「どうする?」
と、こずえが言った。
「どうする、って……。ここまで来て、帰るの?」
智子はそう言って、実は自分の方が帰りたがっているのだと知っていた。
N女子大の三年生だというその女は、ロビーのソファから立ち上った。——十二時を四分過ぎている。
男の方はまだ現われない。
女は、エレベーターの方へと歩いて行った。
「部屋に行くのかな」
と、こずえが言った。
「そうだろうね。でも、キーを持ってるってこと?」
「それとも、相手がもう部屋にいるのか」
「それなら、どうして今までここで座ってたの?」
「知らないよ」
と、こずえは言った。
どこか変だ。ちぐはぐである。
智子は気に入らなかった。
十二時十分。ロビーへ入って来た男がいた。
見るからに、人目を避けているようで、却って人目を引く。コートのえりを立てているのも、こんな季節には不自然である。
しかし智子もこずえも、その男を一目で見分けていた。
「山神先生じゃない」
と、こずえは唖《あ》然《ぜん》とした様子で、「驚いた! あの先生が……」
山神は迷うことなく、真直ぐにエレベーターへ直行した。扉がなかなか開かないので、苛《いら》立《だ》っているようだ。
「呆《あき》れた……。女子学生と、あんな陰気な先生が? とても信じらんないね」
と、こずえは言ったが、智子には、これが単純な「遊び」とは思えない。
ただ女子大生が先生と遊ぶのなら、
「命は惜しいもの」
というセリフは出ないだろう。
見ていると、扉が開いて、やっと山神がエレベーターに乗る。智子はパッと立って、
「待ってて」
と一言、小走りにエレベーターへと急いだ。
もちろん、山神の乗ったエレベーターはどんどん上の階へと上っている。智子は、エレベーターがどこで停るか知りたかったのだ。
階数のデジタル表示が、〈15〉で停った。そのまま上りも下りもしないから、おそらく山神は十五階へ行ったのだ。
「——ごめん」
と、席へ戻って、「こずえ。ここで待っててくれる?」
「何するの?」
「十五階へ行ったの、山神先生。私、行ってみる」
「よしなよ!」
と、こずえは言った。「もう帰ろう。ね? 何かあったらどうするのよ」
「大丈夫。危い真似はしないから」
という智子に、
「もうしてるよ」
と、こずえは文句をつけて、「付合うよ。しようがないなあ」
とため息。
悪いね、と智子は手を合せた。ただし、心の中だけである。
せめて、というわけでもないが、コーヒーハウスの飲物代は、智子が持つことにしたのだった……。
十五階といっても、どの部屋なのか見当もつかないのでは、どうにもならない。
智子とこずえは、十五階の廊下をゆっくりと端から端まで歩いて行った。——ドアに、〈ドント・ディスターブ〉の札のかかった部屋もいくつかあった。
ルームサービスの、食べ終えた盆が、ナプキンをかけてドアの外に出してある。
「どこだか分んないね」
と、こずえが言った。「どうする?」
「うん……」
正直なところ少しホッとしてもいた。
「戻ろうか」
「そうだね」
二人はエレベーターの方へと歩き出した。
「山神先生が、あんなことしてるなんてね」
こずえにはよほど意外だったらしい。
「誰がもてるか、分んないものね」
と、智子は言って、エレベーターの呼びボタンを押した。
「でも、智子のお父さん、来なかったじゃない」
「うん。——何だったのかなあ」
と、智子は首をかしげた。
「でも、智子。私たち、お互い、相手の家に泊ってることにしてあるんだよ。これからどうする?」
「何とか言いわけできるよ。うちに来て泊る? 気にしないし」
「そうだね。智子の所の方が——」
突然、鋭い悲鳴が廊下にまで響きわたって、すぐに途切れた。
二人は、顔を見合せて、
「今の……」
「聞いた?」
空耳ではない。あまりに今の声ははっきりしている。
「——どこの部屋だろ?」
「さあ……」
智子としては、知りたい気持と知りたくない気持と半々だった。
エレベーターが来て、扉が開くと——。
「あ……」
智子は、降りて来た若者を見て、びっくりした。「あなた——」
「君か!」
内田三男だった。あの革ジャンパーのイメージとは大分違うツイード姿だ。
「何してるんだ?」
「今、悲鳴が——」
「悲鳴?」
「どの部屋か分らないんだけど」
廊下に面したドアの一つが開いた。
内田三男が、足早に歩いて行く。
「何か……お隣で凄《すご》い声がしたの」
出て来たのは、ガウン姿の婦人で、眠っていたのを起こされたという様子である。
「隣ですか? どっち側です?」
内田が訊《き》くと、その婦人は、
「そっちよ」
と、指さした。「女の人の叫び声が……。聞いたでしょ?」
「いえ、僕は。あの女の子たちが聞いて、びっくりしたそうです」
「そうよ。あれはただごとじゃないわ」
「ホテルの人を呼びます。中へ入っていて下さい」
「お願いね。私、明日の朝、早いの……」
と言って、ホッとしたようにその婦人は中へ引っ込んだ。
「どうなってるの?」
「分らない。とにかくその部屋で何かあったんだろう」
内田はドアを見て、それから智子の方へ向くと、「君たち、いいのか、ここにいて」
