ルミは、赤い傘を振り回しながら、表からマンションの中へ入って来た。
目の前に誰か立っている。——女の人だ。
大きな帽子を、少し目深にかぶっているので、顔がよく見えなかった。
ルミは傘を振り回すのをやめた。前に、マンションの人の服に雨の水が飛んでしまったことがあって、おじいちゃんに叱《しか》られたからだ。
まあ、おじいちゃんが怒っても、ルミは大して怖くない。叱るといっても、おじいちゃんは本気でルミをぶったりはしないからだ。
でも、一応ルミも泣いたりするし、やはりそういうことはしたくない。
でも、その女の人は、ルミの前に立って、じっとルミのことを見下ろしていた。——何だろう、この人?
「今日は」
と、その女の人が言った。
「今日は……」
と、ルミも答えたが、子供の鋭い本能は、この女の人が、ルミに何か言おうとしている——それも、うまくだましてやろうという気持でいる、と教えた。
ルミは警戒心を抱いた。
「ルミちゃんでしょ」
と、女の人は言った。
どうして名前を知ってるんだろう? ルミはますます不安になった。
「お願いがあるの。その赤い傘、おばちゃんにゆずってくれない?」
傘?——この傘?
どうしてみんなこの傘をほしがるんだろう?
「ルミのだよ」
と、傘を後ろへ回して隠す。
「知ってるわ。取っちゃおうっていうわけじゃないのよ」
と、女の人は言って——まるで手品みたいに、真新しい、可愛いアニメのキャラクターのついた傘をルミの前に開いて見せた。
「——可愛いでしょ?」
「うん」
と、ルミは肯《うなず》いた。
「よかったらあげるわ。これと、その赤い傘と、とりかえっこしましょ」
その人はルミの方へかがみこんで、言った。
「それならいいでしょ?」
ルミは、もうちょっとで、「ウン」と肯くところだった。でも——おじいちゃんは当然気が付く。
そして、何て言うだろう? いつもおじいちゃんは言っている。
「人からものをもらっちゃいけない」
って。
「——ね、いいでしょ?」
女の人がくり返す。
「おじいちゃんに訊いてみる」
と、ルミは答えた。
「そう。——でも、大丈夫よ。こっちの傘の方がずっと高くて、いい傘なのよ。とりかえても、怒られたりしないわ」
「でも……。それなら、どうしてとりかえるの?」
ルミの言い方が、女の人を苛《いら》立《だ》たせたようだった。
「そんなこと、ルミちゃんと関係ないでしょ」
と、そっけない言い方になって、「さあ、その傘をちょうだい!」
「いやだ!」
と、ルミは後ずさった。
「じゃあ……。これで、ルミちゃんの好きなものが買えるでしょ」
女の人の手に、千円札があった。——お金?
