「もう十一時だぞ!」
と、塚原は言った。
そんなことぐらい、啓子にだって分っている。でも、いくらそうやって怒《ど》鳴《な》っていたところで、明美が帰って来るわけではないのだから。
もちろん啓子だって不安で仕方ないのは、塚原と同様である。明美が、無《む》断《だん》でこんなに遅《おそ》くまで外出していたことはない。
それでも啓子の心の底には、あの子はしっかりしてるから、という安心感があった。母親としては、少々頼《たよ》りない話であるが、啓子はどうもお嬢《じよう》さん育ちのところが、いまだに抜《ぬ》け切らない。
心の中では、娘《むすめ》の明美に頼《たよ》っているところがあったのである。——あの子のことだ、めったなことはあるまい、と……。
しかし、一《いち》応《おう》親としては心配でもあり、考えられる限りの、明美の友人には電話してみた。塚原は津村の所にまで電話している。
どう考えたって、明美が津村の所へ寄っているなんてわけはないのだが。
「畜《ちく》生《しよう》! 何をしてるんだ、一《いつ》体《たい》!」
塚原は心配の余《あま》り、腹を立てて、「帰って来たら、ただじゃおかないぞ!」
などと言っているが、なあに、本当に帰って来たら、ホッとして怒《いか》りなど忘れてしまうに決っているのである。
「でも、心当りには、全部電話してみたんですから……」
と啓子が言うと、
「この近所は? よその家に、間《ま》違《ちが》って帰ってるってことはないか?」
「まさか」
塚原は、少しもジッとしていない。
湯上りのパジャマ姿《すがた》のまま、腕《うで》組《ぐ》みをして、部《へ》屋《や》中を歩き回っているのだ。
「——捜《そう》索《さく》願《ねがい》を出しますか」
と、啓子が言った。
「うむ。それも考えたんだが、しかしなあ……」
と、ためらって見せたのは塚原の見《み》栄《え》で、実《じつ》のところ、今、啓子に言われて、やっと〈捜索願〉という手があるのだと思い付いたのだった。
「じゃ、もうちょっと待ってみて——」
「いや、その何分間のためらいが、明美の生死の分れ目になるかもしれない。今は外《がい》聞《ぶん》を気にしているときじゃないよ。捜《そう》索《さく》願《ねがい》を出そう」
「そうね。じゃ——」
「捜索願の届《とどけ》ってのは、どこで用紙をもらうんだ? 区役所か?」
塚原も全然落ちついちゃいないことがすぐにばれてしまう。
「そんな必要ないんじゃありませんか? ただ一一〇番へかければ……」
「一一〇番か! よし、かけてみよう」
塚原が、電話へ歩《あゆ》み寄って手を伸《のば》したとき、突《とつ》然《ぜん》電話は鳴り出したのだった。
今まで明美から電話でもあるか、と待ち続けていたのに、いざ本当に鳴り出すと、ギクリとして、塚原はすぐには受話器を上げることができなかった。
電話が鳴り続ける。啓子があわててやって来て、
「あなた、電話——」
「分ってる!」
塚原は、やっと一つ咳《せき》払《ばら》いして、受話器を上げた。「もしもし?」
「ああ、お父《とう》さん? 私《わたし》」
明美の声だ。塚原はホッとして、
「どこにいるんだ? 遅《おそ》くなるときはちゃんと連《れん》絡《らく》しなきゃだめじゃないか」
言《こと》葉《ば》だけは怒《おこ》っているようなことを言っているが、言い方は至《いた》って優《やさ》しい。ともかく一人《ひとり》娘《むすめ》にはとことん甘《あま》い。
「ごめんね。ちょっと連《れん》絡《らく》できなくって」
明美の方は、一《いつ》向《こう》に平然とした口《く》調《ちよう》である。
「今、どこだ? もう遅《おそ》いから危い。駅まで迎えに行ってやる」
「今夜は帰らないの」
「——ん? じゃ、友だちの所にでも泊《とま》るのか? しかし、明日《あした》学校があるんだろ?」
「あのね、お父さん」
「何だ?」
「びっくりしないでね。私、駈《か》け落ちしたのよ」
「駈け……」
