「車を取って来る。ここで待ってろ」
と、小西邦和が言って、大《おお》股《また》に歩いて行く。
紀子の方は、通りかかった仲のいい母親と、
「ねえねえ、月末のお昼の会、どうなった?」
と、話を始めた。
「お昼の会」というのは、仲のいい母親同士、月に一、二回集まって、有名なレストランでランチを食べ、おしゃべりをするという、それだけのこと。
ま、「夜中の会」にならないだけいいよね、と姉の聡子などは言っている。
「——気が付いた?」
と、聡子が言った。
「何?」
「山神先生、来てたでしょ」
「ああ……。見たよ。何しに来たの?」
「さあね」
と、聡子は肩をすくめて、「これから大学へ入って来る子たちの中に、可愛い子がいるかどうか、下見に来たんじゃない?」
「まさか」
と、智子は笑った。「——ね、小野さんの言ってたこと、どうなったの?」
山神完一が犯人だ。小野由布子はそう信じていた。
山神が犯人だという証拠を、自分たちの手で見付けよう。——あの小野由布子の提案は、真剣そのものだった。
「あれ? ま、その内成果を教えてあげるわよ」
と、聡子は思わせぶりに言った。
「本当に何かやってるの?」
と、智子は言った。「やめた方がいいよ。もし全然別の人が犯人だったら?」
「それなら、証拠なんか出て来ないでしょ」
「もし、本当に犯人だったら、危ないじゃないの」
「大丈夫。危ないことはしないわよ」
と、聡子は言った。
そう。——いくら片倉先生のことが好きだったとしても、姉は飽きっぽい。いつまでも一つのことをしつこくやっていられる性格じゃないのだ。
あの小野由布子はどうか知らないけれど。
ともかく、姉はやがて面倒くさくなって、忘れてしまうだろう。その点、智子は安心していた。
でも——本当に、今日、山神は何しに来ていたのだろう?
「お父さんだよ」
と、聡子が言って、父の運転するベンツが走って来るのが見えた。
食事はおいしく、食卓もにぎやかそのものだった。
もちろん、聡子にしろ智子にしろ、自分の財布ではとても入れない、フランス料理店。
「——ちょっと、電話する約束になってるんだ」
と、スープがすんだところで、智子は席を立った。
「電話、お席にお持ちしますが」
と、店の人が言ってくれたが、
「いえ、結構です」
と断って、入口のわきにある公衆電話の所へ行った。
もう時間は七時になっているが、三井良子はまだ〈P〉にいるだろうか?〈P〉はよく学生同士、待ち合せに使う店で、電話番号が手帳に控えてある。
「——もしもし。〈P〉ですか?——三井良子さん、いますか」
呼んでもらっている間が、ずいぶん長く感じられる。——しばらくして店の人が出た。
「今、いないね。さっきまでいたんだけど」
「そうですか……」
と、智子はがっかりして言った。「じゃ、結構です。すみません」
片倉先生のこと。——良子は何か知っている様子だった。もちろん、片倉は死んでしまったのだし、犯人は分っているのだから、今さら何を聞いても仕方ないようなものだが、姉が何やら余計なことをやったりしているのも気になる。
また良子と連絡をとって、改めて会ってみよう、と智子は思い直した。
席へ戻ると、魚料理が出て来たところだった。
「ソース、おいしいね」
と、聡子がパンにソースをからめて食べている。
「そうだ」
と、父の小西邦和が言った。「お前、片倉先生のこと、良く知ってたろう」
聡子の手が止る。小西は全くそれに気付かない様子で、
「片倉先生、どこかへ行ってるのか?」
と言ったのである。
テーブルが沈黙に包まれた。小西は戸惑って、
「どうかしたのか?」
「お父さん……。知らなかったの?」
と、智子は言った。
「知らないって、何をだ」
「私……手紙出したのに、ロンドンの方へ」
と、聡子は言った。「届かなかった?」
「先生、亡くなったのよ」
と、母の紀子が言った。「恐ろしいことに、殺されたの」
何ということもない口調で言われた言葉が、小西に与えたショックは大きかったようだ。
小西の手から、音をたててナイフとフォークが皿の上に落ち、危うく皿が割れるかと思えた。
「——お父さん、どうしたの?」
智子は、父の顔から血の気がひいているのを見てびっくりした。
そして、父は突然立ち上ると、大股に化粧室へと歩いて行ってしまう。——残った三人は、顔を見合せた。
「お父さん、片倉先生と親しかったの?」
と、智子は訊いた。
「さあ……。お聞きしたことないけど」
と、紀子も当惑している。「でも知り合いではあったはずよ。何かの会でご一緒だったでしょ」
しかし、今の父の驚きようは、並大抵ではない。智子は、姉の聡子の方が、びっくりしながらも、ちゃんと料理を食べ続けているのを見て感心(?)した……。
父が戻って来る。
「や、すまん」
と、もういつもの様子に戻って、「何も知らなかったんでな、びっくりした」
智子は父が少しわざとらしい元気の良さで食事を続けるのを見ていた。
「——一体何があったんだ?」
と、少しして、父は訊いた。
智子も聡子も、説明するには気の進まない理由を持っている。
紀子が、新聞にのった程度のことを、夫に話して聞かせる。
「そうか……。気の毒にな。いくつだった? せいぜい四十かそこらだろう。——可哀そうに。犯人は見付かったのか?」
「いえ、まだ」
と、聡子が魚料理を食べ終えて、やっと口を開いた。「ね、ワインをもらってもいい。もう一本?」
「ああ。大丈夫なのか、お前?」
「うん、強くなったのよ」
「じゃ、頼みなさい」
小西は、大して気にもとめていない。外見とは裏腹に、片倉の死を知ったショックから立ち直り切っていないのだろう、と智子は思った。
