ギターの爪弾き。少しかすれた、でも明らかに日本人の声とは違う、どこか「脂っこい」テノールの響き。
イタリアレストランの中は、いかにもはなやいだにぎわいを見せていた。
「——おいしい」
と、智子はスパゲッティをきれいに平らげて言った。
「呆《あき》れた」
と、聡子が言った。「食い気専門? ちっとも色気なんかありゃしない」
「悪かったわね」
と、やり合っていると、
「やめなさい」
と、母の紀子が苦笑いした。「こんなお店で、見っともない」
「まあいいさ。気楽な店だ」
と、父が笑った。
小西邦和にとっては、こういう店で食事をする方が、むしろ日常なのである。
一家四人。——今、評判の新しいイタリアンの店へやって来ての夕食。
中を流して歩く歌い手は、イタリア人らしい陽気さで、アベックのテーブルのそばでは、オーバーにセレナーデを歌って、拍手を浴びている。
「こんな店でデートできるボーイフレンドを捜そう」
と、智子は言った。
「やれやれ」
と、小西が言った。「智子も大学生か。男にもってかれるんだな、その内」
「いつまでもいられちゃ困るでしょ」
と、紀子が笑う。
ワインを飲んで、紀子も大分赤くなっていた。
本当にお母さんたら、何だか若返った、と智子は思った。
「——お父さん」
と、聡子が言った。「今度、お父さんがパリにいる間に、行ってもいいでしょ、私」
「ああ、構わん」
と、小西はワイングラスを空にして、「ちょうど良かった。その話もしようと思っていたんだ」
「パリのこと?」
と、紀子が訊《き》く。
「うむ。もう戻らんとな。パリがいくら呑《のん》気《き》でも」
「そうね……」
紀子はつまらなそうだったが、見当はついていたのだろう。「じゃ、一緒に行こうかしら、私も」
「おいおい」
と、小西は笑って、「仕事をさせないつもりか?」
「あら、あなただって、一日中仕事してるわけじゃないでしょ?」
「そりゃそうだが……。お前がいなくちゃ、聡子たちが困るだろう」
「もう大学生よ」
と、聡子が言った。「良かったら、行ってくれば?」
「ねえ、そうよね」
と、紀子もまるで娘のように甘えて見せる。
智子は少しうんざりした。酔っているのかもしれないが、母もやりすぎだ、という気がしたのだ。
そのとき、テーブルの間を通り抜けようとした女性が、ちょっとよろけて、
「あっ!」
と、小西の肩につかまって、よりかかった。
「おっと……。大丈夫ですか?」
「ええ、すみません」
と、赤くなって、その若い女は礼を言うと、化粧室と電話のある一画へと歩いて行く。
「——お前がどうしても行きたいのなら構わんが」
と、小西は妻へ言った。「しかし、パリにだけいるわけじゃない。一人でパリのホテルにいられるか?」
「そうねえ……」
紀子も、そういう点は気が弱い。
「ちょっと電話をかけて来る」
と、小西は席を立った。
——店の中はほぼ一杯。ウエイターが皿を下げに来た。
「——満足?」
と、聡子が智子に訊く。
「メインはこれからでしょ」
智子は、「いやだ。ソースが袖《そで》口《ぐち》についちゃった」
「がっついて食べるから」
「ちょっとごめん」
姉の相手はせずに、智子は立ち上って、化粧室の方へと歩いて行く。
席からは、ちょうど湾曲した壁で仕切られた一画に公衆電話があり、その奥が化粧室だ。
智子は足を止めた。——父の声がした。
電話しているのではなかった。奥の化粧室の前だ。
「——分ってるわ」
と、女が言った。
「忘れるなよ、明日の夜だ。十二時に——」
「Sホテルね。知ってるわ」
「用心しろ。充分に」
「ええ。もちろんよ。——まだ命は惜しいものね」
あの女……。さっき、父によりかかった女である。
あれは、わざとやったことだったのか。
父の話し方は怖いほど真剣そのものだった。さっきまでテーブルでしゃべっていた父とは、別人のようだ。
父が男子の化粧室へ入って行き、女は出て来る。
智子は急いで、電話しているふりをした。女が背後を通り抜けると、強い香水の匂いがした。
「もしもし」
「こずえ?」
「そう。いたのか。電話しても留守だから」
「食事に出てたの」
と、智子は言った。「今、ちょうど戻ったら、鳴ってて。——こずえ、もう帰って来たの?」
堀内こずえは、一家で温泉へ行っていたはずだ。
「うん。うちは、智子んとこみたいに優雅に遊んじゃいらんないの」
「何言ってる」
と、智子は笑った。
「風呂へ入るぞ」
と、父の声が聞こえる。
「すぐ入れるわ」
と、母が答える。
父のあの言葉。——あの若い女。
あれは何だったのか?
