何もここにいる必要はない。
そうだわ。——智子は、狭苦しいビジネスホテルの一室に、もう三十分以上、一人で座っていた。
山神の借りた部屋である。智子は、いつでも出て行こうと思えば出て行けたのだ。
別に智子は縛られているわけでもないし、ここを出たら捕まってしまうということもない。それでも、山神に言われるままにこの部屋に残っていたのは、智子が片倉教授を殺したことを、山神が知っているから。それだけのためなのである。
山神はどこへ行ったのだろう? 智子をここに残して、どうするつもりなのだろう? ——分らないことが、智子を怯《おび》えさせた。
と、カチャッとロックの開く音。
ギクリとして振り向くと、山神が入って来た。
「やあ、ちゃんとおとなしくしてたか」
と、山神は言った。「いい子だ」
「もう帰らせて」
と、智子は言った。「先生がここにいることは、誰にも言いません」
山神は、出て行ったときとどこか様子が違っていた。智子がここへ来たときの、どこか投げやりな様子。妻の死を聞いたときに、この狭い部屋を歩き回っていた様子。どっちとも違う。
「そうか。——そうだろう」
と、山神は肯いた。「君は真面目な子だ。たとえ悪魔との約束でも、ちゃんと守る子だな。しかし、悪魔の約束なんてあてにならないぜ。〈マクベス〉のようにね」
智子は、〈マクベス〉と聞いて、ふと思い出した。
「山神先生、なぜあのときに〈マクベス〉のセリフを口にしたんですか」
「何のことだね?」
憶えていないのだろうか。——智子が、あのホテルで田代百合子の死体を発見したときのことを話すと、
「僕がそう言ったのか。『眠りを殺した。もう眠れん』と」
「そうです。これ、〈マクベス〉のセリフでしょう。マクベスが王を殺したときの?」
「そう。その通りだ」
山神は窓の方へ歩いて行って、表を眺めた。「マクベスは野心に負けた。——血まみれの王の死体。その血が、良心のようにマクベスにつきまとって、離れなかったんだ」
山神は智子の方を振り向いた。
「きっと、クスリで混乱していても、あの子の血だらけの死体を見ていたんだろうね。そして〈マクベス〉の一場面を思い出した」
山神は、ちょっと笑って、「君はどうだ? 片倉のことを思い出すかね」
智子は、つい目をそらしていた。
「あれは……片倉先生が悪いんです」
「そうだ。しかしね、人の命を奪うというのは、それ以外のこととは全然別だ。たとえ正当防衛でも。——今はそうでもないかもしれないが、君も後になって『眠れなくなる』かもしれないね。眠りを殺したんだよ、君は。片倉を殺したときに」
山神は面白がってでもいるように言った。
「——もう、帰ります」
と、智子はしっかり山神を見つめて言った。「うちで心配しますから」
「心配ならもうしているかもしれないよ」
「どういう意味ですか」
「君はここから出て行かない。君は『人質』だからな」
山神の目は笑っていない。智子はゾッとして、足がすくんだ。ドアに目をやると、
「逃げようとするな」
山神が早口に言った。「やめてくれ。君のことを殴ったりしたくない。君のことを僕は気に入ってるんだ。本当だ」
山神はドアの方へ歩いて行くと、チェーンをカチャッと音をたててかけた。
「頼むよ、おとなしくしてくれ。——君は片倉にやられなかったんだろう? ということは、まだ男を知らない。そうだね」
「何のこと……」
「君を力ずくでおとなしくさせようとすれば、僕も男だ。君をものにしたくなるかもしれない。——そんなことはしたくない。おとなしく、言われた通りにするんだ」
山神に追い詰められて、智子は壁に背後をふさがれた。
膝が震える。——どうなるんだろう? ああ神様!
