込んで来る指の感触……。
抵抗しようとした。
君はプレゼントさ。——片倉はもう一度、そう言った。
その意味が分ったのは、ゆうべ姉が、片倉のための「プレゼント」を買って来た、と言ったときだ。
片倉を押し戻そうとする智子。それに苛《いら》立《だ》った声を上げて、片倉は手を振り上げた。殴《なぐ》りつけるつもりだったのだろう。
しかし、手を振り上げたとき、肘《ひじ》がサイドボードに当った。たぶん、智子が転ってぶつかったとき、あの彫像は少し揺らいで不安定になっていたのだ。それが、片倉の肘の一撃で——。
バキッ、と何かが折れるような音がして……。片倉がぐったりとわきへ倒れた。
もし、智子へおおいかぶさるようにして倒れて来たとしたら、智子はとても片倉を押しのけられなかったかもしれない。あるいは吐《は》いた血をもろに浴びていただろう。
しかし……。
「召し上って下さい」
やす子の声。
ハッと智子は目を開ける。
「どうかしましたか?」
「何でもない。別に」
そうだ。もう終ったことだ。
ダイニングで、智子は、ミルクをたっぷりかけたコーンフレークを食べた。
冷たいミルクが、胃を目覚めさせる。
そう。——私のせいじゃない。片倉が死んだのは。
あのとき、もう片倉は死んだも同じだったのだ。放っておいても、死んだだろう。
あのショック。——やっと起き上り、血を吐いて倒れている片倉のわきを、這《は》って逃げようとして、突然足首をつかまれたとき。
あれが、智子をパニックに陥れた。
叫んだとも思うし、暴れもしただろう。しかし——何も思い出せない。
ともかく気が付くと、自分は立ち上っていて、手に大理石の重い灰皿を持ち、その角には血と髪の毛がこびりついていた。
片倉は、それこそもう全く動かなくなって……。
智子は玄関から出て、マンションの階段を駆け下り、雨の降りしきる戸外へと飛び出したのだった……。
もう忘れよう。何もかも、すんでしまったことだ。
コーンフレークをほぼ食べ終って、智子は人の気配に振り向いた。姉がダイニングの入口に立っている。
「びっくりした。——いつ帰ったの?」
智子の問いが耳に入らない様子で、聡子は、
「先生が……」
と、言った。「片倉先生……」
「え?」
「片倉先生……死んじゃった!」
智子は、姉がすすり泣きながら、その場にしゃがみ込んでしまうのを、呆《ぼう》然《ぜん》と眺めていた。……
「変だよ」
と、言い出したのは、阿部ルミ子だった。
——いや、それは阿部ルミ子一人の意見ではなくて、その場にいた全員の考えていたことでもあったのだ。
「来ないわけないよ。片倉先生が」
と、ルミ子は続けた。
普段から、人一倍どころか「人三倍」くらいよくしゃべるルミ子なので、たいてい、みんな適当に聞き流しているのだが、今日ばかりは同感という様子だった。
ガランとした教室には、十人近い女子学生が集まっていた。その中には四年生もいて、今三年生の聡子は、顔ぐらいしか知らなかったのだが、いずれにしても、ここにいる女の子たちは、みんな片倉の「ファン」であり、誕生日のプレゼントを用意して、休み中にわざわざ大学へ出て来たのである。
「そうよね。どうしたんだろ」
と、四年生の子が心配そうに言って、「分ってるはずだもんね。私たちがプレゼント持って来るってことは」
「昨日だって、会ったときに言ってたよ。『何くれるんだ? 楽しみだな』って」
「具合悪そうとか、そんなこと、なかったんですか?」
と、ルミ子が四年生に訊く。
「全然」
そこへ、足早に教室に入って来たのは、電話をしに行っていた四年生の女の子だ。
「——どう? 先生、いた?」
「いない」
と、息を切らしつつ、首を振る。「いくら鳴らしても、誰も出ない」
みんな一様に、落ちつかない様子で沈黙した。
「——行ってみましょ」
と、言ったのは——。
「由布子……。行くって?」
と、聡子が振り向く。
「先生の家へ行ってみるのよ」
「ええ? だって……。そこまでやったら迷惑じゃない?」
