誰《だれ》だって、朝早く——まだ明るくなるかならない内に叩《たた》き起こされたら、面《おも》白《しろ》くはない。
特に、前の晩、寝《ね》たのが十二時過ぎとなれば、睡《すい》眠《みん》は五時間にも満たないわけで、いくらよく「出来た」人間でも、不《ふ》機《き》嫌《げん》になろうというものだ。
加えて、門《かど》倉《くら》刑《けい》事《じ》のことを、「出来た人だ」と賞《ほ》める者は、あまりいなかった。
もちろん、全《まつた》くいなかったとは言い切れないが、少なくとも門倉の周囲には、あまりいなかったのである。
もっとも、刑事があまり良く出来ていて、人格者だったら、却《かえ》ってやりにくいかもしれないが。
「何だってこんな時間に」
と、門倉は、欠伸《あくび》をしながら、ふてくされて、言った。
しかし、殺人事件などというものは、朝九時から夕方五時までの間に都合良く起きてはくれない。むしろ、夜とか、深夜に多いだろう。
パトカーは、まだ明けぬ町の中を、駆《か》け抜《ぬ》けていた。
「現場はどこだ?」
と、門倉は運転している警官に訊《き》いた。
「病院です」
「病院か。——どうせなら犯人も、死体を他《ほか》の患《かん》者《じや》の中に紛《まぎ》れ込《こ》ませとけば分からなかったのにな」
それなら、こんな時間に呼び出されることもなかったろう、という門倉の理《り》屈《くつ》である。
——門倉は、グチっぽい割りには、まだそれほどの年《ねん》齢《れい》でもない。
やっと四十になったばかりだ。もちろん、若い女の子から見れば、もう充《じゆう》分《ぶん》な年齢だが、停年までは大分ある。
せめて、警部にまでは昇《しよう》進《しん》してから死にたい、と門倉はいつも思っていた。
大《だい》体《たい》、いつも機《き》嫌《げん》が悪い。——殺人事件などと年中付き合っているのだから、同情すべき余地はあるが、いくぶんかは当人のせいもあった。
門倉は独《ひと》り者だ。未《み》婚《こん》ではないが、女《によう》房《ぼう》に逃《に》げられたのである。それ以来、ずっと不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔をしている、と言われていた。
それが事実なら五年間、不機嫌のまま、ということになる。
「まだ五分以上かかるか」
と、門倉は訊《き》いた。
「いえ、二、三分ですよ」
「そうか」
門倉はがっかりした。五分以上あれば眠《ねむ》っておこうと思ったのだ。
「——あそこです」
言われて、前方を見て、門倉は目を見張った。——やたら沢《たく》山《さん》の車が、道を塞《ふさ》いでしまっている。
オートバイもあるが、何とTVの中《ちゆう》継《けい》車《しや》が来ている!
「何だ、病院でプロ野球でもやるのか?」
と、門倉は言った。
パトカーが停《と》まると、駆《か》けて来た若い刑《けい》事《じ》がドアを開けてくれた。
「本庁の門倉さんですか」
「そうだ」
「お待ちしてました」
門倉は、TVカメラが自分のほうへ向かないので、ちょっと不《ふ》愉《ゆ》快《かい》になった。そのくせ、もし向けられたら、
「うるさいな」
とにらみつけるのである。
女《によう》房《ぼう》に逃《に》げられた四十男の心情は屈《くつ》折《せつ》しているのだ。
「えらい騒《さわ》ぎで——」
若い刑《けい》事《じ》は、病院へ入りながら言った。「朝の放送が始まったら、もっと、もっと大変ですよ」
「何をそんなに騒いでるんだ?」
門倉の言葉に、若い刑事はちょっと面《めん》食《く》らった様子で、
「ご存知ないんですか?」
と言った。
「眠《ねむ》い所を叩《たた》き起こされたんだ。何も聞いとらん」
「そうですか。いや——殺されたのは、永原って男でして」
「有名な奴《やつ》か」
「いえ、そうじゃありません。でも、星沢夏美のマネージャーだったんです」
門倉は、ちょっと間を置いて、
「——誰《だれ》のマネージャーだって?」
と訊《き》き返した。
「あ、星沢夏美っていうのは、今、若い子たちに凄《すご》い人気のアイドル歌手なんです」
「ふーん。歌い手か」
「その子が自殺未《み》遂《すい》を図《はか》りまして」
「自殺?」
「カミソリで手首を切ったんです」