ルミの目が輝いた。おじいちゃんは、ルミに決して「こづかい」を持たせないのだ。
「小さい子供に、金はいらん」
と、いつも言っていた。
ルミは、それがいつも不満だった。友だちは、クミちゃんだってマキちゃんだって、いつも二百円も三百円も持ってて、ジュースとか買ってるのに……。ルミはじっと我慢しなくてはならないのだ。
それが——千円! ルミにとっては、目の回るようなお金だった。
「この傘と、千円。——ね?」
差し出されたお金にルミは手を出そうとした。でも……。
「おじいちゃんに叱られる」
と、ルミは言った。
「見せなきゃいいでしょ。ルミちゃんのお金なんだから」
と、女の人は早口になって、「さあ、その傘をちょうだい」
ルミはまだためらっていた。しかし、新しい傘と千円札の力は大きかった。
そろそろと赤い傘を女の人の方へ差し出そうとすると——。
「どうしたんだ、ルミ?」
受付けのカウンターに、おじいちゃんが出て来たのだ。
ルミはパッと赤い傘を引っ込めると、タタッと駆け出した。
「ただいま!」
と声を上げると、奥へ入って行った。
女は、もうロビーから表に出ていた。
おじいちゃんは、何だかポカンとして、空になったロビーを眺めていた……。
「由布子!」
聡子は、足早に行きかける由布子の後ろ姿に呼びかけた。
「——聡子。どうしたの?」
と、小野由布子は、振り返って言った。
「話があるの」
と、聡子は言った。
「出かけるの。約束があるのよ」
「でも——。見たでしょ、TV?」
由布子は、ちょっと肩をすくめて、
「山神先生の奥さん? 自殺したんですってね」
と、由布子はそっけなく言って、「じゃ、一緒に歩こう。歩きながらでも話せるわ」
聡子は、由布子の口調に、全く知らなかった一面を見たような気がした。
ともかく、一緒に歩き出す。
穏やかな日だった。——聡子の重苦しい気持と正反対だ。
「それで?」
と、由布子は言った。「聡子としては、心が痛むわけね」
「由布子、平気なの?」
「だって、仕方ないでしょ。何も私たちが殺したわけじゃなし」
「でも、あの手紙のせいで——」
由布子は肩をすくめた。
「あれはあれよ。中身は正しかったんだし」
「そうかしら」
由布子はチラッと聡子を見て、
「どういう意味?」
「山神先生が三人も殺したとは思えないわ。それに、片倉先生と山神先生の奥さんが関係があったなんて、想像できない」
「変な人ね」
と、由布子は苦笑した。「あんなに片倉先生の犯人をあばいてやるって、張り切ってたのに」
「そうよ」
「じゃ、何が不満なわけ?」
「由布子」
聡子は足を止め、由布子の腕をつかんだ。
「何よ」
「あなた、片倉先生のことが好きだったんじゃないの? それなのに、妻子のいる人と恋愛中?」
「いけない? 聡子にそんなこと言われる覚え、ないわよ」
と、由布子が言い返した。
「何か、他に目的があったのね。そうなのね?」
由布子が初めて動揺した。
「私、急ぐの」
と、歩き出す。
「待って!」
聡子は、足どりを速めて並ぶと、「——ゆうべ、私、山神先生の家へ行ったのよ」
「ゆうべ?」
「見付けて知らせたのよ、私が。奥さんが首を吊ってるのを」
由布子は聡子をびっくりしたように見つめた。
「その前、誰かが山神先生の家から出て行ったわ。庭で、すれ違った。暗くて分らなかったけど、誰かがあの勝手口から逃げて行ったの。もしかしたら、奥さんは自殺じゃないのかもしれない」
「それなら、何だっていうの」
「殺されたのかもしれないわ」
由布子は、少し青ざめた顔で聡子を見ていたが、
「——TVの刑事ものの見すぎじゃないの?」
と、笑って言った。
「由布子。あの庭へ勝手口から入れるってこと、誰に聞いたの?」
由布子はカッとした様子で、
「そんなこと、答える必要ないでしょ!」
と言い返した。「放っといて!」
「由布子!」
聡子は追いすがるようにして、「何なの、一体? あなたの本当の目的は何?」
由布子はキッとなって振り向くと、聡子をにらみつけたが、やがて皮肉っぽい笑みを浮かべると、
「どこまでついて来るの?」
と、言った。
「どこまでって?」
「ベッドの中まで一緒に来る? これから彼と会うけど」
聡子は真赤になった。
「まさか!」
「そうよね。ちょっとまずいわね。聡子と彼とじゃ」