「だけど、片倉先生は一人暮しよ。もし、病気にでもなって、熱出して寝込んでいたら……」
「そんなこと……」
とは言ったものの、聡子もそう思っていないわけではなかった。
家まで訪ねて行くという決心がつかないだけだ。
「行くのなら、みんなでね」
と、四年生の子が言った。「どうする?」
「私、行きます。誰も行かなくても」
小野由布子の言い方は、四年生からは「生意気」ともとられかねないものだったが、この大人びた娘には、何となく文句をつけにくい雰《ふん》囲《い》気《き》があった。
実際、集まっている十人の中でも、知らない者が見れば、小野由布子が一番年上と思えただろう。
「そうね」
と、四年生の子が息をついて、「じゃ、行こうか。どうせ、みんな時間、あるんでしょ?」
結局、二人は後に予定があるというので、他の子にプレゼントを預けて帰ることになった。それでも、八人の女子大生がゾロゾロと訪ねていったら、向うはびっくりするだろう……。
「——何でもなきゃいいけどね」
と、阿部ルミ子が、駅への道を歩きながら言った。
ルミ子と聡子は、小学校のころからの仲良しである。——一見、幼なく見えるルミ子は、美人とは言えないが、至って気のいい、サバサバした子だった。
聡子はルミ子と並んで歩き、小野由布子は一人で、誰とも話をせずに歩いている。
ピンと背筋を伸して、じっと真正面を見て歩く由布子には、「キャリアウーマン」の雰囲気さえ、感じられる。
「大丈夫でしょ」
と、聡子は肩をすくめて、「大方、本を読みながら眠ってたとか、そんなことよ」
「そうね」
と、ルミ子が言った。
暖かい、いい日《ひ》和《より》である。少し歩くと、暑く感じられるくらいだ。
「——由布子、本気だね」
と、ルミ子がそっと言った。
「え?」
聡子はルミ子を見た。
「本気でものにする気よ、片倉先生を」
聡子は、小野由布子の後ろ姿を見て、
「まさか」
と、言った。
「あの子ならやるわよ。結構、大人の女って感じだし」
「でも、先生の方が——」
「片倉先生だって男よ」
と、ルミ子は言って、「ね、もしさ、行ってみて、片倉先生が誰か女の子と一緒だったら? 由布子がどんな顔するか、見ものだね」
「しっ、聞こえるわよ」
しかし、たとえ聞こえたとしても、小野由布子は全く気にしなかっただろう……。
ともかく、電車に乗り、約一時間かけて、八人は片倉道雄の住んでいるマンションに着いたのである。
——インタホンにも、全く応答はなかった。
「留守かね」
「どうする?」
インターロックの扉が開いて、買物に行くらしい主婦が出て来た。
小野由布子が、その扉が閉る前に、素早く中へ入ってしまう。
「由布子!」
と、聡子が声をかける。
「部屋へ行ってみる。心配なの」
「じゃ、みんなで行こうよ。開けて」
と、四年生が言うと、由布子は少し気の進まない様子で、扉を開けた。
「〈305〉だったね」
と、ルミ子が言った。
エレベーターで三階へ上り、〈305〉の部屋を見付けるのは簡単だった。ここでもチャイムを鳴らしてみたが、何の返答もない。
ドアを叩《たた》いていると、隣のドアが開いた。
「——何してるの?」
と、中年のおばさんが顔を出す。
「学生なんです。片倉先生に教わってる。先生、お留守ですか」
「さあ……何だかゆうべドタバタやってたけど」
「ドタバタ?」
と、由布子が眉《まゆ》を寄せた。
「そう。何してんのかしら、と思ったわ。でも、今日は見てないわね」
誰もが顔を見合わせる。——と、突然、由布子がドアを開けた。
「鍵、かかってない」
「由布子! 待ちなさいよ」
聡子が止める間もなく、由布子は中へ入って行ってしまった。
続いて四年生たちが次々に中へ入る。——聡子はまだためらっていたが、廊下に立っているわけにもいかず、玄関へ入った。
「勝手に上っていいの?」
とルミ子が言って、聡子も、
「ねえ、ちょっとそこまでは——」
そのとき、悲鳴が(誰が上げたのか、よく分らなかったのだが)聞こえて、二人は立ちすくんだのだった……。