智子とこずえは、一瞬詰った。
「もし警察沙《ざ》汰《た》になると……。帰った方がいいよ」
確かにそうだ。智子も、もし、あの部屋に父がいるというのだったら、ここに残るだろうが、山神なら——。
「うちの女子大生と山神って先生がいると思うの」
「山神?」
「知ってる?」
「良子から名前は聞いてる」
と、内田は肯《うなず》いた。「ともかく、呼んでみて返事がなければ、ホテルの人に連絡して開けてもらおう」
智子は、内田がなぜここへ来たのか訊きたかったが、今はそんな雰《ふん》囲《い》気《き》ではない。
「じゃ、私たち——」
と、こずえを促して、歩きかけたときだった。
カチリと音がして、静かに、そのドアが開いたのである。
フラッと出て来たのは山神だった。
「山神先生!」
と、思わず智子は言っていた。「その手——」
山神の両手はべっとりと赤く包まれていた。
血だ。
しかし、山神は半ば放心状態という様子で、目の前にいる智子たちには気付かない様だった。
そして両手をじっと見下ろすと、
「眠りを殺した……」
と、呟《つぶや》くように言った。「もう眠れん。——眠りを殺した」
〈マクベス〉だ、と智子は思った。
「中を見よう」
と、内田三男が言った。
しかし踏み込むまでもなかった。
部屋のカーペットの上に、血に染ったあの女子大生が倒れている。廊下からでも、充分に見える。
下着姿で、まるで真紅の下着を身につけてでもいるようだった。
「君らは帰れ」
と、内田三男が早口に言った。「後は僕が何とかする!」
二人は逆らう気にもなれなかった。
エレベーターでロビーまで降りると、ほとんど走るようにして、表のタクシー乗場で待っている空車に乗り、智子の自宅へと向ったのだった。
——何てことだ!
智子自身も片倉を殺してはいるが、それでもあの女の死体は……。ショッキングだった。
「智子」
と、こずえが言った。「あの男の人、何なの」
「ふーん」
と、こずえが肯く。「何だか複雑なんだね」
智子の部屋である。
タクシーで帰って来たとき、姉がまだ起きていて、
「あら、どうしたの?」
と、不思議そうな顔で訊いた。
「ううん、ちょっと出かけてて、こっちに泊ることにしたの」
と、智子は一応説明したが、姉はもちろん大して気にもしていない。
「お腹空いたら、何か出して食べな」
と言っただけだった。
智子とこずえは順番にお風呂に入って、二人してベッドへ潜り込んだのはもう夜中の二時過ぎ。しかし、どっちも一向に眠気はさして来ない。
当然だろう。あんな凄《すご》いものを見てしまったのだから。
智子は、父が片倉先生の死で、ひどくショックを受けていたこと、あの女子大生とレストランで話していたことを、こずえに話してやった。
それだけでは何のことやら分らないだろうが、これ以上は、いくら友だちといっても話すわけにはいかない。——そう、まさか、いくら親友でも、
「私が片倉先生を殺したの」
とは言えない。
いや、事情を話せば分ってくれるだろうし、こずえが他の人にしゃべることはないに違いない。
しかし智子自身の中で、人を殺したという意識は決して消えない。たとえ身を守っただけだったとしても。
「でも——あの三年生の人、殺されたんだよね」
と、こずえが言った。
「そうだろうね」
智子は、暗い天井を見上げて、呟《つぶや》く。
「山神先生がやったんだろうね……」
確かにあのときの状況は、他に考えようのないものだった。
山神の両手は血だらけで、あんな放心状態で。あの後、どうなったのだろう?
「良子にあんなボーイフレンド、いたんだ」
と、こずえが言った。
「うん。私も、ついこの間会ったのよ」
「——山神先生、逮捕かなあ」
「たぶん……そうじゃない?」
と、智子は言った。
切れ切れの言葉、そして、いくら目をつぶっても浮んで来る、あの凄《せい》惨《さん》な場面。
山神が殺した。
しかし、父があの女子大生に話していたこと、そして女子大生が危険を承知しているような口をきいていたことは、完全には説明できない。
あの女子大生は何のためにあの部屋へ行ったのか。そして……。
そうだ。——あの女子大生は、フロントにも寄らず、ロビーで少し待っていて、そのまま部屋へ行った。山神は後から来て、真直ぐにエレベーターの方へ行ってしまった。
では、一体誰があの部屋のキーを持っていたのだろう。
どこかおかしい。単純に、山神があそこで女子大生を抱こうとして、何かの理由で殺したとしても、謎《なぞ》は残る。
「——智子」
と、こずえが言った。
「うん?」
「何か隠してること、ない?」
智子はドキッとした。
「どうして?」
「何となく……。そんな気がして」
と、こずえは言った。「ね、何かあったら、いつでも力を貸すからね。当てにしてよね」
こずえの言葉が、智子には嬉《うれ》しかった。
「ありがとう」
と、智子は言った。「ちゃんと話せるときが来たら話すわ。それでいい?」
「いいよ。じっくり聞いたげる。甘いもんでも食べながらね」
二人は笑った。
そして一つのベッドの中で(智子のベッドはダブルサイズなので、二人で充分に寝られる)、二人はやっと遅い眠りに引き込まれて行った……。