「さあ、出て、出て!」
これでも女かと思うような怪《ヽ》力《ヽ》で、克彦と千絵は病院の通用口から押《お》し出されてしまった。
「あーあ」
千絵が兄をにらんで、「お兄さんがいけないのよ! 変なところで悲鳴を上げるから」
「だけどな、お前、何を注射されるか分かんないんだぞ」
克彦は、苦《にが》い顔で振《ふ》り向いて、「それにしても、あの看護婦、凄《すご》い力だな。女子プロレス出身じゃないのか」
「馬《ば》鹿《か》言わないで」
千絵はウーンと伸《の》びをした。「せっかく私が頭を絞《しぼ》って名案をひねり出したのに!」
まともに病院の受付に行って、
「星沢夏美の病室はどこですか?」
と訊《き》いたって、教えてくれるわけがない。
そこで、千絵の思い付きで、この近くから一一九番、兄を急病人に仕立てあげて、救急車で目《め》指《ざ》す病院に運び込まれるように図《はか》ったのである。
計画は図《ず》に当たり、うまくかつぎ込《こ》まれた——までは良かったが、得《え》体《たい》の知れない注射をされそうになって、克彦が、
「もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です! 良くなりました!」
とあわてて叫《さけ》んだので、怪《あや》しまれ、ついに白状してしまった。
かくて——当然のことながら——二人は叩《たた》き出されたのである。
「まあ、叱《しか》られただけで済《す》んだのが儲《もう》けものよ」
と、千絵が言った。「学校へ通報されたら、停学処分ものだわ」
「お前が考えたんじゃないか」
「お兄さんが、どうしても彼《かの》女《じよ》に会いたい、って言うからじゃないの」
「でも、俺《おれ》は——」
と二人がもめていると、
「本堂君じゃないか」
と、男の声がした。
びっくりして振《ふ》り向くと、何だか使い古した小型車の窓から、メガネをかけた細長い顔が覗《のぞ》いている。
「あ、仁《に》科《しな》さん」
「夏美のことで来たの?」
車から出て来たのは、二十七、八の、ちょっとくたびれた感じの青年で、どことなく神経質で繊《せん》細《さい》で、頼《たよ》りなげで、それでいて、何だか現実離《ばな》れした目つきの……。
早く言えば「詩人のなりそこない」という印象の青年だった。
「あの——妹の千絵です」
と克彦が言った。
「やあ。僕《ぼく》はCタイムスの仁科」
と、その青年は言った。
「お名前、兄から聞いてます。星沢夏美の担当されてるんでしょ」
「十七歳《さい》の女の子を、雨の日も風の日も追い続けてるわけさ」
と、仁科は、ちょっと苦《にが》々《にが》しい調子で言った。
「夜明かしなんですか?」
と克彦が訊《き》く。
「うん。朝になったら交《こう》替《たい》が来る。——どうだい、コーヒーでも飲みに行くか」
「離《はな》れてていいんですか?」
「そう急に容《よう》態《だい》が変ることもないさ。行こうぜ」
仁科に促《うなが》され、克彦たちも、それを断る理由もない。三人で、車を置いて、近くのファミリー・レストランに入った。
国道沿《ぞ》いにあるせいか、終夜営業の店である。夜中なのに、結構客が入っている。
三人は軽くサンドイッチなどつまむことにした。
「原因は何だか分かったんですか?」
と、克彦が訊《き》いた。
「さあね。——あの忙《いそが》しさじゃ、失恋ってこともないだろう。きっと、過労から来たノイローゼだろうな」
仁科はあまり関心なさそうに言った。
「そういうの、調べたりしないんですか?」
と、千絵が訊いた。
「どうせ明日になりゃ、プロダクションのほうから説明がある。こっちは、それを記事にすりゃいいのさ」
と、仁科はかなり、投げやりな調子。「こっちは、プロダクションに嫌《きら》われたら、取材できなくなる。そのほうが怖《こわ》いんだよ」
「はあ……」
千絵は何だか拍《ひよう》子《し》抜《ぬ》け、という顔だった。
克彦が仁科と知り合ったのは、もちろん、夏美を追いかけ回しているときのことである。別に、事件といえるほどの出会いがあったわけではなく、ただ、何度も夏美のショーやTVの公開番組に足を運んでいるうち、何となく顔見知りになっていたのだ。
克彦は、いわゆる芸能記者とか、レポーターの類《たぐい》が好きでない。面《つら》の皮の厚さが何センチあるのかと思うほど図《ずう》々《ずう》しい手合いが多いからだ。
