「智子さん」
と、やす子の声がした。「入ってもいいですか」
「ええ」
智子は、本から顔を上げて、ケーキと紅茶の盆を手に入って来るやす子を見た。
「おやつの時間ですよ」
「太っちゃうな」
と、智子は笑った。「ありがとう。——おいしそう」
智子はベッドに座ると、ケーキの皿を手にとって、食べ始めた。
「退屈ですね」
と、やす子が言った。
「そうね。——でも、これじゃ、ちっとも罰になってない」
「何も悪いことされてないんですから」
と、やす子は言った。「本当は停学だって厳しすぎるくらいですよ」
「仕方がないよ。人を殺したんだもの」
と、智子は言った。「本当は留置場か何かに入れられて、やす子さんに差し入れに来てもらおうとか思ってたのに」
「変なこと、楽しみにしないで下さい」
と、やす子は苦笑した。
——智子は、一応取り調べは受けたものの、「逃亡のおそれなし」ということで、家へ帰された。
もちろん、裁判が待っているが、父は、これ以上望めないくらいの弁護士を頼んで、必ず正当防衛を認めさせる、と張り切っている。しかし、一応事件が事件であり、学校側としては、智子を二週間の停学処分にした。
もっとも、友だちは、
「休めていいな」
などと呑《のん》気《き》なことを言っている。
智子の気持は、決して晴れなかった。自分がしたことだけは、告白した。しかし、結局、他のことについては、黙っていたのである。
——山神がただ殴って気絶させたつもりでいた内田も、実は頭を打って死んでいたのだ。
山神も死んでしまった今となっては、結局問題は「死者の名誉」だけということになってしまった。
「やす子さん……」
と、智子は言った。「あのとき、どうしてお父さんについて来たの? それに——」
「察しがつきません?」
と、やす子は微《ほほ》笑《え》んで、「もともと、旦那様とは男と女の仲だったんですよ」
「やす子さんが?」
「でも、こちらで働くようになってから、お嬢さんたちのことが気になって……。結局、ただのお手伝いということにしたんです」
「でも——知ってたんでしょ、私が……」
「片倉って先生を殺したことですか? はっきりしたことは分りませんでしたけど、何かあったな、ってことは分りました。あのマンションに行って、智子さんの赤い傘を見付けたんで、気が付いたんです」
「でも片倉先生のことをどうして?」
「聡子さんと話してらっしゃる様子を見れば見当がつきます。でも、あの赤い傘を何とか取り戻したかったんですけど、うまくいかなくて」
と、首を振った。「あれがなきゃ、智子さんがやったという証拠はないんですものね」
「自分でしたことの責任は取らなくちゃ」
と、智子は言った。「他の人は取らなくても、私はちゃんと取っておきたいの」
「偉いですね」
「そうじゃないわ」
ケーキを食べ終えて、皿を盆に戻す。「おいしかった。——私はね、眠りを殺したくなかったの」
「何です?」
と、やす子がキョトンとしている。
「いいの」
と、首を振る。
「あら、チャイムが——。奥様もお出かけですものね」
と、出て行こうとするやす子へ、
「伸代さん」
と、智子は呼びかけた。「——今度から、こう呼んでいい?」
やす子——いや、岡崎伸代は、ちょっと笑って、足早に出て行った。
智子が、紅茶をすすりながら机に向っていると、
「珍しく勉強してる?」
「——こずえ!」
堀内こずえが、いたずらっぽく笑って、
「却って学校より勉強が進むんじゃない?」
「入ってよ。どうしたの? 早いね」
「午後、自習。で、みんなさっさと帰って来た」
こずえは、ブレザー姿で入って来ると、「大学って、暇《ひま》ね」
と、カーペットに腰をおろした。
「智子、二週間くらい来なくても、ちっとも困んないよ、きっと」
「そうだといいけど。——裁判とかになると、また休むからね。少しはやっとかないと、勉強」
やす子が、もう一つ紅茶を運んで来てくれて、二人は、しばらく大学の話で時間を過した。
「——で、何もかも片付いたの?」
と、こずえが言った。
「片付きそうね。でも、分んないことが色々あるの」
と、智子は言った。「山神先生の奥さんも自殺かどうか。内田が殺したのかもしれない。それに、大体、山神先生を殺したのが誰なのか、分ってないのよ。私、内田かと思ってたんだけど……」
「でも、死んでたんでしょ」
「そうなの。——結局分らずじまいかなあ」
と、智子はカーペットにゴロッと横になった。
山神の妻と片倉の写真をとったのは、女子大の学生で、自分もホテルから出るとき、偶然見かけてシャッターを切ったものだった。それを小野由布子が知っていて、借りて利用したのである。
いずれにせよ、山神久里子と片倉の間に何かあったとしても、せいぜい一、二度のことだったろう。山神は全く気付いていなかったのだ。
「でもさ——」
と、智子が言った。「世の中には、人を殺して、誰にも分らずに暮してる人もいるんだね」
「そうだね」
と、こずえが肯く。「考えてみると、怖いね」
「うん……。でも、そういう人も、逃げられるわけじゃないのよ。警察には捕まらなくても、自分の中にあるものからは逃げられないんだから」
「良心、ってこと?」
「ちょっと違うかな」
と、智子は首を振って、「似てるけど、少し違う。正しいと思って殺したりさ、正当防衛とか、戦争とかで人を殺しても、必ず、残るものがあると思う。——『眠りを殺す』ってことね、要するに」
しばらくして、こずえが言った。
「眠れないこと、ある?」
「私? そうね。日がたって、今になってから何だか……。思い出すの。片倉先生殴ったときの手応えとか……。あれは一生忘れない」
こずえは、紅茶をゆっくりと飲み干すと、
「この前、ここに泊めてもらったでしょ」
と、言った。
「うん。それがどうかした?」
「送ってもらって、駅前で別れて……。私、智子に返すものがあったの、思い出して、こっちへ戻りかけたの。そしたら、智子と山神先生が目の前を歩いてて……。二人が公園でしゃべってるの、聞いちゃった」
智子は起き上った。
「こずえ……」
「それから、山神先生の後をつけてね、あのホテルも突き止めた」
こずえは、じっと明るい窓へ目をやって、続けた。「うちのお父さん——片倉先生の例の仕事、手伝ってたのよね」
智子は、唖《あ》然《ぜん》とした。中学校の教師でも手を貸しているのがいた、という山神の言葉を思い出す。
「じゃ……内田三男があのホテルへ来たのは——」
「私がお父さんに話したから」
と、こずえは言った。「だって、教師がそんなことでクビになったら、二度と働けないでしょ」
「そりゃそうだけど……」
「山神先生と智子のこと、ずっとホテルから尾《つ》けてたの、私。視聴覚教室の外で、話も全部聞いたわ」
「こずえ……。まさか——」
と言ったきり智子は動かなかった。
「そう。私が山神先生を刺したの」
こずえは、智子を挑むように見つめて、言った。「でも、私、眠ってみせるわ。いつまでも平和に」
——智子の部屋に沈黙が落ちて、それはいつまでも続いていた。