久野のポケットベルが鳴った。
「——食事ぐらい、させてほしいもんだな」
久野はそうぼやきながら、ナイフとフォークを置いて、立ち上った。
顔見知りのレストランなので、電話を借《か》りることにする。今日、脇元は夕方まで来《らい》客《きやく》で家にいるはずだが。
社へ電話を入れると、秘《ひ》書《しよ》室《しつ》の女の子が、
「お電話が入ったんで……」
「社長から?」
「いいえ、ええと……田《た》中《なか》一《かず》夫《お》様からです」
「分った。伝《でん》言《ごん》は?」
「ええ、荷《に》物《もつ》は無《ぶ》事《じ》に届《とど》けましたから、って、そう伝えてほしいってことでした」
「分ったよ。ありがとう」
久野は電話を切ると、席に戻《もど》って、食事を続けた。
田中一夫というのは、もちろんでたらめの名前である。——荷物が届いた、というのは、予定通り、津村の女《によう》房《ぼう》を監《かん》禁《きん》してあるという意味なのだ。
どうやら、うまくやったらしい。久野は、少しのんびりと残りの食事を味わった。
時《と》計《けい》を見る。——余《よ》裕《ゆう》はある。
脇元の家に迎《むか》えに行くのは、六時でいい。社には五時まで外出と言って来てある。
話をつけるには、充《じゆう》分《ぶん》だろう。
「コーヒーをくれ」
と、久野は、ちょっと手を上げて言った。
さて、どうしたものか……。
久野としては、女房を人《ひと》質《じち》に、津村に、金を盗《と》った仲《なか》間《ま》が誰《だれ》なのか、白《はく》状《じよう》させようという考えで、計画を立てたのだが、必《かなら》ずしも脇元に義理立てしなくて良くなった今では、事《じ》情《じよう》が変っているのだ。
盗《ぬす》まれた二億、手みやげ代《がわ》りにいただいて、脇元の下を去ることも考えている。もちろん、脇元とは、あくまで友好的な関《かん》係《けい》を保ちつつ、別れなくてはならない。
向うも、充《じゆう》分《ぶん》に支《し》払《はら》ってくれるに違《ちが》いないからだ。脇元は、その点、馬《ば》鹿《か》ではない。
何もかも知り尽《つ》くした久野を、辞《や》めるからといって、裸《はだか》で放り出すようなことはしない男である。
その他《ほか》に二億、入るか入らないか。これは大違いだ。
ただ、その手順は、臨《りん》機《き》応《おう》変《へん》に考えるつもりだった。
「——電話を借《か》りるよ」
久野は、ウエイターに声をかけて、もう一度、社へ電話を入れ、脇元から、予定変《へん》更《こう》の連《れん》絡《らく》が入っていないことを確かめた。
レストランを出て、今度は電話ボックスから、例のモテルへ電話を入れる。
——相《あい》手《て》が出るまで、少し間があった。
「もしもし」
と、男の声だ。「久野さんですか」
「そうだ。どうした?」
久野は、少し不安になって、言った。
「伝《でん》言《ごん》は聞いてもらえましたね?」
と、男は言った。
「ああ。——異《い》常《じよう》ないのか」
久野は、何となく、受話器を持ったまま、電話ボックスの外を見回した。
「ええ。楽《らく》なもんでしたよ」
と男が言った。
「そうか」
——どこかおかしい、と久野は思っていた。
そういう点、敏《びん》感《かん》な男である。相《あい》手《て》の話し方に、ちょっとした、ひけ目のような響《ひび》きを、聞き取っていた。
「金は……いただけますね」
「もちろんだ。そこにいろ。これから行くからな」
と、久野は言った。
「ここで、ですか」
相手が、ためらった。
「そこじゃまずいのか」
「ええ……。どこか、外でいただけませんかね」