「そうだ。おとなしくしろ。さあ」
山神は上《うわ》着《ぎ》のポケットからロープをとり出した。「手を出すんだ」
「いやです……。やめて」
「殴《なぐ》っておいて、縛ることもできる。どっちがいい?」
智子は、目を閉じた。猫ににらまれたネズミのように、震えていることしかできない。
そして、智子は両手を合せて、そろそろと山神の方へ差し出した……。
ルルル。——ルルル。
呼出し音が聞こえる。数秒ののち、相手が出た。
「もしもし」
父の声だ。智子は、
「お父さん。私——」
と言いかけた。
「智子! 大丈夫か? どこにいる?」
山神がパッと受話器を智子から離して、
「小西さん。ちゃんと聞いたね? 間違いなく、娘さんは預かってるよ」
と、言った。「——ああ、心配するな。手荒なことはしちゃいない」
智子は両手首をしっかりと縛り合され、冷暖房の太いパイプにつながれていた。自分の力でこれを解くのは不可能だ。
「——分ってるはずだよ、あんたには」
と、山神は言った。「いいかい。俺はうまくはめられて追われてる。まずそっちのけりを、ちゃんとつけてもらわなくちゃね」
チラッと智子の方を見る。
「——いいだろう。——分った。いいかい、妙なまねはしないでくれよ」
山神は、そう言って、智子に受話器を当ててやった。「何か言いたいことがあれば、言いな」
「お父さん……」
「智子。心配するな。ちゃんと助け出すからな」
「うん。私は何もされてないわ。大丈夫」
また山神が代って、
「じゃあ、後で会おう」
と言うと、電話を切った。
智子は、ゆっくりと息をついた。——山神は、カーテンを閉めると、明りを点けた。
沈黙の中で、智子は問いかけたい言葉を、のみ込んだ。知りたくない、とも思いつつ知りたかった。
分ってるはずだ、あんたには……。
山神の言葉が、まだ耳の中で響いていた。
「何も訊《き》くな」
山神の言い方は、思いがけずやさしかった。「いずれ分る。急いで知ることもないさ」
「山神先生……」
山神はちょっと笑った。
「まだ『先生』をつけてくれるのかい」
「先生。——何をするつもりなの? 恐ろしいこと? やめて下さい。これ以上……」
「三人が死んだ。いや、久里子を入れれば四人……。久里子も殺されたようなもんだ」
山神は小さなベッドに腰をかけて、智子を見下ろした。「なあ。——君も、とんでもない春休みになったもんだね。しかし、君をどうこうするつもりはない。人質の役さえ、つとめてもらえばね」
父が……。父が何をしたのか。
訊きたかったが、恐ろしかった。——あの田代百合子をホテルへやったのが父であることを考えれば、父が何か係わり合っていたことは察しがつく。そして、片倉の死を聞いたときのあの驚きようも……。
しかし、訊くのが恐ろしかった。もし、自分が想像しているようなことだったら……。
「じゃ、僕は出かける。——トイレは大丈夫?」
智子は黙って肯《うなず》いた。
「おとなしくしててくれ。いいね」
山神は、念を押すと、部屋から出て行った。
智子は、パイプに手首の縄を結びつけられてはいたが、声も出せるし、その気になれば、人が廊下を通りかかったとき、助けを求めることもできた。
山神もそれは分っていただろう。
その上で、智子を残して行ったのだ。
——真実を知りたかった。怖くはあるが、いずれ知らずにいられないのだ。
山神の話の通りなら、片倉は女子大生を、各界の有力者にとりもっていたのだ。その中に父、小西邦和の名があることは、たぶん間違いないだろう。
しかし、それと田代百合子の死がどう結びつくのか。そして三井良子が殺されたことは?
智子には見当もつかなかった。——山神は父に会いに行ったのだろうか? どんな答えを持って帰るだろうか。
やがて時刻はほの暗く黄昏《たそが》れてくるころだった……。
夜が訪れて、何時間か過ぎた。
縛られた手首が痛んだが、動かすと却《かえ》ってひどくなるので、我慢した。
トラベルウォッチがナイトテーブルにのせてある。時刻を見ると、もうすぐ八時か……。まるで丸三日も夜だったような気さえする。
山神と父との話はどうなったのだろう?
父は身代金でも払うつもりなのか。山神の要求は、お金だけではあるまい。いや、もし山神が犯人でないのなら、逃げ回る必要もないわけで、特に金を要求する理由もない。
こんな目に遭わされているというのに、なぜか智子は山神の言葉を信じている自分に気付いた。なぜだろう?
すると——廊下に足音がした。
このドアの前だ。山神が戻ったのだろうか?