駈け落ち? 駈け落ちってのは何だったかな。
「将《しよう》棋《ぎ》でもやったのか?——あれは、『角落ち』か」
「違《ちが》うわよ」
向うで明美がクスクス笑《わら》っている。「駈け落ち。男性と二人《ふたり》での家《いえ》出《で》。——分る?」
「うん、そりゃあ……分るが、しかし……」
「だから、当分は帰れないと思うわ。学校も休むから、うまく言っといてね」
「おい、明美、お前——」
「心配しないで、私はちゃんとやって行くから。お母《かあ》さんに、あんまり心配しないで、って言っといてね」
「おい、待てよ。明美、どういうことなんだ、一《いつ》体《たい》?」
「だから、恋《こい》人《びと》が出来たから、駈《か》け落ちするのよ」
「そうか……」
「じゃ、また少し落ちついたら連《れん》絡《らく》するからね。元気でやるから、あんまり心配しないでね」
「ああ……」
「じゃ、またね」
「ああ……」
塚原はポカンとした顔で、受話器を置いた。
「あなた、——明美、何ですって?」
と、啓子が夫《おつと》の顔を覗《のぞ》き込《こ》む。
「うん……。何だかしらんが、駈け落ちするんだそうだ」
と、塚原は言った。
「駈け落ち、って……あなた、明美が、ですか?」
啓子は目を丸くした。
「俺《おれ》じゃないぞ」
「当り前でしょ、ここにいるのに!」
啓子は、頭を振《ふ》った。「明美が駈け落ちなんて——一体相《あい》手《て》は誰《だれ》なんです?」
「さあ。言わなかったな」
「そんな呑《のん》気《き》なこと言って……」
塚原も、やっと今の明美の話が頭に入って来て、青くなった。
「ど、どうしよう? 〈駈《か》け落ち願い〉を出すか? 明美が捜《そう》索《さく》した、と言って——」
かなり混《こん》乱《らん》しているのである。
「あなた、しっかりして!——ねえ、明美の冗《じよう》談《だん》じゃないの?」
「冗談?」
「そうよ。私《わたし》たちをからかってるんじゃない?」
「そうかな……」
塚原は自信なげに言った。
「だって、あなた、考えてみてよ。駈け落ちっていうのは、親に結《けつ》婚《こん》を反対されてするものよ。あの子、そんな話、したことないじゃないの」
「うん、それもそうだ」
「いきなり駈け落ちなんて。——どんな様《よう》子《す》でした? 思い詰《つ》めてるような?」
「いや、普《ふ》通《つう》だったよ」
「それじゃ、本気じゃなくて、きっと私たちをからかってるんだわ」
「そうかもしれんな」
まだ半《なか》ば頭がぼんやりしているせいか、塚原も、啓子が言う通りかもしれない、と思っていた。
「ともかく、明日まで待ってみましょ。学校を休んだら、やっぱり問題だから、考えることにして」
「そうだな」
「私、お風《ふ》呂《ろ》へ入って来ます」
啓子の方は、いやにのんびりしている。
これは、ともかく明美が無《ぶ》事《じ》と分って安心したからである。無事でさえあれば、たとえ本当に駈《か》け落ちしていたって、どうってことはない——ことはないが、しかし、それで女性の一生が終るわけでもないのだ。
啓子が風呂へ入ってしまうと、やっと頭が正常に回《かい》転《てん》し始めた塚原は、やはり気が気でなくなって来た。
駈け落ち? 明美が?——娘《むすめ》が、他《ほか》の男と一《いつ》緒《しよ》にいるというだけで、父親たる塚原の胸は痛むのだった。
「そうだ」
浦田京子が、ゆうべ、妙《みよう》なことを言っていたのを、塚原は思い出した。明美と話し合ってみたら、とか、そんなことを……。
もしかしたら、彼女《かのじよ》は何か知っているのかもしれない。
塚原は、急いで浦田京子のアパートへ電話を入れた。
浦田京子は、例によって、TVのドイツ語講《こう》座《ざ》を見終って、そろそろ床《とこ》に入ろうかと思っていた。
そこへ、塚原からの電話で、明美が駈《か》け落ちしたらしいという知らせだ。そろそろ眠《ねむ》くなりかかっていた目が、パッチリと覚《さ》めてしまった。