「死んだのか?」
「いえ、大したことはなかったようです。でも、一応ここに入院したいと——」
「で、殺しのほうはいつ起こったんだ?」
「星沢夏美の病室で、永原が刺《さ》し殺されていたんです」
「ほう」
「死体はベッドの下に押《お》し込《こ》んでありました」
「それで——そのアイドル歌手は?」
「それが妙《みよう》でして……」
「どう、妙なんだ?」
「行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》なんです」
門倉は、ゆっくりと肯《うなず》いた。
「病院から出て行ったのか」
「今、手分けして、もう一度捜《さが》していますがたぶんむだでしょう。病院を脱《ぬ》け出したらしいです」
若い刑《けい》事《じ》は、ちょっとため息をついて、「僕《ぼく》も彼《かの》女《じよ》のファンなんですけどね……。まさか彼女が——」
「その子がどうしたというんだ?」
門倉がそう言うと、若い刑《けい》事《じ》は、ちょっと面《めん》食《く》らって、
「いえ——つまり——彼女がいなくなって、死体が後に残って——」
「つまり、その何とかいう歌手が犯人だ、と思っているわけだな。そうか?」
「はあ……。たぶん——」
「そういう先入観が、捜《そう》査《さ》を誤《あやま》らせるんだ!」
門倉は、いきなり凄《すご》い声で怒《ど》鳴《な》った。「よく憶《おぼ》えとけ!」
「あ、すみません」
刑事のほうは青くなって、直立不動の姿勢を取った。
「病院の中では静かにして下さい」
と、看護婦が飛んで来て言った。
門倉は咳《せき》払《ばら》いをした。
「現場はどこだ?」
「ここです」
と、若い刑事がドアを指さす。
「そうか」
門倉は中に入って行った。
「やあ、あんたか」
検死官が、門倉を見て、言った。
「俺《おれ》で悪かったな」
「そうひねくれるな。——この殺しは慎《しん》重《ちよう》にやらんと。間《ま》違《ちが》っても、容疑者は星沢夏美だなんて発表するなよ」
「夏美さんは人殺しなんかしません!」
と、突《とつ》然《ぜん》割り込《こ》んだのは——。
「何だ、君は」
と、門倉は、その女を見た。
「夏美さんの付《つき》人《びと》です。大内朱子といいます」
「ふーん。付人か。——ちょうどいい。話を聞こう」
門倉は、空《から》のベッドへ目をやった。「ここに寝《ね》てたのか、その娘《むすめ》は?」
「夏美さんですか? そうです」
「よし。——ともかく、順序立てて説明してくれ。自殺未《み》遂《すい》をやったそうだが、その話から」
「分かりました」
朱子は、ちょっと考えをまとめようとするかのように、間《ま》を置いてから、話し始めた……。
もう、昼に近かった。
克彦は、ドンとけとばされて、飛び起きた。
「ああ、びっくりした!」
「いつまで寝てんのよ」
もちろん、やったのは千絵である。
「——ひどい妹だな。けとばすことないだろ!」
「何時だと思ってんの?」
「十一時じゃないか。まだ午前中だ」
克彦は、ブツブツ言いながら、起き上がった。
「お母さん、出かけちゃったわよ」
「そうか。——何か食うものあるのかな」
「レンジで温《あたた》めるだけになってる」
「分かったよ。お前、珍《めずら》しいじゃないか、出かけないなんて」
克彦がベッドから出て大欠伸《あくび》をする。
「呆《あき》れた。出かける気になんてなれないわよ」
「へえ。でも——あ! そうだ!」
克彦はパジャマを脱《ぬ》ぎながら、「ゆうべ凄《すご》い夢《ゆめ》見ちゃった。彼《かの》女《じよ》がうちへ来て泊《とま》るんだ」
「彼女って?」
「星沢夏美だよ。決ってるじゃないか」
克彦は、服を着て、洗面所でアッという間に顔を洗《あら》った。「何か、凄くリアルな夢だったな。仁科さんまで出てきてさ」
「へえ。面《おも》白《しろ》そうね」
——克彦は、ダイニング・キッチンへと入って行きながら、
「彼《かの》女《じよ》が病院を脱《ぬ》け出してさ、僕《ぼく》らのタクシーに飛び込《こ》んで来るんだ。ドラマチックだろ。母さんにいかにして隠《かく》すか——」
「おはよう」
ダイニング・キッチンのテーブルに、見知らぬ女の子が座っていた。いや、見知らぬ女の子じゃない!
