「小西智子」
と、マイクを通した声が、講堂の中に響き渡る。
「はい」
はっきりと返事をして、智子は立ち上った。
見てるかな、お母さん。結構、寝坊して遅刻したりして。
いや、やす子がいるから、寝坊はしないだろうが、家を出て途中でちょっと、
「お友だちと話し込んだりして」
遅れて来る、ということは、充分に考えられる。
智子は、前の子と十メートルほどの間隔を保って、壇上へ向いながら、後でお母さんに訊《き》いてやろう、と思っていた。
私の前の子が階段でつまずいたの、見たでしょ?
ええ、見たわよ、とでも母が答えれば、何も見ていなかったことがばれてしまうわけだ。
もちろん、実際には誰もつまずいたりしなかった。壇上に上って、足を止める。前の子が、高等部長の青柳先生から、卒業証書を受け取って一礼すると、反対側へと歩いて行く。智子の番だ。
智子は、少し胸を張って、しっかりした足どりで進んで行った。
青柳先生は、以前、このN女子学園の小学部の部長をしていて、そのとき智子も小学生だった。母が父母会の役員をしていたので、青柳先生は智子のことをよく憶えているはずだ。
卒業証書を先生から手渡される。
「大学へ行っても、しっかりな」
智子が小学生のころと比べると、すっかり髪が白くなって老《ふ》けた(当然のことだが)青柳先生が言った。低い声だったので、他の人には聞こえなかっただろう。
智子も小さく、
「はい」
と返して、一礼した。
壇を下りながら——でも、青柳先生は知らない、と智子は考えていた。何も知らない。
私が人を殺したこと。片倉先生を殺したことを、知らない……。
卒業証書をゆるく丸めて持つと、智子はそのまま講堂から外へ出た。——そう。これで卒業式は終ったのである。
表では、先に証書を受け取った子たちが、みんなで写真をとり合ったりしている。
親たちも講堂から出て来始めていた。
暖かい、よく晴れた一日。卒業式にはうってつけの天気だった。
「やあ、智子」
と、肩を叩《たた》いたのは、中学生のころ仲が良かった三井良子である。
もちろん今でも会えば話はするのだが、高校生時代はクラブも別で、あまり会う機会もなかった。
それに——良子は少し変ってしまった。
「元気?」
と、良子は言った。
「うん。——良子、どこへ行くの?」
と、智子は訊いた。
むろん、このN女子大のどの学部へ進むのか、という意味で訊いたのである。
「さあね」
と、三井良子は目を少し細くして空を見上げると、「親の思いのままよ。どこか遠くへやられるんだ」
「良子……。大学じゃないの?」
そのときになって智子は、いつか母が、
「三井さんのとこは……」
と、小さな声で電話していたことを思い出した。
「知らなかった?」
と、良子は卒業証書をヒラヒラさせて、「これだってお情よ」
そう。——高校時代、良子は遊びに遊んで、先生たちに手をやかせていたらしい。
智子もそれは知っていたが、何しろ小学生、中学生、と優等生で通していた良子のイメージしかないので、大したことじゃないだろうと思っていたのだ。
「知らなかった……」
と、智子は言った。「外へ出るの」
「少年院に入れられないだけましかな」
と、良子は笑った。
智子がドキッとするほど、良子は「大人の女」に見えた。背も高く、体つきも、すっかり大人だ。
髪もパーマをかけ、少し染めているようだった。
「何かやったの?」
と、智子は訊いた。
すると良子は、智子の腕をとって、
「こっちへ来て。——こっち」
と、講堂のわきへ引張って行くと、「これよ」
ブレザーのポケットから、紙にくるんだ物を取り出す。
「何? タバコ?」
「マリファナ」
と、良子は平然と言った。
「本当に?」
「これ持ってるとこ、捕まったの。言い逃れはしなかった。友だちの、預かってただけなんだけどね。でも、私もやってないわけじゃなかったし」
「良子……」
「いいのよ、心配してくんなくても。好きでこうなったんだから。智子は真面目ね。いい大学生、いいOLになって、いいお嫁さんになる、か。——でもね、男と女の間は、どんなに見た目が幸せな夫婦でも、分んないものよ」
良子の言葉は、すでに彼女が男を知っていること——それも、単に経験したことがあるというだけでなく、もっと愛とか憎しみとかを通り抜けて来ていることを、感じさせた。
「残念だね」
と、智子は言った。「小学生のころ、良子、私のことをいつもかばってくれた」
良子は笑って、
「あのころ、智子は本当に赤ちゃんでさ。よく泣いたしね」
「そうだった」
と、智子も笑った。
でも——もう戻れない。誰も、時間は戻せないのだ。
「元気でやりなさい」
と、良子は智子の肩をポンと叩いた。
良子はマリファナで、結局、退学同然だ。私は人を殺したというのに。
もちろん、殺すつもりではなかったし、責任といえば向うにある。でも人一人の命を、この手で奪ったことは確かである。
「——智子! ここにいたのか」
と、姉の聡子がやって来る。「あら。三井さん? 良子ちゃんでしょ」
「今日は」
「久しぶりね。——智子、向うでお母さん、待ってるよ」
「すぐ行く」
と、智子は肯《うなず》いた。
「——お姉さん、相変らず美人だね」
と、良子が聡子の後ろ姿を見送って、言った。