「——明日の飛行機、何時になったの?」
と紀子が訊く。
「うむ? ああ、もう家にファックスが入ってるはずだ」
小西が答える。
ふと、智子は思い付いて、
「お父さん、今夜、どこかのホテルにでも泊ったら?」
と、言った。
「ホテル?」
「明日、ちゃんと起こしてくれるし、空港に行くにも、家から行くよりは少し楽でしょ」
「まあ……。それはそうだが」
「お母さんと二人でさ。ずっと放っといちゃ浮気されるわよ」
紀子が真っ赤になって、
「智子。何言い出すのよ」
と、にらんだが、本気で怒ってはいない。
「そうだな……。それも悪くない。どうだ、お前は」
と、紀子を見る。
「どうって……。そんな簡単に——」
「簡単さ。Kホテルなら、いつでも取れる。何か必要な物がありゃ、家までどうせこの二人を送ってくんだ。取ってくればいい」
「でも、学校が——」
「今日は卒業式だったのよ」
と、智子は言った。「お姉さんだって春休みだし。構わないよ」
「そうしよう。——君、ちょっと電話を」
と、小西がコードレスの電話を持って来させ、Kホテルの支配人へ電話を入れる。
「——じゃ、スイートルームを頼む。——ああ、よろしく」
「あなた……」
「もう部屋を取った。この二人も、飢え死にしやしないさ」
「それどころか、もうお腹が苦しい」
と、聡子が大げさにため息をついた……。
「——お荷物を」
と、やす子がボストンをさげて、玄関へ出て来る。「行ってらっしゃいませ」
「ありがとう。また留守を頼む」
と、小西は言って、「紀子。——何してるんだ」
「お待たせして」
智子は、母がいそいそと出て行くのを、居間のドアを開けて見ていたが——。
「楽しそうだよ、結構」
と言って、ドアを閉めた。
「あんたにしちゃ、気のきいたことするじゃない」
と、聡子が言った。
「だって……お母さんがいやに寂しそうにしてるし」
「そうね。月に一日か二日しか帰って来ない亭主じゃ、寂しいよね」
「夫婦の危機ってやつ?」
「あんたが心配するのは、ちょっと早いんじゃない?」
と、聡子は笑った。
「——聡子さん、小野様からお電話です」
と、やす子が顔を出す。
「由布子? 部屋で取るわ」
と、聡子は急いで居間を出て行った。
智子はソファに寛《くつろ》いでTVを点けたが、大して見たいものもなく、またすぐに消してしまった。
——高校生活も終り。
何だか、全く実感がなかった。本当に四月から、大学生になるんだろうか?
さほど規模の大きくないN女子学園は、大学も同じ敷地内にある。つまり、外部から大学を受けて入学して来る子もいるにせよ、高校からそのまま進む子にとっては、同じ場所へ、同じ子たちと通うわけで、あまり生活が変ったという気持になれないのも当然のことだろう。
——でも、もちろん智子にとって、高校生活は、とんでもない「しめくくり」を迎えることになってしまった。
片倉の死から二週間余り。——もう、警察がやって来て捕まえるんじゃないか、という恐怖はない。
その代り、片倉の死によって、何が変ったか。そっちに、今は関心があった。
山神が、片倉の死に伴って教授に昇格するのは、間違いないと言われていた。山神は野心家である。教授になって、おとなしくしているとは思えない、とか。
これは、母が親しい友人から耳にした話である。——何しろ、これだけN学園の父母として役員などをやっていると、あちこちに、「情報源」ができるのだ。
「——そうだ」
と、やす子が、また居間に顔を出して、「お帰りの少し前にお電話が。忘れてました。すみません」
「私に? 誰から?」
「三井様とおっしゃる方です」
良子だ!——でも、家にいるのだろうか。
「自宅にいるって言ってた?」
「お友だちのお母様でした」
「お母さんから?」
「お帰りになったら、電話を下さい、と」
「分ったわ。まだ時間、早いし」
電話の一本は姉が使っている。智子は、台所の電話から三井家へかけた。
「もしもし」
びっくりするほどすぐに向うが出る。
「あの、小西です」
と、智子は言った。
「あ、智子ちゃん? ごめんなさい、わざわざ」
「いいえ」
「うちの良子と、今夜会わなかった?」
「良子さんですか? 卒業式のときに——」
「主人から聞いたわ。恥ずかしいことで……」
と、ため息をつく。
「その後は会っていません」
「そう……。まだ帰らないの。いつも遅くなるのは珍しくないんだけど、今夜はね……」
少しためらって、「何か、やけになって、とんでもないことをしなきゃいいんですけどね」
「良子さん……あんなに頭が良くて、しっかりしてたのに」
「そう。小学部、中学部のころは本当にいい子だったのにね……」
と、母親が声を詰らす。
「何があったんですか」
と智子が訊くと、
「その内、ゆっくりお話するわ。ごめんなさい。あの子からかかって来るといけないから——」
「そうですね。じゃ、また——」
と言いかけて、「あの……今日、夕方には駅前の〈P〉にいると言ってました」
「駅前の〈P〉? ありがとう! 訊いてみるわ」
母親の声が、やっと明るくなった。
電話を切って、しかし、智子の気持はなぜか重苦しかった。
良子がまだ帰っていないということ、それ自体はそう心配していなかった。しかし、良子が遅くまでどこで何をしているのか、それが気になったのである。
あんなにいい子が……。
どこでどう狂ってしまったのだろう。
「智子さん」
と、やす子が声をかけた。「お風呂、お入りになって下さい」
「うん」
と、智子は肯《うなず》いて、二階へと駆け上って行った……。