「あの——」
と、克彦はポカンとして、その顔《ヽ》を眺《なが》めていた。
「ゆうべはご迷《めい》惑《わく》かけて、ごめんなさい」
と、夏美が言った。
「じゃ——本当だったんだ」
克彦は、椅子《いす》に座った。
「お兄さんも頼《たよ》りないわね」
と、千絵がため息をつく。「そんなことじゃ、彼女を助けてあげられないわよ」
「助けるって?」
克彦はキョトンとして、言った。
「いいの」
と、夏美が急いで言った。「これは私の問題ですもの。あなた方に迷《めい》惑《わく》はかけられないわ」
「そんな!」
千絵は首を振《ふ》って、「お兄さん、こう見えても、結構、頑《がん》張《ば》り屋なんですよ」
「こう見えても、ってのは何だよ」
「馬《ば》鹿《か》。新聞、見てごらんなさいよ」
「馬鹿って、お前なあ——」
新聞が目の前に置かれた。
克彦の目に、〈殺さる〉という文字が飛び込《こ》んで来た。そして、夏美の写真、〈アイドル歌手、姿を消す〉の見出し……。
「私のマネージャーが殺されたの」
と、夏美は言った。
「マネージャーが?」
「しかも、彼女の病室で死んでたのよ」
と、千絵が言った。「疑いが、彼《かの》女《じよ》にかかってるわけ」
「私、永原さんを殺したりしないわ。——信じてくれる?」
克彦がTVやレコードのジャケット写真で憧《あこが》れて来た瞳《ひとみ》が、今、迫《せま》って来ている。
これが現実かしら?
「おい、千絵、コーヒーくれ」
「OK」
千絵が、カップを出して来て、兄の前に置くと、サーバーからコーヒーを注《つ》いだ。
克彦はブラックで一口飲んで、目を白黒させた。
「——信じる」
と、息をつきながら言った。
「ありがとう」
夏美はホッとしたように言った。
「でも——」
克彦はコーヒーにクリームと砂糖を入れながら、「病院を出て来ちゃって、傷《きず》のほうは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なの?」
「ええ」
夏美は、包帯を巻《ま》いた左の手首を、見下ろした。「あまり傷は深くなかったの。だから……」
克彦は、やっと気持が落ちついて来た。
落ちついて緊《きん》張《ちよう》した、というか……。妙《みよう》な言い方だが、少し落ちついて、やっとこれが現実の出来事だと実感できたのである。
いざ実感すると、今度は固くなってしまった。
「そ、それで——あの——僕《ぼく》はあなたのファンで——」
「お兄さん」
千絵が克彦の頭をポンと叩《たた》いた。「今さら余計よ。どうするの? 夏美さんを助けるの?」
「もちろん」
克彦は肯《うなず》いた。「でも——」
「今は、何も訊《き》かないで」
と、夏美が言った。「あなたは、私の秘《ヽ》密《ヽ》を見たわ。それについては、まだ話したくないの」
克彦は、ちょっと間を置いて、
「うん」
と肯《うなず》いた。「分かった。何も訊かない。約束するよ」
「ありがとう」
夏美はホッとしたように微《ほほ》笑《え》んだ。
克彦は、その笑《え》顔《がお》を初めて見た。——今まで数え切れないほど見て来た彼女の、どの写真の笑顔とも違《ちが》っていた。
「さあ、食べようっと!」
千絵が、テーブルにつく。
「おい、千絵、母さん、このことを——」
「知りゃしないわよ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。二、三日泊《とま》ったって、気付かないわ」
無茶なやつだ、と思ったが、妹のことを言えた柄《がら》ではない。
しかし、千絵のほうが、こんなときは、遥《はる》かに落ちついている。その点は、克彦も、認めざるを得ない。
食事の間、千絵は、わざと肝《かん》心《じん》の点には触《ふ》れず、夏美に、日常の話題で話しかけていた。
夏美もすぐに打ち解《と》けて話をするようになった。
