依子と多江は、平《ひら》たい岩《いわ》の上に腰《こし》をおろして、休んだ。
風が渡《わた》って、汗《あせ》ばんだ肌《はだ》を乾《かわ》かして行く。——静《しず》かだった。
「近道したの。きつかったかな」
と、多江が言った。
「運《うん》動《どう》不《ぶ》足《そく》でね」
と、依子は、ハンカチを出して、額《ひたい》を拭《ぬぐ》った。
「あなた、平気なのね」
「そうよ。だって、年中通ってるんだもの」
「年中?」
「うん」
「でも——町で、あなたの姿《すがた》、見かけたことないわ」
「バス停《てい》に直《ちよく》接《せつ》 出るからよ。町は通らないもの」
「そうか。働《はたら》いてるものね」
と言って、ふと依子は気《き》付《づ》いた。「仕《し》事《ごと》、今日は?」
「休んだの。明日、早く出るから、って言ってね」
「私《わたし》のために? 悪いわね」
「どうってことないわ」
多江は、遠くへ視《し》線《せん》を向けた。「辛《つら》い生活には慣《な》れてるもの」
依子は、少し間を置《お》いて、
「——谷には誰《だれ》かいるの?」
と訊《き》いた。
「うちの一《いち》族《ぞく》、全《ぜん》部《ぶ》で——三十人くらいかしら」
と、多江は言った。
「三十人も?」
「家が六軒《けん》。谷の底に、固《かた》まって建《た》ってるから、いつの間にか、〈谷のもの〉とか言うようになったのよ」
「——なぜ、あなた方だけが?」
多江は、ゆっくりと首を振《ふ》って、
「村八分——というのかな、追《お》いやられたのよ。私《わたし》が生れて、間もなくだったらしいわ。私自《じ》身《しん》は憶《おぼ》えていないの」
「で、ずっとそこに?」
「そう。——もう十六、七年になるわ」
「あなた、学校は?」
多江が肩《かた》をすくめた。
「行ってないわよ」
「まさか!」
依子が唖《あ》然《ぜん》とした。「でも——ちゃんと住《じゆう》民《みん》 票《ひよう》はあるわけでしょう?」
「書《しよ》類《るい》の上では、行ったことになってるわ。ちゃんと出《しゆつ》席《せき》簿《ぼ》もあるし、成《せい》績《せき》もついていて、卒《そつ》業《ぎよう》したことになってる。——でも、行ったのは一日」
「一日?」
「入《にゆう》学《がく》式《しき》の日よ。——そこで、私、寄《よ》ってたかって、服《ふく》を破《やぶ》られ、泥《どろ》の中へ投《な》げ込《こ》まれたわ。母も同じ。二人して、谷へ戻《もど》って、それきり、一日も行かなかった」
依子は、体が震《ふる》え出すのを、必《ひつ》死《し》でこらえた。——多江の話し方は、ごく淡《たん》々《たん》としていて、それだけに、胸《むね》に食い入って来た。
「今まで、何人かの先生が、谷へやって来て、学校へ来てくれと話をしたわ。でも、行けばどうなるか、みんな知ってる。——その内《うち》に、その先生も、町を出て行った」
「——水谷先生は?」
「何もかも承《しよう》知《ち》よ。でも、利《り》口《こう》というか。小心というか。ともかく、角田の口ききで、何とか教師をやってられるんだもの」
「角田さんの?」
「水谷先生は、一度、学校のお金を使《つか》い込《こ》んだのよ。クビになるところを、角田が口をきいて助《たす》けてやった。——だから、言いなりなのよ」
依子は呆《あき》れて、怒《おこ》る気にもなれなかった。
「それに、あの先生は、大体が日《ひ》和《より》見《み》じゃないの」
と、多江は言った。
初《はじ》めて、腹《はら》立《だ》たしげな響《ひび》きが、多江の口《く》調《ちよう》に混《まじ》った。
「——今、谷の人たちの中で、小学校へ行く年《ねん》齢《れい》の子はいないの?」
と、依子は訊《き》いた。
「いないわ。——幸《さいわ》いね」
と多江は、微《ほほ》笑《え》んだ。「いたら、先生、黙《だま》ってないでしょうね」
「当《とう》然《ぜん》だわ」
と、依子は言った。「教《きよう》師《し》として? 当り前のことじゃないの」
「おお怖《こわ》い」
と、多江はおどけて見せた。「ねえ、先生、恋《こい》人《びと》、いるの?」
「え?」
「きっと恋《こい》人《びと》と話すときも、そういう調《ちよう》子《し》なんだろうな」
依子は仕《し》方《かた》なく笑《わら》った。
「でも——なぜ、そんなことになったの?」
「それは私《わたし》が話すより、母に訊《き》いてもらった方がいいわ」
依子は肯《うなず》いた。
「みんな——谷《たに》を出て行かないの?」
「年《とし》寄《よ》りを置《お》いて? そんなこと、できないわ。行く所《ところ》もないし、お金もない」
「あなたのように働《はたら》きに出てる人も、他《ほか》にいるの?」
「何人かね」
と、多江は言った。「でも、いいお金を取《と》れる仕《し》事《ごと》にはつけないわ」
「あなたの恋人は、ここの人?」
「恋人?」
と、多江は訊《き》き返して、「ああ、あのアパートのね」
思い出して頬《ほお》をちょっと染めた。
「聞かれちゃったんじゃ仕《し》方《かた》ないけど」