「そこで渡す」
と、久野は言った。「行ったとき、そこにいなかったら、金は払《はら》わん」
絶《ぜつ》対《たい》に譲《ゆず》らない、という言い方に、向うも諦《あきら》めたようで、
「分りました。待ってます」
と、素《す》直《なお》に返事をした。
久野は、電話を切って、ちょっと舌《した》打《う》ちした。——何か、まずいことがあったのだ。
もちろん、殺してしまったというわけではあるまいが、ともかく、必《かなら》ずしも注文通りには行かなかったから、向うは早く金を欲《ほ》しがったのだ。
仕方ない。ともかく、行ってみよう、と久野は思った。
自《みずか》ら車を運転するのは珍《めずら》しいのだが、ここはやむを得ない。
道はそう混《こ》み合っていなかったが、生《せい》来《らい》慎《しん》重《ちよう》な男である。安全運転で、多少、思ったより時間がかかった。
しかし、充《じゆう》分《ぶん》に、脇元の家に迎えに行くには間に合う。
目《め》指《ざ》すモテルで車を停《と》め、他《ほか》の部《へ》屋《や》を借《か》りてから、津村の妻《つま》を監《かん》禁《きん》してある部屋へ行った。
ドアを軽《かる》く叩《たた》くと、
「誰《だれ》だ?」
と、男の声がした。
「私《わたし》だ」
と、久野は言った。
ドアが開く。
「どうも。——遅《おそ》いんで心配しましたよ」
その若い男、いやに愛《あい》想《そ》がいい。
「問題はないのか?」
と、久野は訊《き》いた。
「ええ、もちろん」
久野がジロリと見つめると、相《あい》手《て》の男が目をそらした。
久野は部《へ》屋《や》の中へ、入って行った。
ベッドに、女が横たわっている。——見覚えがあった。津村華子である。
「この通りですよ」
と、男は言った。「あの……金をいただければ、もう帰りたいんですが」
津村華子は、体を丸めて、身を縮《ちぢ》めて、動かなかった。久野は、ベッドに歩み寄ると、そっと華子の肩《かた》に手を触《ふ》れた。
ハッ、と息をのんで、華子が久野を見る。しかし、その目は、なんとなくうつろだった。
久野は、華子のブラウスが裂《さ》け、ボタンが飛んでしまっているのに目をとめた。頬《ほお》が少しはれている。よく見ると、足にも、あざのようなものがあった。
久野は、ゆっくりと男の方を振《ふ》り向いた。
「手を出すなと言ったはずだぞ!」
男は、ちょっと唇《くちびる》をねじるようにして、舌《した》打《う》ちした。
「仕方なかったんですよ。暴《あば》れたもんで……」
「それだけじゃないな」
「ええ……。女の方がね」
「女?」
「手伝わせた女ですよ。そいつが、面《おも》白《しろ》がって、この女をからかってる内に、俺《おれ》もつい——」
「女はどこにいる?」
「外です。——あんたの顔、見せない方が、と思って」
久野は、冷ややかに、
「お前に頼《たの》んだのが間《ま》違《ちが》いだったな」
と言った。
「でも、ちゃんと言われた通りに——」
「条《じよう》件《けん》を守って、初めて仕事をしたことになるんだ。本当なら半額でも払《はら》わないところだぞ」
「そんな!」
「払ってやるさ」
久野は、ポケットから封《ふう》筒《とう》を出して、男に渡した。「その代《かわ》り、この女のことも、俺《おれ》のことも忘れるんだ」
「分ってますよ」
金をもらえば用はない、というわけか、男は、早《そう》々《そう》に出て行ってしまった。
久野は、ベッドの津村華子の方を振《ふ》り向いた。——誤《ご》算《さん》だった。あの男が、こんな真《ま》似《ね》までするとは思わなかったのだ。
