「遅《おそ》くなっちゃった」
と、本堂雅《まさ》子《こ》は玄《げん》関《かん》を上がりながら、呟《つぶや》いた。
「克彦、千絵。——いないの?」
食事に出かけたのかしら、と思った。
友だちの家に行って、つい長居してしまった。一応、電話をして、
「夕ご飯は適当に食べてね」
と言っておいた。
それでも、できるだけ急いで帰って来たので、電話では十時ごろになると言ったのだが、まだ九時を少し回ったところだ。
まあいいわ。——ともかく、二人とも、どこかでご飯を食べてるんだろうから。
雅子は、母親として、決してこまめに働くほうではない。しかし、おっとりと構えて、子供たちのことは子供たちに任《まか》せていた。
そのやり方が、頭の中で作った信条に基《もと》づいたものでなく、生《せい》来《らい》の気質から来ていることで、この家のなごやかな雰《ふん》囲《い》気《き》が作られている、と言えるだろう。
「——お湯ぐらい沸《わ》かしておこうかしら」
と、雅子は、やかんをガスにかけた。
さて、その間に着《き》替《が》えをして……。
廊《ろう》下《か》に出て、雅子はふと足を止めた。
何か物音がしたようだ。——気のせいかしら?
肩《かた》をすくめて歩き出そうとして——やっぱり、何か音がする。
浴《よく》室《しつ》のほうだ。千絵がお風《ふ》呂《ろ》にでも入ってるのかしら?
雅子は、浴室のほうへ歩いて行った。
「千絵なの?」
ヒョイとドアを開けると、目の前に、女の子が裸《はだか》で立っていた。いや、浴室なのだから、裸なのは当たり前として、問題は、その少女が、千絵でもなく、もちろん克彦でもなかったことだった!
少女のほうも、びっくりしたらしく、
「キャッ!」
と声を上げて、バスタオルをあわてて胸に当てた。
雅子は、ちょっと呆《あつ》気《け》に取られていたが、
「ええと……ごめんなさい」
と、言って、ドアを閉めた。
別に謝《あやま》ることはないのだが、つい、言《こと》葉《ば》が出て来たのである。
あの女の子は、誰《だれ》だろう?
雅子は首をひねった。大《だい》体《たい》、見も知らぬ他人が、勝手に人の家の風呂に入っているということは、珍《めずら》しい。
見も知らぬ?——雅子は、ふと、今の女の子を、どこかで見たような気がした。
どこだろう? 千絵の友だちかしら? それとも克彦の……。
そう考えて、雅子は、ちょっと不安になった。もし克彦のガールフレンドだったとしたら……お風《ふ》呂《ろ》に入っているというのは問題だ!
「克彦ったら、まさか——」
母親の留《る》守《す》に、女の子を引張り込んで……。まさか、とは思ったが、女の子が風呂に入っていたのは事実である。
雅子が立ち止まって考えていると、玄《げん》関《かん》が開いた。
「——あら!」
千絵がびっくりして、「お母さん、帰ったの?」
克彦が続いて顔を出した。
「早かったんだね」
「早くて何かまずいことでもあるの?」
と、雅子が言うと、克彦と千絵は顔を見合わせた。
「ね、お母さん、もしかして……」
千絵が、上《うわ》目《め》づかいに雅子を見ながら言った。「彼《かの》女《じよ》と……会ったの?」
「お風呂場でね」
「お風呂!」
克彦が素《すつ》頓《とん》狂《きよう》な声を上げた。「そうか! 彼女、大の風呂好きなんだ」
「克彦!」
雅子は目をむいた。「お前、あの子とどういう関係なの?」
「どういう関係って……複《ふく》雑《ざつ》なんだ。ちょっと一言じゃ説明は——」
そこへ、千絵の服を着た、少《ヽ》女《ヽ》がやって来た。
「あの——すみません」
と、声をかける。「克彦君のお母様ですね?」
「ええ、そうですよ。あなたは?」
と、雅子は仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》で言った。
「星沢夏美と申します」
「星沢さん? 一体、うちの息子とどういう仲なの?」
「ねえ、お母さん——」
「あんたは黙《だま》ってなさい」
雅子はピシャリと言って、「この子の口から聞かせてもらうわ」
「長くなるわよ」
と、千絵は言った。「座って話さない?」
電話が鳴り出したとき、朱子は浅い眠《ねむ》りに入っていた。
ハッと目を開く。反射的に時計を見た。
夜中——三時に近い。
朱子は、頭を強く振《ふ》ってから、受話器を取った。
「はい」
——ちょっと沈《ちん》黙《もく》があった。夏美だろうか?