しかし、そんな連中の中で、仁科はどことなく違《ちが》っていた。あまり押《お》しも強くないし、記者会見などでも前のほうへ出ようとして他《ほか》の社の記者と争うなどというみっともないことはしなかった。
だから、一向に出《しゆつ》世《せ》もできないようだが、仁科は、そんなことには興味がない様子だった。
いつも自分の仕事をどこか恥《は》じているようなところがあり、冷《さ》めていた。
「ところで、君たち、病院から出て来たみたいだったね」
と仁科が言った。
「ええ、そうなんです」
千絵が、救急車で病院へ運び込《こ》まれるという計画と、実際のてんまつを話すと、仁科は笑い転《ころ》げた。
「——いや、大したもんだ! 僕《ぼく》なんかより、よほど、特ダネ精神旺《おう》盛《せい》だね」
「失敗しちゃ仕方ないですよ」
と、克彦は照れながら言った。
「いやいや、君たちの場合は、それでスクープしようとか、金にしたいとか思ってるわけじゃない。純《じゆん》粋《すい》に、星沢夏美のことが心配で、病院に入りこんだわけだからね。僕らとは違《ちが》うよ」
仁科は、欠伸《あくび》をした。「——ただぼんやりと外で待ってて、給料をもらうんだ。全《まつた》くいい商売だよ、記者なんてのは」
言《こと》葉《ば》とは裏腹に、仁科の顔は、いやな商売だよ、と言っているようだった……。
「ちょっと——」
と、病院の廊《ろう》下《か》で呼び止められて、朱子は振《ふ》り向いた。
夏美の病室へ戻《もど》ろうとしていたのである。呼び止めたのは、ガウンをはおった、ほっそりした女性で、入院患《かん》者《じや》らしいことは一目で分かった。
「はい。何か……」
私のことを、看護婦と間《ま》違《ちが》えてるのかしらと朱子は思った。
「あなた、もしかして——違ってたらごめんなさい——星沢夏美さんの付《つき》人《びと》をしてる方じゃない?」
「ええ。——そうです」
「やっぱり!」
と、その女性は肯《うなず》いた。
髪《かみ》がぼさぼさだったりして、やつれて見えるせいもあるだろうが、四十代の半《なか》ば、と思えた。
「どこかでお見かけしたな、と思っていたのよ」
「どなたでしょうか、失礼ですけど」
「ごめんなさい。私、自分のことを何も言わずに。——私、安中貴《き》代《よ》といいます」
「安中……。あの、安中常務の——」
「家内ですの。ここに入院しているのよ」
「存じませんでしたわ」
朱子は急いで頭を下げた。「大内朱子です」
「そうそう、そんなお名前だったわね。——夏美さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なの?」
「ええ、今は落ちついているようです」
「それならいいけど……」
安中貴代は、ちょっと曖《あい》昧《まい》に言った。
夏美をこの病院へ入れたのは、安中が、妻が入院していて、ここを知っていたからだろう。しかし、安中自身は、一言もそんなことを言っていなかった。
「もういい加減長いの」
と、貴代は言った。「病院の主《ぬし》になりそうだわ」
「どこがお悪いんですか?」
朱子の問いに、貴代は答えなかった。
「主人は、ここへ来るのかしら?」
「安中さんですか。みえてますよ」
「ここに来てるの? まあ、知らなかったわ」
貴代の顔が急に硬《かた》くなったので、朱子はしまった、と思った。言わないほうが良かったのかもしれない。
いくら長く入院しているといっても、妻の所に、ちょっと顔を出すぐらいのことは、して当然ではないか。それをしないというのは——たぶん安中と、この妻との間が、あまりうまく行っていないということだろう。
「主人は、どこにいるのかしら?」
貴代は、平静を装《よそお》ってはいたが、顔はやや引きつっている。
「あの——夏美さんの病室じゃないかと思いますけど」
「案内して下さいな」
——言い方は穏《おだ》やかだが、断りようがない押《お》しの強さがあった。
あまり気は進まなかったが、朱子は安中貴代を連れて、夏美の病室へ向かった。
廊《ろう》下《か》に、当の安中がいた。——何だかソワソワしている。
「安中さん」
と、朱子が声をかけると、ギョッとした様子で振《ふ》り向いた。
