ともかく、目の回るような忙《いそが》しさだった。
その朝は、やたら、風《か》邪《ぜ》で休む者《もの》が多くて、その分の仕《し》事《ごと》が、全《ぜん》部《ぶ》、残《のこ》った者にかぶさって来た。
これがたとえば、従《じゆう》 業《ぎよう》 員《いん》数千人という大《だい》企《き》業《ぎよう》の中で、休みが五人というのなら、どうということもあるまいが、何しろ津《つ》田《だ》の勤《つと》めている小さな雑《ざつ》貨《か》の卸《おろし》売《うり》 会社は、十五人しか社《しや》員《いん》がいない。しかも、今年七十八歳《さい》の社長を含《ふく》めて、その人数である。
その十五人の中の五人が休んでしまったのだから、いかに影《えい》響《きよう》が大きいか、想《そう》像《ぞう》もつこうというものだ。
九時のチャイムが鳴るのにも、まるで気《き》付《づ》かなかった。八時五十分ごろから、次々に鳴る電話に出なくてはならなかったのだ。
もっとも、これがいつもの状《じよう》態《たい》で、ただ、電話を取る手が、まるで足りなかった、というだけなのだが。
あっという間に昼が近くなっていた。——これは誇《こ》張《ちよう》でも何でもない。津田の実《じつ》感《かん》であった。
入社して、既《すで》に五年たつが、こんなに忙《いそが》しい思いをしたのは、初《はじ》めてだった。二十八歳《さい》という若さで、何とか乗《の》り切《き》った——というのは、ちょっとオーバーな言い方になるかもしれないが、ともかく、そう言いたくもなる状《じよう》 況《きよう》だったのである。
あと十分で昼休みだ。津田は、次々に伝《でん》票《ぴよう》を整《せい》理《り》しながら、一秒《びよう》足らずの間に、チラリと壁《かべ》の時計に目を走らせた。
畜《ちく》生《しよう》、昼のチャイムが鳴ったら、何があろうと——たとえ会社中の電話が鳴《な》り響《ひび》いてようと、会社から飛《と》び出してやるぞ。
電話をかけて来る方も、同じような気分なのかもしれない。あと五分で十二時、というあたりから、またあちこちで鳴り出した。
自分で一つ取《と》ると、他《ほか》から、
「津田さん、出てください!」
と、声がかかる。
そっちへ出れば、まだ聞《き》き終《おわ》らない内《うち》に、
「津田さん! それ終ったら、こっちに出てね!」
と声がかかる。
両手両足で同時に受《じゆ》話《わ》器《き》を持って、しゃべれたら、と津田は思った。いや、いっそ、電話なんてものが、この世から無《な》くなっちまえばいいのに!
まだ一本、待《ま》っている電話がある、というのに、もう一つ、
「津田さん、電話」
と、女の子が大声で言った。
やっと、一つを切って、
「どこから?」
と訊《き》きながら、待たせてあった一本へ手を伸《の》ばす。
「分りません」
と、その女の子は肩《かた》をすくめて、「女の人ですよ」
「待たせといて。——はい、津田でございます。——あ、どうも、いつもお世《せ》話《わ》になっております」
得《とく》意《い》先《さき》からの電話だ。津田は、息を切らしているのを、極《きよく》 力《りよく》 押《おさ》えながら、急いでメモ用紙を引《ひ》き寄《よ》せた。
その電話を切らない内に、チャイムが鳴った。
「——はい、確《たし》かに 承《うけたまわ》 りました。明《あ》日《す》中には必《かなら》ず。——よろしくお願《ねが》いいたします。——どうもありがとうございました」
電話を切って、津田は椅《い》子《す》にへたり込《こ》んだ。——参った!
もう、ほとんどみんな、食《しよく》事《じ》に出てしまった。出《で》遅《おく》れたな、と津田は思った。
立ち上ると、ちょっとめまいさえする。昼は少し高くても、栄《えい》養《よう》のあるものを食おう。いつものソバじゃ、とてももたない。
ここは貸《かし》ビルの五階《かい》だ。——会社を出ると、エレベーターの前で、深《ふか》野《の》珠《たま》江《え》が待っていてくれた。
「何だ、待っててくれたのか」
「一人じゃ、寂《さび》しいでしょ」
と、珠江は笑《わら》った。
紺《こん》の、野《や》暮《ぼ》ったい事《じ》務《む》服《ふく》姿《すがた》でも、珠江の色っぽい雰《ふん》囲《い》気《き》は壊《こわ》れていない。——この社唯《ゆい》一《いつ》の、魅《み》力《りよく》的《てき》な女《じよ》性《せい》である。
そして、津田は独《どく》身《しん》の二十八歳《さい》だ。珠江と、なるべくしてなったのも、無《む》理《り》からぬことで、まあ、そろそろ年《ねん》貢《ぐ》の納《おさ》めどきかな、などと津田も考えている。
「しかし、今日《 き よ う》はひどい目にあったな」
エレベーターが上って来るのを待ちながら、津田は言った。
「忙《いそが》しかったわね。午《ご》後《ご》もこんな風かしら?」
「やめてくれ」
津田は大げさに言った。「午後のことなんか考えたくもないよ!」
珠江は軽《かる》く声を立てて笑《わら》った。
「——あの電話、誰《だれ》からだったの?」
「どの電話?」
「ほら、チャイムが鳴る前に、女の人からだって——」
「しまった!」
津田は指《ゆび》を鳴らした。「出るのを忘《わす》れてた!」
「呆《あき》れた。もう切れてんじゃない?」
「ちょっと待《ま》っててくれ」
津田は会社の中へと駆《か》け戻《もど》った。——どれだ?
外《はず》したままになった電話が一つだけあった。津田は、駆《か》け寄《よ》って、受《じゆ》話《わ》器《き》を取った。
「もしもし、——お待たせしました。——もしもし」
何も聞こえない。しかし、切れてはいないようだ。向うも、待ちくたびれて、受話器を置《お》いて、離《はな》れているのか。
「もしもし。——もしもし」
出ないのか。まあいい、何か大切な用なら、またかけて来るさ。
受《じゆ》話《わ》器《き》を耳から離しかけたとき、
「津田さん」
という声が、電話から、飛《と》び出して来た。
「もしもし?」
「津田さん……」
いやに遠い声だ。いや、弱々しい声なのかもしれない。女の声だが。
「どなたですか?」
と津田は訊《き》き返《かえ》した。「——え?——何ですって?——もしもし!——もしもし!」
珠江が入って来て、
「どうしたの?」
と訊いた。
津田は、受話器を、まるで珍《めずら》しい物《もの》か何かのように、目の前に持って来て、じっと眺《なが》めていたのだ。
「どうかした?」
と、重ねて訊《き》かれ、津田は、
「いや、別に」
と、あわてて首を振《ふ》り、電話を切った。「さあ、行こうか」
——ちょうどエレベーターが来ていた。
一階へ向って、静《しず》かに降《お》り始《はじ》める。
「今日《 き よ う》は何を食べる?」
と珠江が言った。
「何でもいいよ」
と、津田は、目をそらしながら、言った。
——あの電話。あの声。
誰《だれ》だろう。「津田さん」と呼《よ》んだ、あの声は……。
津田は、今でも、信じられなかった。聞《き》き違《ちが》いだ。きっとそうだ。
その弱々しい女の声は、こう言ったように、津田には聞こえたのだ。
「助《たす》けて……殺《ころ》される」
と——。