「聞いてないわ! 本当よ」
「むきになるところが愉《ゆ》快《かい》ね」
「大人をからかうもんじゃないわ」
依子は、多江をにらんでやった。
「あの人とは、あの町で知り合ったのよ。ここの人じゃないわ」
「でも、仲《なか》がいいんでしょ」
「傷《きず》をなめ合ってるだけよ。——寂《さび》しさを忘《わす》れるためにね」
多江の言い方は、まるで、生活に疲《つか》れた大人のそれだった。
「ねえ、あの叔《お》母《ば》さんといってた人——大沢和子さんだったわね。何か分って?」
と、依子は訊いた。
「いいえ」
多江は、首を振《ふ》った。「もう、みんな諦《あきら》めてるわ」
「諦めてる……。どうして?」
「戻《もど》るはずがないもの」
「どうして諦めるの? 捜《そう》索《さく》願《ねが》いでも出せばいいのに!」
「むだよ」
「そんなことないわ。現《げん》に、警《けい》察《さつ》の人が——」
多江が依子の方を見た。
「何と言った?」
「刑《けい》事《じ》さんよ。県《けん》警《けい》の。——私に声をかけて来たわ」
「何のことで?」
「分らない。でも、あの町のことを調《しら》べるんだ、って」
「警察が……」
多江は、固《かた》い表《ひよう》 情《じよう》で、「でも、信《しん》用《よう》できないわ」
と言った。
「なぜ?」
「今までだって、ずいぶん私《わたし》たちが悪《わる》者《もの》にされて来たのよ。何かある度《たび》に、『谷の奴《やつ》ら』だって」
「警《けい》察《さつ》は?」
「河村は、角田の飼《かい》犬《いぬ》だわ。——それに、事《じ》件《けん》といっても、この間のような、殺《さつ》人《じん》まではなかったもの」
「でも、それなら——」
と、依子は熱《ねつ》心《しん》に言った。「却《かえ》って、いい機《き》会《かい》じゃないの! 殺人——それも子《こ》供《ども》よ。県《けん》警《けい》だって、放ってはおけないのよ。この機会に、実《じつ》態《たい》をはっきり訴《うつた》えたら?」
多江は、ちょっと肩《かた》をすくめた。
「簡《かん》単《たん》に言うけどね……」
「ええ。そうね。——ごめんなさい」
依子は、声を低《ひく》くした。「局《きよく》外《がい》者《しや》の私が、訳《わけ》も分らずに——」
「そうじゃないのよ」
多江は、依子の手を握《にぎ》った。「ありがたいと思ってるの。でも、現《げん》実《じつ》は、そう単《たん》純《じゆん》じゃないわ」
「ええ」
「みんな谷から出るのを恐《おそ》れてる。——ひっそりと息《いき》をつめて暮《くら》してるのよ。勇《ゆう》気《き》を出せといったって、とてもむずかしいわ」
それは、依子にも何となく分った。
「でも、このままにしておいたら——」
と、依子が言いかけたとき、
「しっ!」
と、多江が鋭《するど》く言った。「誰《だれ》か来たわ」
二人は腰《こし》かけていた岩《いわ》の陰《かげ》に、かがみ込んだ。
「——誰かしら?」
「こんな所《ところ》へ来る人、ほとんどいないんだけど」
と、多江は言った。
足音が、近《ちか》付《づ》いて来た。
「一人じゃないわ」
と、多江が、低《ひく》い声で言った。
なるほど、依子の耳にも、二人らしい足音が届《とど》いて来た。
「——おい、少し休もう」
と、男の声がした。
「だらしねえな、頑《がん》張《ば》れよ」
言い返《かえ》した方の声は、依子にも聞き憶《おぼ》えがある。——町の雑《ざつ》貨《か》屋《や》の息《むす》子《こ》だ。
「だけど、重《おも》いぜ」
「早くしねえと、帰りが真《まつ》暗《くら》になるぞ」
「そうか……。それもいやだな。よし、行くか」
「後は下りだ」
「帰りにゃ上りだぜ」
「荷《に》物《もつ》はないよ」
——二人の男が、また歩き出した。
「——何かしら?」
と、依子は言った。
「分らないわ。何かを捨《す》てに行くのか……。でも、こんな山の奥《おく》まで、なんで」
依子は、そっと頭を出した。
二人の男たちの姿《すがた》が、木々の間に、見え隠《かく》れしている。
依子は青ざめた。
「見て!」
「え!」
「あれを——」
多江も頭を出し、そして短《みじか》く声を上げた。
二人の男がかついでいるのは、棺だった。
多江は青ざめていた。
「——きっと、叔《お》母《ば》さんだわ」
「そう思う?」
「でなきゃ、こんな山《やま》奥《おく》に、埋める必要ないでしょう」
「そうね」
「今ごろどうして……」
「きっと、どこかへ一《いつ》旦《たん》埋めてあったのよ。でも、私のことがあったりして、見《み》付《つ》からないように、きっと掘《ほ》り出して、埋め直すんだわ」
依子は、多江を見た。「——後をつけましょう」
「え?」
「どこへ埋めるか、見《み》届《とど》けるのよ」
多江が肯《うなず》いた。ためらいはなかった。
依子と多江は、岩《いわ》陰《かげ》から忍《しの》び出て、遠くに見える男たちの後をつけ始《はじ》めた。
やがて、黄《たそ》昏《がれ》の気《け》配《はい》が、山の影《かげ》の中に、這《は》い入って来る。