「克《かつ》彦《ひこ》、いい加減に起きなさいよ」
という声が耳もとで聞こえた。
何だよ、せっかくいいところなのに……。
もうちょっと寝《ね》かしといてくれればいいじゃないか。
「ほら、克彦!」
克彦は、ハッと頭を上げた。——首が痛い。
それも当然で、机に突《つ》っ伏《ぷ》したまま寝ていたのだ。
あれは夢だったのだろうか?
「あんた、ゆうべ何時に帰ったの?」
と、母親の雅《まさ》子《こ》が言った。
「うーん、二時か三時……」
「いくら大学に入ったからって、いい加減にしなさいよ」
「分かってるよ」
と、克彦は言った。「何か食べるもの、ある?」
「起きたばっかりで、よく食べられるわね」
と、雅子は呆《あき》れたように首を振《ふ》った。「今、お昼を食べるから、降りてらっしゃい」
母親が出て行くと、克彦は、頭を振った。——ああ、畜《ちく》生《しよう》!
机の上に、軽いヘッドホンが落ちている。ウォークマンを見ると、テープは、完全に終わって、スイッチが切れていた。
聞いている内に眠《ねむ》っちまったんだ。
「じゃ、やっぱり夢じゃなかったのか……」
と、克彦は呟《つぶや》いた。
巻《ま》き戻《もど》しのボタンを押《お》す。もう一度、聞いてみよう。
克彦は、テープがせっせと巻き戻されている間に、洗面所に行って顔を洗った。
「ああ眠い!」
変な格《かつ》好《こう》で眠っていたせいか、首が痛くて仕方ない。
「タオル、タオル……」
と、手を伸《の》ばすと、ヒョイと、その上にタオルが落ちて来た。「——ん?」
急いで顔を拭《ふ》いて振《ふ》り向く。
「何だ、お前、いたのか」
「失礼ねえ。お礼ぐらい言いなさいよ」
妹の千《ち》絵《え》が腕《うで》組《ぐ》みをして立っていた。
「学校、さぼってんのか」
「何を寝《ね》ぼけてんの。今日は創《そう》立《りつ》記念日」
「へえ。生意気にも、そんなものがあるのか」
「昨日《きのう》そう言ったじゃない」
「忘れたよ」
と、克彦はタオルをヒョイとかけて、部《へ》屋《や》へ戻《もど》る。
千絵がノコノコついて来た。
「何だよ、くっついて来て」
「悪い? 私の家よ」
「勝手にしろ」
克彦は、ベッドにひっくり返った。
——本《ほん》堂《どう》克彦は十八歳《さい》、妹の千絵は十六歳の生意気盛《ざか》りだった。
この二人、とてもよく似ている。もちろん、克彦はヒョロリと背が高く、千絵はどっちかといえば小《こ》柄《がら》なほうだが、顔立ちは、並《なら》んで歩けば、一目で兄《きよう》妹《だい》と分かるくらい、そっくりだった。
おかげで、克彦は友人たちから、
「お前が女の格《かつ》好《こう》すりゃ、姉で通るぜ」
とからかわれている。
しかし、千絵のほうは、兄に似ているということを、公《ヽ》式《ヽ》に《ヽ》は《ヽ》認めていない。友だちから、
「お兄さん、そっくりね」
と言われると、いつもむきになって、
「ちっとも似てないわよ!」
と反論していた。
しかし、断っておくが、この千絵、丸顔で少しふっくらしているが、モデルにならないかと誘《さそ》われたこともあるくらい、可愛《かわい》い顔立ちなのだ。
従って、当然のことながら克彦もなかなかもてるのである。
兄妹は、この家に母の雅子と三人で住んでいる。父親は二年前に、急に心臓発《ほつ》作《さ》で死んでしまった。
まるでその徴《ちよう》候《こう》もない、元気な働き盛《ざか》りだったのに、朝、ちょっと気分が悪い、と、寝《しん》室《しつ》へ戻《もど》り、三十分して、雅子が、
「もう行かないと遅《おく》れるわよ」
と呼びに行ったときは、既《すで》に冷たくなりかけていたのである。
一流企《き》業《ぎよう》の課長で、近々、最年少の部長かとさえ噂《うわさ》されていたエリート。この家も、つい半年前に建てたばかりで、さて、頑《がん》張《ば》るぞ、と、本人も張り切っていた、その矢先だった。
——でも、保険に入っていたから、この家のローンは払《はら》えたし、それに、貯金や保険金で、三人の生活は充《じゆう》分《ぶん》にやって行けた。
加えて、雅子はのんびり屋で、いつまでもくよくよしている性質ではなかったから、今はすっかり立ち直って、趣《しゆ》味《み》のクラスへ通ったりして、飛び回っていた。
しかし、そのとき十六と十四だった克彦、千絵の兄《きよう》妹《だい》には、父親の突《とつ》然《ぜん》の死は、大きく影《えい》響《きよう》を与えた。
人の運命なんて分からない……。
十六にして、克彦はそう悟《さと》っていた。
