タクシーは、かなりのスピードで、都心の道を飛ばしてくれた。
みゆきは、じっと座席で身を固くして、両手を膝《ひざ》の上で握りしめていた。
「──大分早く着きそうだよ」
初老の運転手が、赤信号で停ったときに言った。
「どうもすみません、無理言って」
と、みゆきは礼を言った。
「いや、商売だからね」
また走り出す。──父と行ったときに比べて、帰りは時間もかかっていない。
「その先、左です」
と、みゆきは急いで言った。
夜半なので、道がよく分からなかったのだ。思いがけないほど、近くまで来ていた。
「そこを右へ入って……。ええ、その角を左へ」
タクシーが最後の角を曲る。もう、家が見えるはずだ。
みゆきはハッとした。──車がある! 父と乗って来た車が。
「──その車の手前で停めて下さい」
と、みゆきは言った。「すみません、ちょっと待っていていただけます?」
「ああ、いいよ」
と、運転手は快く肯《うなず》いた。
実際、みゆきはタクシー代を持っていないのだ。もし何でもなかったとしても、お金は取って来なくてはならない。
玄関のドア。──開いている。
みゆきは、息を呑《の》んだ。父が──父が、どうしてこっそりと戻って来たのか。
みゆきとホテルに泊ったことにして、みゆきが眠ったとみると、ベッドを抜け出し、なぜ自分の家へ帰って来たのか。
「──お母さん」
と、みゆきは、そっと玄関から声をかけた。
父の靴がある。
みゆきは、上がった。──田所佐知子はどうしただろう? 父も、また母を殺しに戻って来たのではないか……。
居間から、フラッと誰かが出て来た。みゆきは立ちすくんだ。
父だった。手にナイフを握っている。手首から腕、そして胸に血が飛んでいた。
「お父さん!」
みゆきが叫んだ。
新谷は、ぼんやりとみゆきを見て、
「お前か……。どうしたんだ? 帰って来たのか?」
と、呟《つぶや》くように言った。
「お父さん!──何をしたの!」
「いや……。これは……」
新谷は、ナイフを落とした。「やるつもりじゃなかったんだよ……。本当だ。ただ……ただ……」
みゆきは父を押しのけて、居間へと入って行った。
床に血が広がって、その真中に突っ伏しているのは──田所佐知子だった。
「──みゆき!」
母が、ソファから立ち上がった。
「お母さん……」
「何だか──分からないのよ。この人が急に訪ねて来て……。私を刺し殺そうと……。お父さんがね、この人を刺したのよ」
「お母さん……」
みゆきは、身動きしなくなった田所佐知子を見下ろした。
「一一〇番しなきゃね。──でも、電話が通じないのよ」
と、尚子は言った。「みゆき……。どうしてこの人が──」
「分からないわ」
と、みゆきは首を振った。「私、さっぱり分からない」
「お母さんも……。この人、本当にいい家のお嬢さんだとばっかり思ってたのに……。何てことかしら!」
尚子も、混乱しているようだ。
夫やみゆきが、なぜ突然帰って来たのかを考えてみる気にもなれないのである。
「お母さん」
みゆきは、母の肩に手を置いた。
「──尚子」
父が居間へ入って来た。「大丈夫か?」
「ええ……」
尚子も青くなって、ガタガタ震えている。
「尚子……。私は……」
「お父さん」
みゆきは、遮って言った。「やっぱり、戻って来て良かったわね。お母さんのことが、何だか心配だって言って……。何かあったんじゃないかって気にして、帰って来たのよ。車を飛ばして」
新谷は、みゆきを見た。
「夫婦って、凄《すご》いわね。離れていても、そんなことが分かるんだから。──ねえ、お母さん」
「ええ……。そうね」
尚子も、半ば放心状態だ。
「ともかく、警察へ知らせなきゃ」
と、みゆきは言った。「電話、つながらないの? じゃ、きっと電話線、切ったんだわ」
「うん」
と、新谷が肯いた。「着いたとき、この娘が電話線を切ってるのを見たんだ。──何をやってるのか、隠れて見てた……」
「でも──ありがとう、あなた」
と、尚子はやっと息をついた。「あなたがいなかったら、私──殺されてたのね」
「本当ね」
みゆきは、母の肩を軽く叩《たた》いて 、「お隣へ行って、電話するわ」
と、急いで歩き出した。「あ、そうだ! お母さん」
「え?」
「タクシー、待たせたままなの! お金ちょうだい!」
と、みゆきは言った。
「──黙っていてすみません」
と、みゆきが頭を下げると、
「いや、こっちの怠慢だよ」
と、麻井が首を振った。「しかし、驚いたな! 鳴海が女の子にやられるとは!」
──今日は、大分大人びたムードの喫茶店だったので、麻井も落ちついていた。
「あの人、他にも殺してたんですか?」
「うん。父親がね、やっぱり刺されて死んでる。継母と二人、共謀してやったんじゃないかな」
「まあ、ひどい」
「今、その継母の方を調べている。──もうすぐ何もかも分かるだろう」
みゆきは、暖いティーカップを両手で挟んだ。
「私──怖かったんです。あの人、私のことぐらい、いつでも殺せるって……」
「うん、分かるよ」
麻井は肯いた。「たぶん、父親を殺すのに、鳴海を利用したんじゃないかな。そして、口をふさぐために殺した……」
「それを見た私を、また──」
「うん。君のことは、殺すよりも仲間に引き入れようとしたんだね」
「あの人……。彼のこと、知ってて、会わせてくれたんです」
「──暴走族の子か」
「ええ。私、ありがたいと思ってました」
「それは当然だな」