「——まあ! 大変じゃありませんか!」
「うん……」
塚原の方は、すっかり当《とう》惑《わく》しているばかりで、「どうだろうね、その——君は本当だと思うかね?」
「ちゃんと申し上げたじゃありませんか。お嬢《じよう》さんと話し合いをなさるように」
「う、うん。だがね……」
「頭ごなしに押《おさ》えつければ、子供はバネと同じです、反《はん》発《ぱつ》するに決っているんですよ。明美さんの気持も分ってあげなくちゃ」
分るも何も、塚原はまるで何も知らないのだ。
「君、明美から何か聞いたのかね?」
「ええ。——結《けつ》婚《こん》したい、とおっしゃってましたわ」
「け、結婚?」
「それに——今、奥《おく》様《さま》はそこにいらっしゃるんですか?」
「いや、風《ふ》呂《ろ》に入ってる」
「明美さん、塚原さんが浮《うわ》気《き》していることをご承《しよう》知《ち》でしたよ」
「明美が!」
これこそ塚原には大ショックだった。あんなに気をつかったのに……。
変に気をつかうから、却《かえ》って気付かれるのだが、それをまるで分っていないのである。
「明美さんは、一番感じやすい年《とし》頃《ごろ》ですわ。父親が浮気していると知って、どんなに傷《きず》ついたか……」
「うん……」
「それなら私《わたし》だって、好きなことをするわ、っていう気になっても、不《ふ》思《し》議《ぎ》じゃありません」
「そうだね」
「塚原さん一人の問題じゃないんです。奥《おく》様《さま》はまだお気付きになっていないようですが、もし気付かれたら、それこそ家庭崩《ほう》壊《かい》ですわ。明美さんの家《いえ》出《で》が、その第一歩です。ここで食い止めないと」
——塚原と浦田京子の、この真《しん》剣《けん》な対話をもし、明美が聞いていたとしたら、照れてペロッと舌《した》を出したかもしれない。
明美は父親の浮気ぐらいで非行に走るほど軟《なん》弱《じやく》じゃないのだ。
しかし、塚原の方は、かなり本気で反《はん》省《せい》していた。
「分った。——南千代子君との仲は清《せい》算《さん》するよ」
「それがよろしいと思いますわ。もちろん彼女《かのじよ》の方にも責任はあるでしょうけど、あくまで塚原さんが悪《わる》者《もの》になるべきです」
浦田京子の言《こと》葉《ば》は、厳《きび》しかった。
「分った」
と、塚原は、浦田京子の言葉に心を打たれた様《よう》子《す》で、言った。「今から僕《ぼく》は総《すべ》てを妻《つま》に告《こく》白《はく》し、許《ゆる》しを請《こ》う。許してくれなきゃ、首を吊《つ》る」
「馬《ば》鹿《か》をおっしゃらないで!」
京子はあわてて言った。「もしもし?——いいですか、奥様には黙《だま》ってらして下さい。せっかく浮《うわ》気《き》をやめる決心をなさったんですから、わざわざ奥様に知らせる必要は——」
「いや、それでは僕《ぼく》の気が済《す》まん。知らん顔をして、妻と顔を合わせてはいられない。やはり告白して——」
ともかく、今はまずい、明美さんが戻《もど》られるのが先《せん》決《けつ》で——と、京子が説《せつ》得《とく》して、やっと、塚原も納《なつ》得《とく》した。
電話を切って、京子はフッと息をついた。
「——大変なことになったわ」
明美の駈《か》け落ち。まさか、とは思うが……。
あの明るい様子からは、とてもそこまで思い詰《つ》めているとは想《そう》像《ぞう》できなかったが、しかし表面は明るく振《ふる》舞《ま》っていても、意外に内面は傷《きず》ついているかもしれないのだ。
父親の浮《うわ》気《き》への当てつけだとしたら、かなり無《む》茶《ちや》なことでもやりかねない。
「——もっと突《つ》っ込んで話し合いをしておくんだったわ」
と呟《つぶや》いて、京子は首を振《ふ》った。
さて——そろそろ寝《ね》ようか、と思っていると、玄《げん》関《かん》のドアを、トントン、と叩《たた》く音がする。
こんな時間に?