おませな千絵のほうは、十六になったら早く結《けつ》婚《こん》して楽をしようと決心していた。——もっとも、今、その年《ねん》齢《れい》になっても、別に亭《てい》主《しゆ》を連れて来る気配はなかったが。
ともかく、克彦のほうは、父のいない家の中で、男は俺《おれ》一人なんだから、と思っていたし、千絵は千絵で、うちの兄貴は頼《たよ》りにならないからね、などと考えていた……。
——さて、それはともかく、千絵は、赤いセーターとキュロットスカートというスタイルで、兄の部《へ》屋《や》の中を見回すと、
「——ゆうべ、どうだったの?」
と、訊《き》いたのだった。
「あ、そうだ」
克彦は起き上がった。「そのウォークマン、取ってくれよ」
「何が入ってんの?」
「録《と》って来たんだ、彼《かの》女《じよ》の歌」
「へえ。星沢夏美の?」
千絵は、まるでその曲が目に見えるとでもいうように、カセットテープを目の前に持って来て眺《なが》めた。「何を録ったの?」
「分からないんだ」
「だらしないわね! 彼女のレコード、全部持ってるくせして」
「そうじゃないんだよ。貸せよ」
克彦は、カセットを入れたウォークマンを、妹の手から引ったくるようにした。
「乱暴ねえ。もてないよ」
「妙《みよう》なんだ。——どうなってんだか、まるで分かんねえ」
「何が?」
克彦は、ちょっと天《てん》井《じよう》へ目をやって、
「変なんだ」
と言った。
「変な兄さん」
と、千絵が肩《かた》をすくめる。
克彦はベッドに起き上がった。
「聞けよ。——俺《おれ》、ついて行って、見付けたんだ、彼女のマンション」
「本当?」
「本当だよ。で、一番上の階——八階だったんだ」
「そこまでついて行ったの?」
「下で見てたのさ。パッと明りが点《つ》いたから分かったんだ」
「それで?」
「で、マンションの中に入ろうとしたけど、入口はガードマンがいて、入れないんだ」
「そうでしょうね」
「非常階段を上がることにしたんだ。ちょうどベランダのすぐわきを上がってる」
「八階まで上がったの?」
「もちろんさ! 途《と》中《ちゆう》でちょっと休んだけどな。あんまり足音たてちゃまずいだろ」
「で、どうしたのよ?」
と、千絵がジリジリしながら言った。
「ベランダに飛び移ったんだ! スリルあったぜ」
「嘘《うそ》だあ」
と、千絵が目を丸くした。「本当なら、お兄さん、馬《ば》鹿《か》だね」
「よく言うよ、こいつ!」
克彦は千絵の頭をこづいた。「ベランダとは五十センチしか離《はな》れてなかったんだ」
「なんだ。——でも、家宅侵《しん》入《にゆう》じゃない」
「黙《だま》って聞けよ! それで、カーテンの隙《すき》間《ま》から、中を見てたんだ。——あれ、きっと彼《かの》女《じよ》の部《へ》屋《や》なんだな。テープデッキとか、ピアノとかが置いてあった」
克彦は続けた。「——しばらくすると、彼《かの》女《じよ》が入って来て、テープをかけた。ガラス戸の上の小窓が開いていて、音楽が聞こえて来た。だから、急いで、このウォークマンで録音したんだ。聞いてみろよ」
ヘッドホンを千絵につけさせ、克彦は、プレイボタンを押《お》した。——雑音が多いが、その中から、やがて木《もつ》管《かん》のメロディが流れ出た。
「——これ、何の曲?」
「分かんないんだ。でも、どう考えたって、彼女の持ち歌じゃない」
ピアノの音が入って来た。
ピアノをやっている千絵が、ちょっと耳をそばだてる。
「このピアノ、誰《だれ》が弾《ひ》いてるの? テープの音じゃないみたい」
「うん、生《なま》の音だよ。彼女が弾いてるんだ」
「嘘《うそ》! だって——」
「そうなんだ。おかしいだろ。でも、確かに彼女が弾いてる」
「あの人、ピアノは弾けないって——」
「そうさ。いつもショーの中で、ピアノを弾いてるけど、人さし指だけでポツン、ポツン、とやってるんだぜ」
そうなのだ。星沢夏美はピアノを弾けない。それを、たどたどしく弾いてみせるので、またファンは大喜びするのだった。
「——でも、これは、かなり慣れた弾《ひ》き方だわ」
と、千絵が言った。「右手だけで弾いてるのね。——うまいわ。相当弾ける人よ」
「だろう? でもな、それだけじゃないんだ」
「あ、止まった。まだあるの?」
「聞いててみな」
克彦は、またベッドに寝《ね》そべった。
「——同じテープを回してるのね」
千絵は目を閉じて聞き入った。
木《もつ》管《かん》楽《がつ》器《き》が、哀《あい》愁《しゆう》のこもったメロディを奏《かな》でる。そして、ピアノが入って……、いや、そうじゃない!
