車は、少しスピードを落とした。
「今日は成功だったな」
と、永《なが》原《はら》幸《ゆき》男《お》は言った。
まだ息を弾《はず》ませている。ホールの裏口から車まで走っただけなのだが、それでもくたびれてしまうのだ。
四十七歳《さい》という年《ねん》齢《れい》のせいもあったし、また、目が回るほど忙《いそが》しいのに、七十キロから一向に減ろうとしない体重のせいでもあった。
「でも、この次はもう、この手はきかないよ」
と言ったのは、助手席に座ったもう一人の男だ。
「明日のことは、また明日考えるさ」
と、永原は肩《かた》をすくめる。
「一度やってみたい方法があるの」
後部座席の左側に座ったア《ヽ》イ《ヽ》ド《ヽ》ル《ヽ》が言った。
「どんな手だい?」
と、永原が訊《き》く。
本気で訊いている、という口《く》調《ちよう》ではない。訊いてやらないと、アイドルの機《き》嫌《げん》が悪くなるからである。
「お客と一《いつ》緒《しよ》に正面から出るのよ」
「そいつはいいな。しかし、もしばれたら、命も危いよ」
永原はそう言って笑った。
アイドルは、別に反論するでもなく、窓の外へと目をやった。——その額には、まだ汗《あせ》が乾《かわ》き切らずに光っている。
大《おお》内《うち》朱《あき》子《こ》は、マンションのバスルームはちゃんと掃《そう》除《じ》してあったかしら、と考えていた。——確か、出て来るときに覗《のぞ》いたはずだけど。でも、考え出すと自信がなくなってしまう。
考えれば考えるほど、忘れたような気がして来るのだ。これは朱子の持って生まれた性格というものだった。
大内朱子は、アイドルではない。後部座席の真中に座っている。
——あの浮《ふ》浪《ろう》者《しや》が、「男が三人」と思ったのは、朱子が、ジャンパーにジーパンという格《かつ》好《こう》をして、髪《かみ》も、ちょっとした男の長《ちよう》髪《はつ》よりも短く、切ってしまっていたからである。
それに、朱子は、もともと男っぽい、肩《かた》の張った、いかつい体つきをしていた。
大内朱子は十九歳《さい》だ。——このアイドルの「付《つき》人《びと》」をしている。
アイドルは、いつの間にかまどろんでいるようだった。——今、おそらく、日本人で、ごくたまにでもテレビを見、週刊誌の車内吊《づ》り広告を眺《なが》める人間なら、知らない者はまずない顔だった。
たとえ、中年過ぎの男たちが、彼女と他《ほか》のアイドルの見分けがつかなくても、少なくとも名前ぐらい、知らぬはずはなかった。
星《ほし》沢《ざわ》夏《なつ》美《み》。——これがアイドルの名である。芸名らしい名だが、実は本名だった。
十七歳。あと一か月足らずで、十八になる……。
「明日は久しぶりに休みだよ」
助手席の男が言った。永原よりも大分若いくせに、頭はかなり薄《うす》くなっている。
星沢夏美は、返事をしなかった。
「——寝《ね》ちゃったみたいだ」
と、永原がそっと首をのばして、様子をうかがう。
「そうか。——でも、朱子君、ちゃんと風《ふ》呂《ろ》に入るように、夏美に言ってくれよ」
「はい」
と、朱子は答えた。
朱子は、ちゃんと心得ている。いちいち言われるまでもなく、夏美はお風呂に入るだろう。
ともかく、何が好きといって、お風呂くらい、夏美の好きなものは、他にないのだから。
朱子が夏美の付《つき》人《びと》になって、もう二年たつ。その頃《ころ》、まだ夏美はやっと少し名前を知られかけた新人に過ぎなかった。
だから、朱子の仕事もそれほど忙《いそが》しくはなく、夏美の仕事がない日には、適当に休みも取れた。それが今は——この前、いつ休みを取ったか、思い出せないくらいだ。
「——眠《ねむ》っちゃったわ、本当に」
と、朱子は、夏美が軽く寝《ね》息《いき》を立て始めたのを聞いて、言った。
話をするのが面《めん》倒《どう》で、タヌキ寝入りをしているのか、それとも本当に眠り込《こ》んでしまったのか、それが分かるのは朱子ぐらいのものだろう。
「今週はそんなに詰《つ》まってなかったんじゃないか?」
と、助手席の男が言った。
朱子は、この男が嫌《きら》いである。一言で言えば、「やり手」ということになるのだろうか。名は安《やす》中《なか》といった。夏美の所属するプロダクションの常務である。
社長が、いささか昔《むかし》風《ふう》の、「太っ腹」なタイプなのと好対照で、安中はいかにも計算高い「実利派」である。タレントを、稼《かせ》ぎ高の数字でしか見ていない。
「でも、移動ばかりで、よく眠ってないんですよ」
と、朱子は言ってやった。
夏美の平均睡《すい》眠《みん》時間は四時間。それも、車内、機内での仮《か》眠《みん》を含めてである。今週は多少眠る時間があったと言っても、移動が多かったから、それだけ眠れたはずだ、というだけのことだ。