大《だい》体《たい》、この電話を知っている人間は、限られているのだ。
「もしもし」
と、朱子は言った。「夏美さんなの?」
「大内朱子さんだね」
夏美とは似ても似つかぬ、太い男の声が聞こえて来た。
「はい……。どなたですか?」
朱子には、まるで聞き憶《おぼ》えのない声である。
「私のことは知っていると思う。Mミュージックの坂《ばん》東《どう》という者だよ」
朱子は、ちょっと面《めん》食《く》らった。Mミュージックといえば、この業界でも最《さい》大《おお》手《て》のプロダクションだ。
もっとも、ほとんどの歌番組を、Mミュージックの歌手たちが独《どく》占《せん》していたのは数年前の話で、このところ、その勢力は大分衰《おとろ》えてきていた。
それでも、政界にもつながりを持つ、社長の坂東は、まだまだこの世界で、隠《いん》然《ぜん》たる力を持っていた。
「君のことはよく知ってる。夏美の面《めん》倒《どう》をよくみているそうだね」
「どうも……」
と朱子は曖《あい》昧《まい》に言った。
「一度、ぜひ会って話がしたいんだがね」
「私に——ですか」
「そう。君に、だ。夏美はまだ見付からないんだろう」
「そうです」
「心配だろうね。君はあの子のことを本気で思いやっている、おそらくたった一人の人間だからな」
「どういうことなんでしょうか?」
「私も夏美には興味があるんだ。どうかね、二人で、どうすれば夏美のためになるか、考えてみないか」
妙《みよう》な話だ、と朱子は思った。夏美はいわば、Mミュージックの歌手たちのライバルである。一時、夏美を引《ひき》抜《ぬ》きにかかったという噂《うわさ》が流れ、坂東はきっぱりと否定していたが、事実であることは、朱子自身、よく承知していた。
「お話するのは構いませんけど……でも、私はここから動けないんです。いつ夏美さんから電話があるか分かりませんから」
「それもそうだ。よろしい、私がそこへ出向こう。構わんだろうね」
「ここへおいでになるんですか? でも——」
「もちろん、おたくのお偉《えら》方《がた》には見られんようにするさ。いいね? では後で」
「あの——もしもし——」
もう電話は切れていた。
朱子は受話器を置いて首をかしげた。——坂東のような大《おお》物《もの》が、こんなただの付《つき》人《びと》に何の用事があるというのだろう?
それに、このマンションだって、これまでは秘密にしてあったが、夏美が自殺未《み》遂《すい》を図《はか》ったせいで、すっかり知れ渡ってしまい、今も何人かのカメラマンや記者が周囲をうろついている。
ガードマンが下でにらみをきかせていなければ、この部《へ》屋《や》までやって来てしまうだろう。そんな所へ、坂東がのこのこやって来たら……。
一応、朱子だって、夏美のプロから給料をもらっている身である。もしここへ坂東がやって来たことが知れたら、やはりうまくない。
でも、向こうだって、そんなことは分かっているだろうが……。
まだ朱子が考え込《こ》みながら立っていると、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。——誰《だれ》だろう?
「いくら何でも、もう来た、ってこともないわよね」
と呟《つぶや》きながら、玄関へ行き、ドアのスコープから外を見た。——目を見張った。
間《ま》違《ちが》いなく、坂東が立っているのだ!
