「じゃ、またね」
と、こずえが手を振る。
「バイバイ」
智子は、こずえを駅まで送って来たのである。
友だちたる者、別に用事はなくても、玄関で「さよなら」というわけにはなかなかいかないものだ。
ついつい、こうして出て来てしまうのだ。
駅前で別れて、智子は、真直ぐ帰るのもしゃくで、マーケットに入ってみた。
何か欲しい物があるというわけじゃないのだが、文房具とか、キャラクターグッズの棚は、見ているだけでも楽しい。
歩いている内に、何か買いたい物に出くわすかもしれないし……。
智子は、棚の間をぶらぶらと歩いて行った。
——春休みというせいもあるだろう。小学生、中学生らしい子が多い。
何人かずつ連れ立って、買物をしている。
——楽しそうだ、と思った。
私にもあんなころがあったんだわ、などと考えて、自分で笑っている。
棚の端を回ると、少し奥まった所に、小学生の女の子が立っていた。たぶん——四年生か五年生。可愛いメモ帳を手にとって見ていたが、棚へヒョイと返して——いや返したように見せて、そのメモ帳は手の中におさまっていた。その手を後ろへ回すと、持っていたバッグの中へストンと落とす。
その鮮やかさに、一瞬、智子は目を疑った。
万引きか。——それにしても、見るからに真面目そうな、ごく普通の女の子である。
その女の子は、歩き出そうとして、目の前の智子に気付いてハッとした。
「だめよ」
と、智子は言った。「棚に戻しなさい」
女の子は、ジロッと智子をにらんだ。
「何のこと」
とぼけている。——智子は呆《あき》れた。
「見てたのよ。お店の人には言わないから、返しなさい。早く」
「関係ないでしょ」
と、言い返して来る。「何の証拠があるのよ」
「何ですって?」
智子もムッとした。
しかし、騒ぎを起こしたくはない。少し厳しい目で女の子を見つめて、
「いい? 騒ぎになれば、お宅にも連絡が行くのよ。そのメモ帳は値札がついてて、お店の人が見れば、お金を払ってないことはすぐ分るわ。じゃ、お店の人を呼ぶ?」
女の子はじっと智子をにらんでいる。
それは、智子がたじろくほどに、憎しみを感じさせる視線だった。
「いらないや、こんなもの」
バッグから、メモ帳を取り出すと、女の子は、智子に向ってそれを叩《たた》きつけると、タタッと足早に行ってしまった。
智子は、重苦しい気持で、その場にしばらく立っていた。あれが小学生の目だろうか。
怒りよりも、悲しくなってくる。
メモ帳を拾い上げると、智子は棚へ戻そうとして、少し汚れてしまっているのを見た。
ためらったが、自分で買うことにした。そうせずにはいられなかったのである。
レジで、そのメモ帳を出すと、
「あ、少し汚れてますから」
と、レジを打つ女の子が気付いた。
「いいんです」
「でも——」
「それがいいんです。汚れてても、構いません」
と、智子は言った。
「そうですか?」
レジの子が、不思議そうに智子を見て、レジを打った——。
マーケットを出ると、智子はゆっくり歩き出した。
少し曇っていたが、まずは穏やかな日《ひ》和《より》である。時間が中途半端なのか、道を行く人は多くない。
——突然、誰かがすぐそばに立ったのに気付く。
「見ていたよ。真面目じゃないか」
と、その男は言った。「真面目な優等生、小西智子君か」
智子は、目の前のその男を幻かと思った。
山神が立っていたのである。
長い時間だったか。それとも、ほんの数秒か。
ともかく二人は、道に立って向き合っていたのである。
「ゆうべ会ったね」
と、山神は言った。「もっとも、あのとき、僕はまともな状態じゃなかったけど」
「山神先生——」
「怖がるなよ」
と、山神は笑った。
その笑いが、いつもと変らないのが、不気味である。
「警察が——」
「知ってる。歩こう」
山神は、智子の腕をとって歩き出した。
智子はまだこれが現実なのかどうか、と疑っていた。
「立派なもんだ」
と、山神は足早に歩きながら言った。
逃亡犯という感じではない。服も変えているし、ひげもきれいにそってある。