「この間の、片倉先生の事件で、すっかり落ち込んでたの」
と、智子はさりげなく言った。「でも、やっと元気になったみたい」
「片倉教授殺害事件か」
と、良子は肯いた。「迷宮入りかね、あの事件」
「どうかしら」
「女だよ」
と、良子が言った。
「どういう意味?」
「犯人。——みんな見当違いの推理ばっかりしてるけど、犯人は女」
智子は、まじまじと良子を見て、
「どうして分るの?」
「あの先生、女の子にもてた。分るでしょ?」
「そりゃあ……。でも——」
「頭が良かったのよ。それなりに噂《うわさ》になる女子大生とか、わざと目につくようにして付合ってた。分る? その代り、調べても、決して深い仲じゃないってことが知れる。すると、あの人は見たところほど、女の子に手を出しちゃいなかったんだ、ってことになるでしょ」
「本当は——そうじゃなかったの?」
良子は、チラッと遠くへ目をやって、
「もう行った方がいいよ」
と、言った。「お母さんが待ってるでしょ」
「うん……」
智子は、良子の話に興味があった。片倉のことを、もっと聞いていたかったが、そうは言いにくい。
「じゃ、良子——」
「うん」
と、良子は肯いて、「もし片倉先生のこと、もっと聞きたかったら、今日夕方の六時に、〈P〉へおいで」
「〈P〉? あの駅前の?」
「そう。じゃあね」
智子が行きかけると、
「ここにいたのか」
と、厳しい顔の男がやって来た。「良子! 何してるんだ、こんな所で」
良子の父親なのだ。智子は気になって、足を止めて振り返った。
「何もしてないよ」
と、良子は言った。
「行くぞ。その卒業証書、大事にしろ。高かったんだ」
有無を言わせぬ口調。
「そんなに高かったの。悪いわね」
と、良子が言い返した。
「何が悪いんだ」
「これよ」
良子は、父親の目の前で、卒業証書を一気に二つに裂《さ》いた。父親の顔から血の気がひく。
良子は足早に、学生たちの間を抜けて行ってしまった。父親は、地面に落ちた卒業証書を震《ふる》える手で拾い上げると、ていねいに丸め、よろけるように歩き出した。
智子は、父親にも同情していたが、同時に、良子だって何か理由がなければ、ああはならないだろう、と思った。
母が待っている。——智子は、もうほとんどの学生が集まっている方へと歩いて行った。
「智子、何してたの」
母親の紀子が和服姿で立っている。その母のそばに、今はパリにいるはずの父親の姿を見出して、智子はびっくりした。
「お父さん……。何してるの」
「ご挨《あい》拶《さつ》だな」
と、小西邦和は笑って、「パリから飛んで来たんだぞ」
「へえ。ご苦労様」
「おい、それだけか、言うことは」
と、父が笑う。
「もう明日の飛行機で発《た》つんですって」
と母の紀子は不満顔。「二、三日いられないの?」
「仕事がある。仕方ないだろ、お前らを食わしてくためだ」
と、父は言って、「午前中の飛行機だ。少し早く出ないとな。——おい、どこかで晩飯を食べよう。お祝いだ」
「うんと高い店でね」
と、聡子が言った。
「これだから、稼がんとな」
と、小西邦和は笑った。
智子は、さっきの三井良子の言った「六時に〈P〉で」という言葉を思い出して迷った。片倉のことも訊きたい。しかし、父がわざわざパリから戻って来たのに、夕食に付き合わないとは言えない。
「智子! 写真、写真!」
と、同じクラスで一番仲良くしていた、堀内こずえが駆けて来る。
「あ、そうか。——両親もよ、一緒に」
「そうか。じゃ、行こう」
と、小西が妻を促《うなが》す。
講堂前の階段に、ズラッとクラス全員が揃《そろ》って、その後ろに親たち。ほとんどの子は両親揃っているので、智子も父が帰って来てくれて良かった、と思った。
「いつも娘がお世話に」
と、父が青柳先生に挨拶している。
父、小西邦和は、目立つ人間である。大柄で胸が厚く、堂々とした印象を与えるからだろう。実際、青柳先生と話していると、大人と子供みたいである。
自信と力に溢《あふ》れている。——そんな雰囲気を、小西邦和は身につけていた。
「あなた、後ろに」
「ああ、並ぼうか。では、失礼します」
小西が青柳先生に一礼して、父母たちの端に加わる。母は顔見知りの母親たちと挨拶を交わしていた。
智子は、堀内こずえと並んで立った。こずえが小柄なので、一番前の列になってしまう。
「はい、皆さん、カメラの方を見て!」
カメラに詳しい先生が、6×6判の大型カメラで、記念撮影である。
「はい、笑って。——はい、もう一枚」
智子は、姉がわきの方に立ってこっちを眺めているのに気付いた。微《ほほ》笑《え》んで見せると、姉も小さく手を振った。
そして、智子は、そのまま姉の背後に視線をやって、そこに場違いな人間を見付けていた。
あの山神完一、「疫病神」のニックネームのある助教授だ。もちろん、このN女子学園の職員なのだから、通りかかるのは不思議じゃない。しかし山神は、立ち止って、じっとこっちを眺めていた。
智子には、山神がわざわざこの卒業式を見に来たように思えたのだ。
そして——なぜか山神の陰気な視線は、智子を見ているようだった。
「はい、笑って!」
という声にハッと我に返った智子は、カメラの方へ視線を戻し、ニッコリと笑った。
カシャッ、とシャッターの落ちる音がした……。