京子は、緊《きん》張《ちよう》した。何しろ、昨日《きのう》狙《ねら》われたばかりである。
トントン、とまた音がする。
京子は、台所へ行くと、包《ほう》丁《ちよう》を取って来た。
何かバットみたいなものでも用意しとくんだったわ、と思ったが、今は間《ま》に合わない。
また——トントン。
京子は包丁を握《にぎ》りしめながら、玄《げん》関《かん》へ下りて、
「どなたですか?」
と声をかけた。
「夜遅《おそ》くすみません。塚原明美ですけど」
京子は仰《ぎよう》天《てん》した。——めったに驚《おどろ》くということのない京子だが、この二日間は目が回りそうだ。
「——明美さん!」
ドアを開けて、明美を入れる。「あなた……どうしたの? あの——一人なの?」
「ええ」
明美はにこやかに笑《わら》って、「あ、さては、父から電話があったんですね?」
「ええ。今しがた……。じゃ、あなた、駈《か》け落ちしたっていうのは——」
「も《ヽ》ち《ヽ》ろ《ヽ》ん《ヽ》嘘《うそ》です。ショック療《りよう》法《ほう》ってやつですわ」
明美は部《へ》屋《や》の中を見回して、「わあ、よく片付いてるんですねえ。上っていいですか?」
と訊《き》いた。
京子は、明美を座《すわ》らせて、あわててお湯をわかした。
「ごめんなさい。お料《りよう》理《り》なさってたんですか?」
と明美が訊《き》く。
「いいえ。どうして?」
「だって包《ほう》丁《ちよう》を持ってらしたから」
「あ、ああ——これはね、護《ご》身《しん》用《よう》」
と、京子は笑《わら》って見せた。「女の独《ひと》り暮《ぐら》しだと、何かと物《ぶつ》騒《そう》でしょ」
「大変なんでしょうね、きっと」
明美は部屋の中を見回した。
「あなた……今夜、どうするの?」
「ここへ泊《と》めていただけません?」
「それは構《かま》わないけど」
「良かった! 足をくずしていいですか?」
「どうぞ」
京子は微《ほほ》笑《え》んだ。「でも、よくここへ来てくれたわね。嬉《うれ》しいわ」
「当てにしてた友だちの所が、急に親《しん》戚《せき》が上京して来たとかで、だめになっちゃって。——かなり迷《まよ》ったんですけどね」
「どうして?」
「一《いち》応《おう》、お独《ひと》りだってうかがってたけど、来てみたら男性がいた、なんていうんじゃ、泊《とま》れないでしょ」
京子は笑《わら》い出してしまった。——本当に憎《にく》めない子だわ。
「残《ざん》念《ねん》ながら、そういう色っぽい話とは縁《えん》がないのよ」
「でも、恋《こい》人《びと》はいるんでしょ?」
と真《ま》顔《がお》で訊《き》かれて、京子はちょっとドキッとした。
「いいえ。どうして?」
「そうかなあ。でも、浦田さんって、とっても潤《うるお》いがあるんですよね。恋人でもいなきゃ、こうはいかない、と思って」
「まあ、おませさんね」
京子は苦《にが》笑《わら》いした。「それより、あなたの駈《か》け落ちの方《ほう》は?」
「これは正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》の嘘《うそ》です」
明美はアッサリ言った。「でも、目的があってやってるんですよ」
「どんな目的?」
「それは——ちょっと内《ない》緒《しよ》」
明美としては、父が、あの怪《あや》しげな大金を持っている理《り》由《ゆう》を知りたかったのだが、まさか、京子がそれに一枚かんでいるとは、思ってもいないのである。
「そう。じゃ、ここに二、三日いるつもり?」
「もし、お許《ゆる》しいただけば」
「いいわよ、もちろん」
「わあ、助かった!」
明美は、アッケラカンとした笑《え》顔《がお》で言った。
——もちろん、京子としても、塚原が心配しているのは承《しよう》知《ち》の上だが、ここは明美の言うように、「ショック療《りよう》法《ほう》」も必要か、と思ったのである。
「お風《ふ》呂《ろ》に入っていいですか?」
明美がウーンと伸《の》びをしながら言った。