女同士の会話には、克彦が入れない何《ヽ》か《ヽ》がある。しかし、どうせ今の克彦は、ただうっとりと、憧《あこが》れのアイドルを見つめているだけなのである。
「——ともかく、私は、永原さんを殺してないわ」
と、食事を終って、夏美が言った。
千絵の服を借りているので、何だかいやに可愛《かわい》く見える。
「永原さんって人を、誰《だれ》か恨《うら》んでたの?」
と、千絵が言った。
「あの人、とても大人《おとな》しかったわ。殺されるなんてとても……」
と、夏美は首を振《ふ》った。「ただ、考えられるのはね——」
「何かあるの?」
「私の移《い》籍《せき》の問題じゃないかと思う」
「プロダクションを移るの?」
克彦がびっくりして、言った。
ともかく、今、夏美のいるプロには、他《ほか》にスターらしいスターがいない。
夏美がいなくなったら、大変なことになるだろう。
「移りたい、ってことは、もう半年前から言い続けてるわ。社長が記事にならないように必死なのよ」
「何かまずいことが?」
「いいえ」
と、夏美は首を振った。「今のプロだって、そう不満はないわ。いえ——なかったの。でも、今は、自分の力を試《ため》したいの。外へ出て、新しい試《こころ》みができる……」
「その永原って人とはどう関《かかわ》るわけ?」
と、千絵が訊《き》いた。
「実は、私が、こ《ヽ》れ《ヽ》と思った、小さなプロダクションがあって——」
夏美は首をかしげて、「でも、極《ごく》秘《ひ》にしておくということだし、その連《れん》絡《らく》係《がかり》を、永原さんに頼《たの》んでおいたの」
「なるほど」
克彦は肯《うなず》いて、「他《ほか》に病院にいた人は?」
「あのときは——付《つき》人《びと》の朱子さん、常務の安中さん、それに——そうだわ、きっと安中さんの奥《おく》さんも」
「奥さんが駆《か》けつけたの?」
と、千絵は訊《き》いた。
「いいえ、安中さんの奥さん、確か、あの病院に入院してるのよ」
「同じ病院に?」
「奥さんが入院していて、よく知ってるんで、私をあそこへ入れたんだと思うわ」
なるほど、そういうことか、と克彦は思った。今は、入院一つも簡単じゃないんだ。
「その人たちの中に、永原って人を恨《うら》んでいた人間がいたのかもしれないわね」
「恨みだけとは限らないぜ」
と克彦が言った。「殺人の動機は色々とあるさ。何か秘密を知られたから、とか、まずいところを見られたから、とか……」
「それはそうね」
「だけど、僕《ぼく》たちで、そんなことまで調べられるかなあ」
「もう弱気になってる」
と千絵がちょっと兄をにらむ。
「そうじゃないけど——」
克彦が言いかけたとき、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。
夏美が反射的に腰《こし》を浮《う》かす。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。まだお母さんは帰らないわよ。待ってて。出てみる」
千絵が席を立って行く。
克彦は、夏美と二人になったので、急に照れて、真っ赤になった。夏美がクスッと笑って、
「ごめんなさい」
と言った。「でも、いい人ね、あなたも妹さんも」
「でも、まだ高校生だからね……。僕よりあいつのほうが、よほどしっかりしてんだ」
「嬉《うれ》しいわ、私のこと、信じてくれる人がいて」
克彦は、また照れて、頭をかいた。
千絵が戻《もど》って来て、
「お兄さん」
と、声を少し低くして言った。「仁科さんよ、記者の」
「ええ? まさか彼女のこと——」
「違《ちが》うわよ。ゆうべのこと記事に書くのに、ちょっと訊《き》きたいことがあるんですって」
「そう。——分かったよ。それじゃ」
克彦は、ホッとして、出て行った。
秘密を持ってる、ってことは、緊《きん》張《ちよう》するものなのである。