あいつ一人なら、何もしなかっただろう。女がついていたのがまずかった……。
「——奥《おく》さん」
久野は、ベッドに近寄って、できるだけ穏《おだ》やかに話しかけた。「私をご存《ぞん》知《じ》ですか」
華子は、まだいくらかぼんやりした顔で、久野を見上げて、
「主人の……会社の方?」
と、かすれた声で言った。
「そうです。ゆっくりお話ししたいですね」
久野は、椅《い》子《す》を持って来て、腰《こし》をおろした。
「何ですって?」
塚原の話に、津村は一《いつ》瞬《しゆん》、顔色を変えた。
「しっ! あんまり大きな声を出さないで」
塚原は、周《しゆう》囲《い》を見回した。ビルの一階、入口のわきに、ちょっとしたスペースがある。塚原は、そこで、ちょうど外出から帰って来た津村を捕《つか》まえたのだった。
「ここは声が響《ひび》く。静かにしゃべろう」
と、塚原は言った。「もっと早く話そうと思ったんだが、今日、君は一日外出してたから……」
「すみません。ちょっと仕事で忘れてた手《て》続《つづき》があって」
と津村は恐《きよう》縮《しゆく》して言った。「でも浦田さんが狙《ねら》われたって、確かなんですか?」
「彼女《かのじよ》が言うんだ。間《ま》違《ちが》いあるまい。明らかに彼女を狙って来た、ということだ」
「じゃ、脇元にばれたんでしょうか?」
「分らん」
塚原は首を振《ふ》った。「彼女の言う通り、いきなり殺そうとするのも不《ふ》自《し》然《ぜん》に思える。といって、浦田君を殺そうとする人間が、他《ほか》にいるとは思えないがね」
「同感です」
津村は肯《うなず》いた。「用心しなきゃいけませんね」
「うん。まあ、用心に越《こ》したことはない。特に君の所がマンションを買うというのも、社内に結《けつ》構《こう》知っている者がいる。もう、脇元や久野の耳にも入っているかもしれない」
「しゃべってないつもりなんですがね……」
と、津村は首をひねった。
そうだろう、と塚原は内《ない》心《しん》、自分と南千代子のことを考えていた。塚原だって、南千代子だって、誰《だれ》にも洩《も》らしてはいないはずなのだ。それなのに、社内に広く知れ渡ってしまっている。
本当に、噂《うわさ》というやつは恐《おそ》ろしいものなのだ。
「ともかく、お互い、充《じゆう》分《ぶん》に用心しよう」
と、塚原は言って、「じゃ、僕《ぼく》は先に上るよ。もうすぐ五時になる。——今日は残《ざん》業《ぎよう》かい?」
津村は、ちょっと考えてから、
「そのつもりでしたが、何だか今の話を聞くと心配になっちまいました。五時で帰ります」
「それがいい」
塚原は先にエレベーターの方へ歩いて行った。
——津村は、少し待つことにする。二人《ふたり》して一《いつ》緒《しよ》に上って行って、久野の目につくのを避《さ》けるためである。
「そうだ」
この時間を利用して、華子に電話をしてみよう。
津村は、赤電話で、自宅へかけてみた。
呼出し音は何度も鳴っていたが、一《いつ》向《こう》に出ない。出かけているのだろうか?
「変だな」
と、受話器を置いて、津村は呟《つぶや》いた。
もう五時になるというのに、華子が家にいない。どこへ行っているんだろう?
津村としても、浦田京子が狙《ねら》われた話を聞かなければ、大して気にも止めなかったのだろうが、今、話を聞かされたばかりでは、少々気になる。
もちろん、華子は外出がもともと好きな性質だし、いなくて不《ふ》思《し》議《ぎ》というほどでもないのだが……。
ただ、何となく落ちつかなかったのだ。いわゆる「胸《むな》さわぎ」というやつなのかもしれない。
華子に何かあったのかもしれない!