「——もしもし、智子」
「ごめん。ちょっと……。ね、こずえ、お宅に泊りに行ってもいい?」
「いいよ。いつ?」
「明日の夜」
と、智子は言った。
「うん、大丈夫だと思うよ」
と、こずえが言った。
「ね、こずえ」
智子は、周りを見回し、「こずえはうちに泊りに来ることにして」
「——何のこと?」
「いいから。ともかく、明日会って話す」
「智子——」
「心配しないで。ちょっとね、冒険してみたいの」
「いやよ、退学になるようなことは」
と、こずえが言った。
「大丈夫。そんなんじゃない」
「本当ね?」
「信用しなさい」
「うーん……。ま、いいか」
と、こずえは言った。「じゃ、お互いにってことでね」
「そう。夕方会って、何か食べよう。どこにする?」
——智子も、自分がとっさにとんでもないことを考えていると知っていた。
父と、あの女の話。あれが忘れられなかったのである。
明日の夜、十二時。Sホテル。——あれは何のことだったのか。
ただごとでないのは、父の口調からも、察しがついた。
そして、あの若い女の言ったこと。
「命は惜しいもの」
——冗談という口調ではなかった。
父がずっとこっちにいることと、何か関りがある。智子はそうにらんでいた。
こずえを巻き込むのには、少し後ろめたさがあったが、一人で夜の十二時に出歩いていては、目につくだろう。
ともかく、こずえにある程度話をして、力を貸してもらう。——智子は、妙に昂《こう》揚《よう》した気分だった。
あのFAXが、じっと大人しくしていても、知っている人間がいるのだから、と智子を開き直らせたのかもしれない。
智子は、母に、
「明日の夜、こずえの所へ泊りに行っていい?」
と、声をかけた。
母は、もちろんだめとは言わない。
智子は二階へと駆け上った。——明日の夜、どんな格好でSホテルに行くか。
今は、そのことだけを考えている……。
「気は確か?」
と、堀内こずえが言った。
「いやなら、帰っていいよ」
と、智子は言った。
「今さら帰れる?」
と、こずえは顔をしかめて、「もう十一時半だよ」
「じゃ、付合うのね」
「しようがないなあ!」
こずえは、ホテルのコーヒーハウスの中を見回して、「でも、こんな時にね、凄《すご》い」
——都心のホテルには、深夜まで開いている店が一つはある。
このコーヒーハウスも、午前二時半まで開いているのだ。
二人の席は少し奥だが、ロビーはよく見える。——もちろん二人とも少し大人っぽく見えるようなスタイルで、たとえ知った人間がいても、すぐには気付くまい。
「——お父さんが、どうして?」
と、こずえは言った。
「分んない」
と、智子は首を振った。「ともかくね、こずえ。いつか話せるときが来たら、ちゃんと話す。待ってて」
「分ったわよ」
と、こずえが笑って、「まさか、智子が男を引っかけて遊ぶとは思わない」
「そりゃそうよ」
「大体、引っかからないよ、誰も」
「何よ、それ」
二人は「夜食」と称して、ラーメンを食べていた。——もちろんホテルの中である。安くはない。
「十一時四十分か」
何が起ろうとしているのか、もちろん智子にも分らない。ただ、それと父が、何かつながっている。
それを知ることは、怖くもあり、好奇心を刺激されることでもあった。
「——あ、女が一人」
と、こずえが言った。
「違う。もっと若いよ」
「そう……。美人?」
「割とね」
二人はラーメンを食べながら、おしゃべりは絶えなかった。
こずえの行った温泉での出来事など、話の種は豊富だ。毎日会っていても、電話では一時間でも平気でしゃべれる。何日も会わずにいれば、ましてやである。
「また来た」
と、こずえ。
十一時五十二分。智子は、人を捜している様子の女の姿に目をやった。
ロビーは、さすがに人もいない。女は時計を見て、少し苛《いら》立《だ》っている様子で、ソファに座る。
「あれだ」
と、智子は言った。「服が違うけど、間違いない。あの女よ」
こずえが黙っているので、
「こずえ、どうしたの?」
「あの女の人……」
と、こずえが目をパチクリさせている。
「こずえ、知ってるの?」
「うん」
と、肯《うなず》くと、「友だちのお姉さん。そう、智子、知らないね。でも——間違いない! あんな派手な格好してるけど」
「へえ……」
「今、うちの大学生よ」
こずえの言葉に、智子はびっくりした。
「本当?」
「確か……三年生くらいじゃないかな」
と、こずえは言った。「でもショック! 真面目な人なのに」
男と待ち合せて……。何をするか、見当はつく。
もし——その男が、父だったら。
智子は、もうすぐ十二時になる時計へ目をやりながら、不安に駆られた。
来るんじゃなかった。
——もう遅いけれども、そう思ったのである。