「明日は一日寝《ね》かしといてやれよ」
と、マネージャーの永原がのんびりと言った。
「あんまり寝すぎても、却《かえ》って疲《つか》れが出るぞ」
と、安中が言った。
ともかく、人の言うことに、必ず文句をつけなければ、気の済《す》まない男なのだ。
「明後日《あさつて》は早いんだっけ?」
と、永原が手帳を出すと、車内灯を点《つ》ける。
「君がよくつかんでなきゃ、仕方ないじゃないか」
「分かってる。——八時、TBSか。六時半だな、迎《むか》えは」
「私も分かってますから」
と、朱子は言った。
「ああ」
永原は肯《うなず》いた。「君がしっかりしててくれるんで助かるよ」
——朱子は、さっきから気になっていた。小さなライトが、ずっと後ろをついて来るのである。
オートバイか? いや、きっとミニバイクみたいなものだろう。偶《ぐう》然《ぜん》、同じ道を走っているにしては、間《かん》隔《かく》も、ほとんど変らない。
「運転手さん」
と、朱子は言った。「少しスピードを上げてみて」
「はあ」
運転手は、戸《と》惑《まど》ったような声で答えて、アクセルを踏《ふ》み込んだ。ぐい、と体がシートに引き寄せられる感じがする。
「——スピードを落として」
と朱子は言った。
「どうしたんだ?」
と、安中が振《ふ》り向く。
「やっぱりそうだわ」
と、朱子は言った。「後ろから誰《だれ》かついて来ます」
永原が振り向く。
「——あのバイクか。ヘルメットをかぶってるな」
「ええ。さっきからずっとついて来てるんです」
「よく気が付くね」
永原は感心した、というよりは呆《あき》れたような調子で言った。
「そうついて来れやしないさ」
安中は、むしろ楽しそうだった。「運ちゃん、振り切ってくれよ」
「分かりました」
ぐん、とスピードが上がる。朱子は、振り向いて、後ろのライトが、どんどん遠ざかって行くのを見ていた。やがて見えなくなる。
「——もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ」
と、永原は息をついた。「やれやれ、物好きな奴《やつ》がいるもんだな」
「その物好きな連中が、夏美のレコードを買ってくれるんだぜ」
と、安中が言った。「——ああ、僕は次の交差点で降りる。ちょっと停《と》めてくれ」
「何だ、会社へ戻《もど》るのかい?」
「ポスターの打ち合わせで、デザイナーを待たせてるんだ」
「じゃ、僕も降りるよ、Fホテルに寄りたいんだ」
と、永原は朱子を見て、「後は大丈夫だね?」
「ええ。構いません」
朱子は、むしろホッとしている。永原はともかく、安中が一《いつ》緒《しよ》だと、何だか息が詰《つ》まるような気がするのだ。
——安中と永原が降りて、車の中が急に広くなったような気がする。
車が、また走り出すと、夏美が、半分眠《ねむ》ったままの顔で、
「着いたの?」
と訊《き》いた。
「まだ。寝《ね》てていいわよ」
「ふうん……」
夏美は、またすぐに寝入った。朱子の方へ寄りかかって来る。朱子は、膝《ひざ》の上に、そっと夏美の頭をのせてやった。
マンションまで三十分はかかる。
「運転手さん。少しゆっくりやって」
と、朱子は言った。
——大内朱子は、もともと、芸能界に憧《あこが》れて、この世界に入ったわけではない。
芝《しば》居《い》が好きだ、というのならともかく、鏡を見れば、スターとかアイドルとかには無縁であることは、公平に見て明らかだった。
朱子は、もともと看護婦になりたかったのである。それが、同じ「人の世話」でも、スターの付《つき》人《びと》になろうとは、自分でも思っていなかった。
九州から一人で上京して、あてにしていた就職先が、何とその前日に倒《とう》産《さん》していると知ったとき、朱子は途《と》方《ほう》にくれてしまった。
中学のときの同級生を尋《たず》ねて、朱子はあるTV《テレビ》局に行った。そこで、たまたま、永原に紹《しよう》介《かい》され、聞いたこともない新人の付人をやらないか、と言われたのだ。
長くやるつもりは別になく、看護学校へ入るまでの、ほんのアルバイトのつもりだったのだが、周囲の状《じよう》況《きよう》の急変が、朱子をも巻《ま》き込《こ》んでしまった。
朱子は、少し口を開き加減に、眠《ねむ》り込んでいる夏美を見下ろした。——そこにいるのは、華やかなスポットライトの中で歌っているアイドル、星沢夏美でなく、どこにでもいる十七歳《さい》の少女だった。
車がマンションの地下の駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》へと滑《すべ》り込《こ》んで停《と》まった。