聡子は、由布子の言い方が気になった。
「どういうこと?」
「だってそうでしょ? 父親と娘じゃ、恋人同士ってわけにはいかないものね」
——聡子は、由布子の言葉の意味が、しばらく分らなかった。
「由布子……」
「じゃ、失礼。私のこと待ってるから。あなたのパパがね」
由布子は足早に行ってしまう。聡子は、ただ呆《ぼう》然《ぜん》と見送って——もう後を追おうとはしなかった。
「もしもし」
智子は、重い口を開いた。
「待ってたよ」
と、山神の声が答えた。「今、どこにいる?」
「——ホテルの前です。公衆電話」
「何だ。じゃ、上って来いよ。せっかくそばまで来てるのに」
智子はためらった。山神がちょっと笑って、
「心配するな。僕の趣味は片倉とは違う。何もしないよ」
と、言った。「部屋は分ってるね? じゃ、待ってる」
「あの——」
と言いかけて、智子はため息をついた。
もう切れている。
ボックスを出て、ホテルを見上げる。——新しいビジネスホテルで、フロントが無人である。
チェックイン、アウトも自動的に処理をするので、泊り客も顔を見られなくてすむ。昼間はラブホテル同様の使い方をされている、と聞いたことがあった。
仕方ない。——智子は、ホテルの中へ入って行った。
部屋はすぐに分った。ノックするより早く、ドアが開いた。
「待ってたよ」
山神は智子を促して、中へ入れた。
新しいからきれいだが、泊るだけ、という部屋で、狭い。
「——金は?」
と、山神が言った。
智子は、バッグを開けて、封筒をとり出した。
「これ……」
山神が引ったくるようにして、
「——これだけか」
「十万円あります。私の貯金、おろしたんです」
と、智子は言った。「うちのお金は無理です」
「そうか」
山神は、意外にあっさりと肯いて、「そりゃそうだろうな。じゃ、いただいとくよ」
と、ポケットに金をしまった。
「山神先生……。TV、見てないんですか?」
と、智子は言った。
「自分の顔なんか見たって、面白くもないからね」
「奥さんのことです」
「女房? 久里子がどうかしたのか」
山神はベッドにゴロリと寝た。——服は多少しわになっているが、ひげもちゃんと当ってあり、さっぱりした顔をしていた。
「奥さん……自殺したんですよ」
智子の言葉を聞いても、山神はよく分らないようだった。
「——自殺? 自殺、と言ったのか?」
「そうです。ゆうべ、首を吊って」
山神が起き上る。——笑みが消えている。自信ありげな表情も。
「久里子が——死んだ?」
と、呟《つぶや》くように言った。
「病院へ運ばれましたけど、手遅れで——」
「嘘だ!」
突然、山神が大声を出したので、智子はびくっとした。
「いや……。すまん」
山神は、ゆっくりベッドからおりると、「本当なんだな。本当に久里子は死んだんだな」
「本当です」
「そうか……。君がそんな嘘をついても仕方ない。——そうか」
山神は窓辺へ寄って、表へ目をやった。
ショックを受けている。それも少々のことではない。智子は、意外な感じを受けた。
「山神先生……」
と、智子は言った。「奥さんと片倉先生の間に、何かあったんですか」
山神はゆっくりと振り向いた。
「片倉と久里子? まさか!」
「でも写真が……」
「写真? 何の写真だ」
「二人のです。先生がとったんじゃないんですか」
「馬鹿言うな! どうしてそんなことするんだ? もし本当なら、写真なんかとらずに片倉をぶん殴ってやる」
山神の怒りは「本物」だと思えた。そうなると、写真は何だったのだろう?
「その写真を見たのか」
と、山神は、少し落ちついた様子で訊《き》いた。
「いえ……。でも警察へ届いたんです。匿《とく》名《めい》の手紙と一緒に」
「手紙?」
「先生が片倉先生を殺した、という内容の手紙です」
「そこに、女房と片倉の写真が?」
「ええ。同封してあったそうです」
山神は、何を考えているのか、狭い部屋の中を歩き回った。
智子は、山神が本当に写真のことを知らなかったのだと思った。しかし、姉と小野由布子が、写真を山神の部屋で見付けているのである。
どういうことなのだろう?
山神は、急に足を止めると、
「僕は出かける」
と、言った。「君、ここにいてくれないか」
「私が? どうしてですか」
「誰かにいてほしいんだ。証人としてね」
山神の口調は真剣そのものだった。