「万引きの子の投げつけたノートを買ってやる、か。——罪滅ぼしかね」
「何のことですか」
と、智子は言った。
「決ってるだろ。片倉先生を殺したことの、さ」
山神の言葉に、智子の顔からサッと血の気がひいた。
「知ってるんだよ」
と、山神は言った。「君があのマンションから駆け出して行くのも見た。雨の中をね」
智子は、否定しなかった。頭から否定してしまえばすむことだ。
しかし——言葉が出て来なかった。山神がしっかり腕をつかんでいる。その恐怖もあったが、事実を否定するのは、辛《つら》いことだった。
「君は真面目だな」
と、山神は言った。「分ってる。自分のしたことで苦しんでるね」
「私……あのときは……」
「知ってるとも」
と、山神は肯《うなず》いた。「——まあ、かけて話そうじゃないか」
山神は、人のいない小さな公園の中へ智子を連れて来ると、ベンチに座らせ、自分もぴったりと身を寄せて座る。智子は反射的によけようとした。
「心配するな」
と、山神は言った。「僕は片倉じゃない。君のような子に手は出さないよ」
「じゃあ……知ってたんですか」
「期待してたってとこかね、正確には」
と、山神は言った。「君のことを片倉が誘ったのを知ってね。僕には分っていた。君がどうなるか。片倉があの手で、女の子を何人もものにしているのも、知っていた」
智子は、黙って山神の話を聞いていた。
「——僕はね、あの雨の日、片倉のマンションの表で、車を停めて待っていた。君が入って行くのが見えた。赤い傘を、ロビーの隅の傘立てへ入れてね」
赤い傘……。山神だったのか、あのFAXを送ってよこしたのは。
「君が、片倉の部屋に入る。——たぶん三十分もすりゃ、片倉は君を手ごめにしているだろうと思った。カメラを用意してね、待ってたんだ」
「じゃあ……私が先生に——」
「暴行されている現場写真をとる。これで、片倉の首根っこをにぎってやれる。そうだろ?」
「ひどい人ですね」
と、智子は山神を見た。
「片倉ほどひどくない。違うかね?」
と、山神は笑って、「ともかく、カメラを手に、ころあいを見はからってると、君が突然飛び出して来た。傘も忘れて飛び出して行く。——やられたか、と思った。遅すぎたかな、とね。しかし、こんなに早く君を帰すだろうか、と思ったんだ」
「じゃ——」
「そう。僕は中へ入った」
「でも、鍵が……」
「ちゃんと合鍵は作ってあったさ。健康診断で、片倉が上着を脱いで、そのポケットにキーホルダーを入れていたのでね。そのとき、そっと型をとった」
山神は、むしろ愉《たの》しげにしゃべっている。
なぜだろう? 智子には分らなかった。山神は自分が手配されていることを、知っているはずなのに。
「片倉の部屋へ入って、びっくりしたよ」
と、山神は言った。「片倉が死んでるじゃないか! あの図々しく生きていて、とても死にそうもなかった男が」
「あれは……事故だったんです」
と、智子は言った。
「灰皿で殴りつけたのも?」
山神は、ちょっと笑った。「まあいい。ともかく、君は奴《やつ》を殺してくれた。しかも、片倉にしてみりゃ自業自得だ。同情することもない」
智子は、ふと気付いて、
「じゃあ……指紋を拭いたのは——」
「そう。君だって、あんな奴のために少年院なんていやだろ? だから、ていねいに指紋を拭き取ってあげた」
智子は、大きく息をついて、
「山神先生。何のために私をこんな風につけて来たんですか?」
と、言った。
「簡単さ」
と、山神は言った。「しばらく身を隠さなきゃいけない。金がいるんでね。君から都合してもらおうと思ったんだ」
「お金なんて——」
「君の家は金持だ。ないことはないだろ?」
智子は、じっと山神を見つめて、
「山神先生。ゆうべのあの——田代さんって女子大生。先生が殺したんですか」
「違う違う」
と、山神は首を振った。「そんな真似はしないよ。僕ははめられたんだ」
「はめられた?」