麻井は、コーヒーをガブ飲みして、「君──あの子が、三矢絹子を殺したかどうか、知らないか」
「あの人のアパートの……」
「うん。やっぱりあの女は、田所佐知子を見ていたんだ。だから口を封じたんだと思う」
「私……それは聞いていません」
と、みゆきは答えた。
手伝いはしたが、でも、ただアパートで三矢絹子とすれ違う役をやっただけだ。もし、三矢絹子が死ななかったときのために、佐知子は、わざとみゆきを見せて、絹子の記憶を曖《あい》昧《まい》にしておきたかったのだ。
「ま、田所佐知子がやったとすれば、毒物の入手経路で、何かつかめるだろう。──君も怖い思いをしたね」
「いいえ……」
みゆきは、少し間を置いて、「──麻井さん、父はどうなるんでしょう?」
と訊《き》いた。
「うん。──まあ、相手が一七歳というのはちょっとまずいが、しかし何人も殺していた犯人と分かれば、刺したのも仕方なかった、ってことになると思うよ」
「じゃ──罪にはなりません?」
「その心配はまずないと思う」
みゆきはホッとした。
「しかし──」
と、麻井は考え込んで、「実にドラマチックだったねえ。君のお父さんが旅行先から夜中に戻ると、あの娘がお母さんを、今まさに殺そうとしているところだった」
「刑事さん」
と、みゆきは言った。「犯罪って──実際にしなければ、罪にならないんでしょ?」
「そりゃそうだね」
「父も……きっと何か他にわけがあったのかもしれません。でも結局、母を助けたわけですし……。今、二人で話し合っています。そっとしておいて下さい」
みゆきは頭を下げた。「お願いします」
麻井はニヤリと笑った。
「君を嘆かせるようなことはしない」
「良かった!」
みゆきがホッと微笑《ほほえ》んだ。
「ご両親、うまく行きそうかい?」
「分かりませんけど……。今までみたいに、母が父に命令する、って夫婦じゃなくなりました」
みゆきの言葉に、麻井は笑った。
「──でも」
と、みゆきは言った。「なぜ、人を殺すんでしょう? ──分からないわ」
「うん。しかしね、人間ってのは弱いものだ。一度誘惑に負けると、二度、三度ってことになる。殺人犯は特別な人間なんかじゃない。我々と少しも変らない人間なんだよ」
みゆきは思い出した。あの、佐知子からの電話を。
「──殺したら?」
みゆきの中に、あの言葉が、母への殺意を芽生えさせて行ったのだ。
そう。──もし、あの偶然がなかったら、みゆきは殺人犯として、麻井の前に座っていたかもしれない。
麻井は、
「じゃ、また連絡するよ」
と言って、先に出て行く。
ちゃんと、みゆきの紅茶のお金も払って行ってくれた。
みゆきは腕時計を見た。──約束の時間を大分過ぎている。
紅茶を飲み干したとき、
「──新谷さんですか」
と、ウエイトレスがやって来た。
「はい」
「お電話ですよ」
「すみません」
カウンターへと走って、受話器を取る。「もしもし?──遅いじゃないの」
「悪いけど……」
と、牧野純弥が言った。「行けなくなったんだ」
「何か用事?」
「うん……。まあな」
「じゃ仕方ないね。──いつなら会える?」
「なあみゆき……。俺、嘘をついてた」
「──嘘?」
「他に女がいるんだ、俺。──騙したわけじゃない。本気でお前のこと、好きだった。だけどな……。やっぱり俺たちは無理だよ。もうこれきりにしよう。──な?」
みゆきは、顔から血の気のひくのが分かった。
「純弥……」
「アメリカ、行くんだろ? うんと楽しんで来いよ。こっちはこっちで、何とかやってくから。──楽しかったよ。じゃあ」
電話が切れても、みゆきは、しばらく受話器を握って立っていた。
いつ席へ戻ったのか、自分でも分からない。
やっぱり無理だよ……。楽しかったよ……。
女がいるんだ……。
みゆきは立ち上がった。
レジの所で、無意識に財布を出していた。
「もう、お代はいただいてます」
と言われて、ハッとする。
外へ出た。
みゆきは、明るいくせに光を失ったようなその世界を、歩き出した。
涙は出なかった。──もっともっと後になって、出るのかもしれない。
今は体の奥底に、傷が開き、血を噴いている。
電話ボックスがあった。
みゆきは中へ入ると、受話器を外し、十円玉を二枚入れた。
目をつぶって、指先でプッシュボタンの位置を確かめると、当てずっぽうに、八つの番号を押した。
──呼出し音が数回聞こえて、受話器が上がった。
「──はい。どなたですか?」
疲れたような女の声だった。たぶん、三十代の後半か、四十ぐらい……。
「もしもし?──どなた?」
苛《いら》立《だ》っているのは、今だけじゃない。いつも、毎日苛立っている声だ。
夫への不満か、お金の恨みか、裏切った男への憎しみか……。
「もしもし?」
みゆきは、低い声で、しかしはっきりと、
「殺したら?」
と言った。
「え?──何ですって?」
「殺したら?」
もう一度くり返すと、向うは沈黙した。
手応えを感じた。みゆきの言葉が、相手の中の隠れた鉱脈を探り当てたのだ。
みゆきは受話器をかけた。──一枚戻った十円玉を財布へ戻し、電話ボックスを出る。
──歩きながら、みゆきはさっきより、気持が軽くなっていた。
あの電話を受けた女性は、今ごろ自分の中に潜んでいた殺意と対面しているだろう。
殺意を、憎しみを抱く仲間が、ふえたのだ。
「すてきだわ!」
と、みゆきは声を出して言った。「もっともっと、ふえればいいんだ!」
みゆきは笑いながら空を仰いだ。その目から、やっと、涙がこぼれ始めていた。