しかし、それにしては、鍵を開けるのに少し手間どっていた。——やっとドアが開いて、廊下の明りが中へ射し込んだ。
男のシルエットが浮かび、同時に智子はまぶしくて目をそらした。
「良かった! 無事かい?」
ドアが閉り、明りが点くと、思いがけない人間が立っていたのだ。
「内田さん!」
内田三男が、智子のそばへ来てかがみ込む。
「ひどいな……。今、ロープを切る」
内田が登山ナイフを手に、智子の手首の縄を切る。しびれた手は、血が再び巡り始めると、チリチリと表面が刺されるように痛んだ。
「自由に動かない」
と、智子は両手を開いたり閉じたりして言った。
「けがしてないか?」
と、内田が訊《き》いた。
「ええ……。手首がこすれただけ。でも、どうしてここが?」
「話は後だ。——さ、立てる?」
「何とか……」
ずっと床に座り込んでいたせいで、腰が痛い。何だか年寄りみたいだわ、と苦笑した。
「山神が戻らない内に出よう」
と、内田が言って、智子の手をとった。
「ええ……」
内田はドアを開けようとして、
「待って。——足音だ」
と、低い声で言うと、覗《のぞ》き穴に目を当て、舌打ちした。「戻って来た」
「どうしたらいい?」
内田は一瞬、迷っている様子だったが、
「僕に任せろ。——君、バスルームへ隠れて。早く!」
智子はバスルームへ入って、ドアを閉めた。もちろん明りを点けないと真暗である。
山神が帰ってくる。内田が待ち構えている。
——内田は若い。山神はたぶんかなわないだろう。
しかし、智子はなぜか不安だった。どこかが間違っている、という気がした。
そっと、バスルームのドアを細く開け、目を当てて覗くと、ちょうど入口の辺りが目に入った。
内田が、ドアのわきの壁に体をピタリとつけて、息を殺している。部屋は暗いが、ベッドのフットライトが点いていて、その光がドアの周囲をうっすらと照らしていた。
暗がりで目が慣れているせいだろう。智子の目は内田が緊張している表情を、見ることができた。
足音が部屋の前で止る。鍵をさし込む音。そしてドアのノブが回る。
智子は、内田の右手に白いものが——智子の手首のロープを切ったナイフが握られているのを見た。
ドアが開く。
「戻ったよ」
と、山神が言って、手で明りのスイッチを探る。
カチッという音。部屋が明るくなる。
山神が、切られて床に落ちているロープに目を止めた。息をのんで後ろ手にドアを閉め、智子を縛っておいた場所へと歩いて来る。
内田がナイフを手に山神の背後へ迫ると、刃を一旦自分の脇腹まで引く。山神は全く気付いていない。
ほんの数秒間の出来事——。
「いけない!」
智子は、我知らず叫んでいた。「先生、危い!」
内田にとっては、思ってもみないことだったろう。ナイフを持つ手が止った。
山神が、振り向きざま、内田へ体ごとぶつかって行った。智子は思わず両手で目を覆《おお》った。二人がもつれ合って床に転がる音。
やめて。——やめて、もうやめて!
固く目を閉じ、両手で耳をふさいで、智子は強く首を振った。
何秒か。何十秒か。
肩に手が触れるのを感じた。目を開けると、山神が、服は裂《さ》け、口の端から血を出して、ひどい状態で息を弾ませている。
「先生……」
智子はやっと両手を耳から離した。
内田が床に倒れて、動かない。
「——殺したの?」
「いや、気を失ってるだけだろう」
と、肩で息をして、「僕は見かけほど弱かないんだ」
と、言った。
「しかし……どうして僕を助けたりしたんだ?」
「よく……分りません」
智子は、考えたくなかった。分っていても、言いたくなかった。
何て馬鹿なことをしたのだろう。せっかく助け出してくれるところだったのに。内田が、もしかしたら殺されていたかもしれないのだ。
しかし——智子は、内田がナイフを手に山神の背後に近付いていくのを見て、直感的に悟ったのである。内田は初めから山神を殺そうとしていたのだと。
そして、そのときの内田の表情は、智子に三井良子のことを語ってくれたときのそれとは別人のように、無表情で、冷ややかだったのである。
おそらく、内田は智子が信じていたような青年ではないのだ。そう直感したとき、智子は思わず声を上げていたのである。
「山神先生」
と、智子は真直ぐに山神を見つめて言った。「本当に、人を殺していないんですね」
「僕が?——やっていない、と言っても、それが本当かどうか君には分らないよ」
「本当なら本当と言って! 信じますから」
智子の激しい口調に、山神は当惑した様子だったが、やがてゆっくりと肯《うなず》いた。
「君に嘘《うそ》はつかない、命の恩人だからな」
と、ちょっと息をついて、「僕は一人も殺しちゃいない」
「分りました」
と、智子は肯いた。「じゃ、本当のことを教えて。それがどんなに聞いて辛《つら》いことでも、知らないで苦しんでいるよりましです」
「——そうか」
山神は、少し間を置いて言った。「じゃあ、一緒に来てくれるか」
智子は、「自分を誘《ゆう》拐《かい》した殺人容疑者」と、行動を共にすることになったのだった。