「君か! どこへ行ったんだ!」
「どこって、永原さんの所へ電話したんですよ」
「そりゃ分かってる。君のことじゃなくて、夏美のことだ」
「夏美さん?」
朱子は思わず訊《き》き返していた。
「ああ。病室にいないんだ」
「知りませんよ、私。下で電話してたんですから。——安中さん、ここにいらしたんじゃないんですか?」
「俺《おれ》は——」
と、言いかけて、安中は妻に気付いた。「貴代、何してるんだ?」
「こっちがうかがいたいわ」
と、貴代が冷ややかに言った。「ここへ来ていて、私の所に顔も出さない、ってのはどういうこと?」
「何を言ってるんだ。こっちは仕事なんだぞ!」
「仕事だって、私の病室へ顔を出すぐらいの時間はあるでしょ」
「いいか、今は大変なときなんだ!」
朱子としては、安中夫婦の喧《けん》嘩《か》につき合っている気はなかった。
病室の中へ入る。
明りが点《つ》いていて、ベッドは空《から》っぽだった。
どこへ行ったのだろう? あんなによく眠《ねむ》っているようだったのに。
朱子は廊《ろう》下《か》へ出た。
「いいか、俺が働かなきゃ、お前だって、こんな所に、のんびり入っちゃいられないんだぞ!」
「のんびりとは何よ! 人が好きで入院してるとでも——」
やり合っている二人の間へ、朱子は割って入った。
「待って下さい!——安中さん、夏美さんがいなくなったのは、いつですか?」
「知らんよ。今、来てみたらいないから——」
「じゃ、捜《さが》さなきゃ! 彼《かの》女《じよ》は自殺未《み》遂《すい》をやったばかりなんですよ。またどこかで死のうとするかもしれないじゃありませんか!」
「そ、そうか」
いつもの冷静な顔はどこへやら、安中は青くなった。
「私、トイレを見て来ます。看護婦さんを捜して、いなくなったと話して下さい」
「分かった」
二人が行ってしまうと、安中貴代は、つまらなそうに鼻を鳴らして、欠伸《あくび》をしながら、のんびりと歩いて行った……。
「——何かあったのかな」
病院まで戻《もど》って来て、仁科は足を止めた。
明らかに、様子がおかしい。看護婦や医師たちが、病院の外を駆《か》け回っているのだ。
「他《ほか》の社の連中の姿が見えないな」
「どうしたんでしょうね」
と克彦が言った。
「あ、あそこにTV《テレビ》局の知ってる奴《やつ》がいる。——おい、どうしたんだ?」
と、仁科は、マイクを片手にした男へ声をかけた。
「仁科か! まだ見付からないんだよ」
「見付からないって、何が?」
相手は呆《あき》れたように仁科を見て、
「お前、どこへ行ってたんだ?」
「ちょっと一休みさ。——何かあったのかい?」
「それでお前、よくクビにならないな! 星沢夏美が病院からいなくなったんだよ!」
「本当かい? 参ったな! よりによって俺《おれ》のいないときに——」
これで出《しゆつ》世《せ》できるはずがない。
「ともかく、社へ電話して来るよ」
と、仁科は、克彦と千絵に言った。
「ご心配なく。私たち、ちゃんと車拾って帰りますから」
と、千絵が言った。
仁科が、
「赤電話って、どこかにあったかなあ」
と呟《つぶや》きながら行ってしまうと、克彦たちは顔を見合わせた。
「やっぱり、死ぬつもりなのかしら?」
と、千絵が言った。
「分かんないな。しかし、病院からどうやって出たんだろう?」
それは確かにその通りだった。病院の出入口は、ちゃんと人もいるし、報《ほう》道《どう》陣《じん》の車も、何台か停《と》まっている。
出て来れば目に付きそうなものである。
「あーあ」
千絵が大欠伸《あくび》をした。サンドイッチなどつまんで、お腹が満たされたので、今度は必然的に眠《ねむ》くなったのである。
「お前、不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》だぞ。彼《かの》女《じよ》が今にも死のうとしているかもしれないってのに」
「だって、私たちにできることなんて、ある?」
そう訊《き》かれると、克彦のほうも何とも言えなくなる。
「だけど……」
「もう帰ろう。お母さんだって心配してるわ」
克彦としても、今ここに自分がいても、どうにもならないことは、よく分かっている。それでも、ついぐずぐずしてしまうのは、何だか妹の言うことを聞いては、兄としての面《めん》目《ぼく》にかかわる、という、つまらない意地のせいだった。