そう思い始めると、不安でたまらなくなってしまう。
津村が席に戻《もど》ったとき、ちょうど五時のチャイムが鳴った。アッという間に机の上を片付けて、津村は社を飛び出した。
女子社員が呆《あき》れて、
「よっぽどいいことがあるのかしら、津村さん」
と言ったほどである。
津村は、家まで、いつもの倍近くも時間がかかったような気がした。
もちろん、そんなわけはないのだし、普《ふ》段《だん》五時で帰宅するときより、早い電車にも乗ったのだから、いつもより、ずっと早く家に着いてはいたのだった。
ただ、途《と》中《ちゆう》、色々な想《そう》像《ぞう》に苦しめられて来た。——ヤクザまがいの男が、華子に刃《は》物《もの》を突《つ》きつけていたり、泣き叫《さけ》ぶ華子を縛《しば》り上げて、金のありかを言えと迫《せま》ったり……。
考えれば考えるほど、悪いことばかりが頭に浮《う》かぶのである。
やっと玄《げん》関《かん》のドアを開けたときには、津村は目も血《ち》走《ばし》って、心配のあまり、今にもぶっ倒《たお》れそうだった。
「華子!——華子!」
いない!——やっぱり、華子の身に何かあったのだ。
津村は、頭をかかえた。
どうしよう? 華子の身にもしものことがあったら——マンションが、七千万円が何になるのだろう。
そんなもの、クズ同然じゃないか!
「華子……」
と、津村が呟《つぶや》いたとき——ザーッと、トイレの水の流れる音がして、
「——あら、あなた早かったのね」
華子が顔を出した。
「華子!」
津村がポカンとして、「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か? 何ともないか?」
「え?」
「いや……トイレに入ってたのか。そうか。君の姿《すがた》が見えないんで、心配になって……」
津村は笑《わら》い出した。——少し間《ま》を置いて、華子も笑い出していた。
「ちょっと出かけてたもんだから」
と、華子は言って、おかずの皿《さら》を並《なら》べた。「買って来たものばかりで、ごめんなさいね」
「いや、構《かま》やしないよ」
津村は、華子が無《ぶ》事《じ》だったので、それだけで上《じよう》機《き》嫌《げん》である。「元気でご飯が食べられる。それだけだって、神に感《かん》謝《しや》しなくちゃ」
「急に信心深くなったのね」
と、華子は笑《わら》った。
「本当だよ。君さえ幸《しあわ》せでいてくれりゃ、僕《ぼく》は満足だ」
津村は、映画のセリフみたいな言《こと》葉《ば》を口にして、照れて赤くなった。
華子は、ただ微《ほほ》笑《え》んだだけだった。
もし、津村が、妻《つま》の無事な姿《すがた》に安心し切ってしまわなければ、その目が、自分を見ないようにしていることに気付いただろうが……。
——夕食を終えて、津村がTVを見ていると、電話が鳴った。
「僕《ぼく》が出るよ」
と、台所の華子に声をかけておいて、津村は電話の方へ歩いて行った。「——はい、津村です。——あ、塚原さん。今日はどうも。——え? 明美さんですか?」
「そうなんだ」
塚原の声は、不《ふ》安《あん》気《げ》だった。「まだ帰らない。妻の話じゃ、今日は遅《おそ》くなるとも言って行かなかったというんだ。——こんなことはないんで心配でね」
「それはそうですね」
「いや、もし、君の所にでも、寄っていたらと思ってね。——邪《じや》魔《ま》したね」
「いえ。何かあったら、すぐご連《れん》絡《らく》しますから」
「うん、よろしく頼《たの》む」
そう言って、塚原の電話は切れた。
津村にも、塚原の不安は分る。今日、自分が抱《いだ》いたのと同じ不安が、塚原を捉《とら》えているのだ……。
「どうしたの、あなた?」
と、華子が顔を出す。
「塚原さんだよ。娘《むすめ》さんが、まだ帰らない、って心配してるんだ」
「娘さん? いくつだったっけ?」
「確か、高校一年だと思ったな」
「じゃ、どこかへ寄り道したって、おかしくないじゃないの」
と、華子は笑《わら》って、「父親は、自分の子供のことを一番良く分ってないのよ」
「そりゃそうかもしれないな」
津村も、深くは考えなかった。「もう——片付けは終ったのかい?」
「もう少しよ」
華子は、台所へ戻《もど》って行った。
津村は、ついて行くと、流しに立った華子を、後《うし》ろから抱《だ》こうとした。
「やめて」
華子は首を振《ふ》った。——いつになく、素《そつ》気《け》ない言い方だった。