歌だ!——ピアノでさっき弾いたメロディを、歌っている。
千絵は、しばらく、その「歌」に聞き入っていたが、やがて、ヘッドホンを耳から外し、テープを止めた。
「——誰《だれ》の歌?」
「彼《ヽ》女《ヽ》だよ」
「嘘《うそ》!」
「本当さ。ちゃんと、歌ってるところを、この目で見たんだ」
「——信じられないわ」
と、千絵は言った。
「あのテープには、歌は入ってなかった」
「きっとMMOのテープなのよ」
「何だ、それ?」
「ミュージック・マイナス・ワンのこと。ソロ(独奏)を抜《ぬ》いた、伴《ばん》奏《そう》だけのテープ」
「カラオケか、要するに」
「そうね。でもクラシックの場合は、あんまりカラオケとは言わないわ」
「ピアノにもあるのか、あんなの?」
「もちろん」
と、千絵は肯《うなず》いた。「大きなレコード屋さんに行けば、売ってるわ。ピアノ協奏曲で、ピアノだけ抜いたのとかね。——でも、あの歌は……」
「何の歌か分かるか?」
「イタリア語みたいね。きっとオペラのアリアだわ」
「アリアって——」
「ほら、『女心の歌』とか『闘《とう》牛《ぎゆう》士《し》の歌』とかあるじゃない、オペラの中で歌うのが」
「何て歌だろう?」
「オペラは弱いんだ。でも、これが本当に星沢夏美の声だったら……」
「正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》、生《ヽ》録《ヽ》音《ヽ》だよ」
「凄《すご》いソプラノじゃない! 音程だって、きちっとしてるし、ずっと高い声も出てるし」
「それに凄《すご》い声量なんだ。そばで聞いてて、びっくりしたもんな」
「つまり——どういうこと?」
克彦は首を振《ふ》った。
「分からねえな、あの下手《へた》な歌と、同じ人間が歌ってるんだ。——変な話だろ?」
千絵は肯《うなず》いた。
星沢夏美は、典型的な「アイドル歌手」である。テレビがない時代だったら、とても歌手にはなれなかったろう。
ともかく、可愛《かわい》い。若い世代だけでなく、大人たちをも魅《ひ》きつけるものを持っていた。
TVのCMも、五、六本に顔を出している。ただ——歌はひどいものだった。
正《まさ》に、現代の録音と「加工」の技術が、夏美をスターにした、といってもいいだろう。
音程定まらず、声ものびず、音域は狭《せま》いと来ている。作曲家が、彼《かの》女《じよ》に合わせた歌を作るのに苦労するという話が、ごく当然のように週刊誌にも出ていた。
芸能人を持ち上げる記事で埋《う》まっている週刊誌ですら、「歌は上手じゃないけど、ハートがある」という表現にせざるを得なかった。
星沢夏美は、思い切りエコーをかけたマイクと、歌がかすれそうな、バックの音楽とで何とかもっているのだった。
それに、歌詞もほとんど聞き取れない。それでも、ファンは、そこに本《ヽ》物《ヽ》がいる、というだけで満足するのである。
「ゆうべのワンマンショーは、どうだったのかしら?」
と、千絵が訊《き》いた。
「うん……。前半だけ聞いたけど、いつもの通りだよ。ちっとも、うまくなんてなっていない」
千絵は、またテープを進ませた。ヘッドホンからは、きれいにか細くのびた、高音のピアニシモが聞こえて来る。
「私、声楽のことは分からないけど、この歌は大したもんじゃない?」
「うん、俺《おれ》もそう思う。——お前、誰《だれ》か、その手の歌に詳《くわ》しい人、知らないか?」
「そうねえ……」
千絵はちょっと考えて、「あ、音楽の先生なら、きっと知ってるわ。オペラ・ファンなの」
「へえ。あんなわけの分かんないものに夢《む》中《ちゆう》になる奴《やつ》もいるんだな」
と、克彦は、素直な感想を述べた。
「一度これを聞いてもらって——どうしたの、このテープ?」
千絵は、あわててヘッドホンを外して、頭を振《ふ》った。「急にガーンと来たわ」
「見付かっちまったのさ」
「ええ?」
「ベランダに、何だか植木があったんだ。つい、それ引っくり返してな」
「ドジ! で、どうしたの?」
「逃《に》げたよ。同じルートで」
「非常階段から?」
「うん。向こうはベランダに出て来て、見てたけど、追っかけちゃ来なかった」
「捕《つか》まったら、泥《どろ》棒《ぼう》よ。全く、危いことやって! お母さんに知れたら大目玉だわ」
「おい、しゃべるなよ」
「分かってるって。でもね——」
「何だよ」
「そろそろ食べに行かないと、怒《おこ》られるんじゃない?」
と、千絵が言ったとき、下から、
「克彦! いつまでも何やってるの!」
と、雅子の声が聞こえてきた。