「よし、じゃ、帰るか」
と殊《こと》更《さら》に大きな声で、「お前、どうする?」
などと訊いてみる。
千絵はクスクス笑って、
「帰るわよ、もちろん」
と、兄に調子を合わせた。
「じゃ、タクシー捜《さが》そう」
克彦としては、病院の人と一《いつ》緒《しよ》になって夏美を捜したいのはやまやまである。
しかし、何しろさっきも叩《たた》き出されたばかりだ。却《かえ》って怪《あや》しまれて混《こん》乱《らん》することにもなりかねなかった。
ここは、帰って、夏美が見付かるのを祈《いの》っているしかないだろう。
「——ほら、タクシー来たよ」
と、千絵が言った。
克彦が手を上げると、空車が寄って来て停《と》まる。——千絵が先に、克彦が続いて乗り込んだ。
突《とつ》然《ぜん》、誰《だれ》かが克彦のあとからタクシーへ入って来た。克彦はびっくりして、
「何だよ! おい——」
と振《ふ》り向いたが……。
「お願い! 乗せて行って!」
克彦は仰《ぎよう》天《てん》した。
いつもTVや、舞《ぶ》台《たい》でしか見たことのない顔が、いきなり目の前に迫《せま》って来たら、びっくりするのは当たり前だろう。
いや、克彦は、あのベランダで顔を見合わせている。しかし——こんなに間《ま》近《ぢか》に見たのは、初めてのことだった。
「お兄さん!」
と、千絵が言った。「つめてあげないと、窮《きゆう》屈《くつ》よ」
妹のほうが、よほど落ちついているのである。
「ああ——そうだな」
やっと我に返って、克彦は体をずらした。
千絵が運転手に行《ゆく》先《さき》を説明している。
星沢夏美は息を弾《はず》ませながら、座席にもたれた。——はおったコートを、固く抱《だ》きしめるようにしていた。
これ、本当のことなんだろうな?
克彦は、そっと自分で太ももをつねってみた。——確かに痛かった!
「——分かりませんね」
と、当直の医師は、渋《しぶ》い顔で首を振《ふ》った。
「落ちついているように見えたんですが」
「しかし、現にいなくなったんです!」
安中は、額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
夏美が姿を消した。——社長に怒《ど》鳴《な》られるのは当然だが、これで夏美の身に何かあったら——クビも危いかもしれない。
朱子は、病室に入って、息をついた。
「変だわ……」
夏美の様子からは、また失《しつ》踪《そう》するとは、とても考えられなかった。
しかし、病院の出入口は、ちゃんと人が見ているのだから、やはり本人が、こっそり出て行きたいと思わなければ、出ることはできなかっただろう。
もちろん、一番心配なのは、また夏美が自殺を図《はか》ることだ。
ただ——こんなときに、妙《みよう》なことだが、朱子はあまりその心配はしていなかった。といって、一度自殺し損《そこ》なった者は二度と死のうとしない、という俗説を信じているわけではない。
これだけ夏美に付き合って来た者の勘《ヽ》といおうか、何となく、そうは思えなかったのである。
それに——理《り》屈《くつ》めいた言い方になるが——死のうと思えば、いくらでも病院の中で、方法があったのではないか。苦労して病院を抜《ぬ》け出したこと自体、それだけ頭を使う余《よ》裕《ゆう》があったということでもある。
死ぬほど追いつめられていたら、そんな真《ま》似《ね》ができるだろうか?
ただ、死ぬつもりでないとしたら、夏美は何か理《ヽ》由《ヽ》があって、病院を出たことになる。それは何だろうか?
「もしかして——」
マンションにでも戻《もど》ったのだろうか?
まさか、とは思ったが、一応電話してみても悪くないだろう。
病室を出ようとして——本当に突《とつ》然《ぜん》のことだったが、その考えが浮《う》かんだのだ。
本当に突然のことで、自分でそれを意識するより早く、朱子は行動に移っていた。すなわち、床《ゆか》に腹《はら》這《ば》いになって、ベ《ヽ》ッ《ヽ》ド《ヽ》の《ヽ》下《ヽ》を覗《のぞ》き込んだのである。
そんな所に、まさか夏美が……。
そう。——確かに、夏美はそこにいなかった。
しかし、すでに生命を失った一《いつ》対《つい》の目が、朱子を見返していた。——永原幸男の目が。