「そう。——片倉はね、自分が女子学生に手が早かっただけじゃない。女子学生にアルバイトをさせて、方々にコネを作っていた」
「どういうことですか?」
「つまり、コネをつけたい政財界の大物に、女の子を紹介するのさ。もちろん金にはならない。女の子はこづかいを稼いだろうがね」
「売春ですか」
「まあ、古い言葉でいえばそうだ」
と、山神は肯いて、「一方で片倉は、そのコネで方々の役員をやり、甘い汁を吸っていた。ところが片倉が死んで、そのお偉方はあわてた」
「自分の名前が出ると……」
「そう。社会的地位のある名士ばかりだ。女子大生を金で買っていたと分れば、命とりになる」
「片倉先生の所に、そんな証拠があったんですか」
「どうかね。それほどうかつな男じゃないと思うが。——ともかく、それに絡《から》んでいたのがあの田代って子だ。僕はあの子に呼ばれていた。部屋へ行くと、飲物をすすめられて……。それに何か薬が入っていたんだ。カーッとして、何も分らなくなった。そして、やっと我に返ると、あの子が血まみれで倒れていて、若い男が、ホテルの奴を電話で呼んでいた。自分の両手に血がついているし、これは俺がやったと思われるな、と……。それで逃げ出したのさ」
智子は、どうしたものか迷っていた。
「とりあえず、今持ってる金をくれるか」
と、山神は言った。
拒むわけにはいかない。智子は財布ごと山神へ渡した。
「中身だけもらおう。——一万円札があるじゃないか。これで一日二日は安ホテルでも泊れる」
山神は財布を智子へ返すと、「いいかい。君が片倉を殺した。僕はそれを黙っているんだ。その代りに君が僕を助けてくれてもいいと思うがね」
「じゃ、あの田代さんを殺したのは、誰なんですか」
山神は肩をすくめ、
「見当はつくが……。まあ言わずにおこう」
と、言った。「さあ、君は家へ帰って、何とか金をつくってくれ」
「いやだと言ったら?」
「言わないさ」
山神はギュッと智子の肩をつかんだ。「君は真面目な子だ。片倉を殺したと言われるのはいやだろ? 日本は、正当防衛が認められにくい。しかも、君はすぐに届け出ず、隠していた。言い逃れはできないよ」
智子は、何も言わなかった。
山神は立ち上って、
「じゃ、こっちから連絡するよ、明日にでもね」
と言うと、公園から足早に出て行き、素早く左右を見回して立ち去った。
智子は、しばし、ベンチから動けなかった。
山神の逃亡を助ける? とんでもない話だ!
しかし……だからといって、山神を告発できるだろうか。あの〈赤い傘〉は、まだあのマンションの子が持っているのだ……。
智子は、ため息と共に立ち上り、ゆっくりと歩き出していた。
「——田代百合子は、どうして殺されたの?」
と、由布子は訊いた。
「知らんよ」
「でも、誰かがやったわけでしょ」
「山神さ。それでいいじゃないか」
「気になるじゃない」
小野由布子は、ベッドで裸の体にシーツを巻きつけて、伸びをした。
「——ともかく、これでけりがつく」
「そうかしら」
「どうしてだ?」
「あの手紙で、山神が犯人と思われたとしても、もし、山神にアリバイがあったら? あり得ることでしょ」
「まあ、そうだな」
男はワイシャツを着て、ネクタイをしめている。
「でも——まあいいか。そこまで心配しても仕方ないものね」
——ホテルの部屋は、薄暗かった。
窓がないので、昼も夜もない。ただ、愛し合うために来るだけだ。それで充分なのである。
「もう行くの」
と、由布子が言った。
「仕事がある」
「いつ、発つの?」
「まだ分らん。飛行機の予約もあるしな」
と、小西邦和は言った。
「出発までに、また会ってね」
と、由布子が身をのり出すと、
「そうしよう」
小西は素早く由布子にキスして、「じゃ、行くよ」
と、上着を着た。
「どうぞ。私、もう少しのんびりしてから行くわ」
「こづかいだ」
小西が一万円札を何枚か、灰皿の下へ置く。「じゃあ」
小西が出て行くと、由布子は欠伸《あくび》をして、それからベッドのわきの電話へ手を伸したのだった。