「ありがとう。——夏美さん、起きて」
軽く揺《ゆ》さぶると、夏美は目を開いた。
「——着いたの?」
「そう。さ、早くお風《ふ》呂《ろ》に入って寝《ね》たほうがいいわ」
「そう……」
起き上がると、アイドルは大欠伸《あくび》をした。
——マンションの最上階、八階が二人の部《へ》屋《や》である。表《ひよう》札《さつ》は出ていない。
都心のマンションのせいか、普《ふ》通《つう》のサラリーマンはあまりいないようで、他《ほか》の住人に出会うことは滅《めつ》多《た》にない。
「——目が覚めた?」
明りを点《つ》けて、朱子は言った。
「何とかね」
夏美は思い切り伸《の》びをした。
「何か食べる? お風《ふ》呂《ろ》に入ってる間に、買って来ようか」
「そうねえ……。脂《あぶら》っこいものはいや。お茶《ちや》漬《づけ》でも食べたい」
無理もない。外へ出れば、弁当や丼《どんぶり》物《もの》ばかりで、脂っこいものに、うんざりしているのだ。
「じゃ、冷《れい》凍《とう》のご飯でも買って来ようか」
と、朱子は、夏美のドレスの背中を開けながら言った。
「お願い。海苔《のり》とお茶でアッサリと食べたい」
「じゃ、買って来ておくわ。のんびりお風呂に入っていてちょうだい」
「一時間はたっぷり入るから」
と言って、夏美は笑った。
やっと目が覚めた、という様子である。多くのファンを魅《ひ》きつける笑《え》顔《がお》が、そこにあった。
「お湯を入れて行くから」
と、バスルームのほうへ朱子が行きかけると、
「自分でやるからいいわ」
と、夏美が止めた。「買物に行って来て。遅《おそ》くなるわ」
「そう?——じゃ、着《き》替《が》えはいつもの所」
「うん、分かってる」
と、夏美は肯《うなず》いた。
朱子は財《さい》布《ふ》を手に、部《へ》屋《や》を出た。鍵《かぎ》をかけて、エレベーターのほうへと歩き出す。
——場所柄《がら》だろうが、二十四時間開いているスーパーが、近くにあって、夜中まで結構繁《はん》盛《じよう》している。
「明日のおかずもいるか……」
一階のロビーを抜《ぬ》けて、顔見知りのガードマンへ、
「今晩は」
と声をかけ、外へ出る。
少し、風が出ていた。
寒い、というほどでもないが、ちょっと足を早めた朱子は、マンションの向かい側に置かれたミニバイクに気付かなかった。
朱子が通りを急ぎ足で渡って行くのを、星沢夏美はカーテンの隙《すき》間《ま》から見ていた。
玄《げん》関《かん》のほうへと歩いて行くと、チェーンをかけ、居間へ戻《もど》った。
セーターとスカートを身につけて、大きく息をつく。
それから、隣《となり》の部《へ》屋《や》へ入って、明りを点《つ》けた。——夏美の寝《しん》室《しつ》である。
朱子の手で、きれいに片付けられていた。十七歳《さい》の女の子らしい、可愛《かわい》い部屋である。
歌手の部屋らしいものといえば、アップライトのピアノ、そしてオープンリールのテープデッキ。スピーカーが、ベッドの両サイドに置かれている。
夏美は、本《ほん》棚《だな》の下のほうへ身をかがめると、オープンリールのテープを取り出した。
慣れた手つきで、デッキにかける。アンプの電源を入れて、ボリュームを上げて行くと、スピーカーから、かすかにブーンという音が聞こえて来た。
テープデッキのプレイボタンを押《お》すと、低いテープノイズがスピーカーから聞こえて来る。少しボリュームを絞《しぼ》った。
低い絃《げん》の響《ひび》きが、部《へ》屋《や》に広がって行った。
木《もつ》管《かん》楽《がつ》器《き》が、哀《あい》愁《しゆう》を感じさせる旋《せん》律《りつ》を奏《かな》でると、夏美は、そっとピアノの蓋《ふた》を開け、椅子《いす》に腰《こし》をおろした。
絃《げん》楽《がく》が、さざ波のような音型で伴《ばん》奏《そう》をつける、その上に、夏美の指が、木管の吹いたメロディを描《えが》いて行った。
夏美の顔からは、幼なさが消えていた。じっと目を閉じたまま、右手だけで、旋律を弾《ひ》いて行く表情は、ひどく大人《おとな》びて見える。
——しばらく進んだところで、手が止まった。
夏美は、立ち上がると、テープデッキへと歩み寄り、テープを止めて、巻《ま》き戻《もど》した。そして、また初めから、テープを回し始めた。
だが、今度はピアノの前には座らない。部屋の中央へと進み出ると、真っ直《す》ぐに立って、両手を胸の前でかるく握《にぎ》り合わせた。
心もち、顎《あご》を引いて、瞼《まぶた》を軽く閉じる。
木管のメロディが、ゆるやかに部屋をめぐり始めると、夏美は大きく息を吸い込《こ》んだ……。