ドアを開けると、坂東はニヤリと笑った。
「やあ」
「あの——どこからいらしたんですか」
「六階からだ」
と坂東は言った。
「六階?」
「知らなかったろうが、私はここに住んでるんだよ」
呆《あつ》気《け》に取られている朱子を尻《しり》目《め》に、坂東はさっさと上がり込《こ》んだ。
「——びっくりしたかね」
と、坂東は言った。
「ええ」
「もちろん、私の家はあちこちにある。その一つ、というだけだ。めったに来ることはないから、顔を合わさなくても不《ふ》思《し》議《ぎ》はない」
確かに、ここに住んでいるというのは嘘《うそ》ではないのだろう。坂東は、茶のカーディガンを羽《は》織《お》って、いとも気楽な雰《ふん》囲《い》気《き》だった。
ゆっくりとソファに腰《こし》をおろすと、
「どうだね」
と言った。
「何でしょう?」
「私の力になってくれることだ。考えてもらえたかな」
「考えるなんて、そんな時間が……。それに、何をしろとおっしゃるんですか?」
「まあ、かけたまえ。——といって、ここは私の家じゃなかったんだな」
と、坂東は笑った。
朱子は、自分のところの松江社長にも、そう度《たび》々《たび》会っていたわけではなかったが、坂東を見て、やはり同じような仕事をしているだけあって、よく似ている、と思った。
ひいき目に見ても、坂東のほうが大《おお》物《もの》に違《ちが》いないと一目で分かるが、人間のタイプとして、似ているのである。
朱子もソファに腰をおろした。
「どういうお話ですか」
「ズバリと言おう」
と、坂東は手を組んだ。「私は夏美が欲しい」
「それは存じてますけど」
「手は尽《つ》くした。もちろん君も知っているだろうが、半年ほど前のことだ」
「ええ」
「金を積んだし、政治家にも動いてもらった。しかし——最終的には、夏美自身の意志だ。彼女は結局、移《い》籍《せき》を拒《こば》んだ」
「週刊誌に書かれたでしょう。あのときは、大変でした」
「そう。——あれで、こっちとしては手を引かざるを得なくなった」
と、坂東は渋《しぶ》い顔をした。
どうやら、よほど応《こた》えたらしい。
「あの報道は、おたくの松江君が流したんだよ。知ってるかね?」
「社長さんがですか?」
「そうさ。もちろん当人は怒《おこ》って否定していたが、あれは演技だ。こっちが動きにくいように、騒《さわ》ぎを起こしたんだよ」
「知りませんでした」
「まあ、それはいい。逆《ぎやく》の立場なら、私だってやったろうからね」
と、坂東は笑った。「しかし、夏美の意志はかなり固いようだ。——どうだね、君の見たところでは。彼女が何か不満を洩《も》らしているようなことはないか」
「さあ……」
朱子は、ちょっと迷《まよ》うように言《こと》葉《ば》を切った。
「心配しなくていい。君のしゃべったことを、松江君に言ったりしないよ」
「いえ——そうじゃないんです。確かに、夏美さん、一《いつ》緒《しよ》にいると、色々グチを言います」
「ほう?」
坂東は興味深げに身を乗り出した。
「でも、それは、会社へのグチっていうんじゃないんです。今の仕事そのものに対して——」
「歌手をやってるのがいやだ、ということかな?」
「そうですね。いやというより、疲《つか》れた、というか……」
「それは誰《だれ》だって言うものだよ」
「でも、夏美さんは十七歳《さい》の割には、とても大人《おとな》です。世の中を冷《さ》めた目で見てる、というか……」
「それはよく分かるね」
と、坂東は肯《うなず》いた。「あの子には、どこか他《ほか》のタレントと違《ちが》うところがある」
「何か——凄《すご》く辛《つら》いこととか、悲しいことに出会ったことがあるんじゃないかと思うんです」
「そんなことを言ったことがあるのかね?」
「いいえ。ただ、私がそう感じる、というだけなんですけど」
朱子は、ちょっと口をつぐんだ。——いつの間にか、ペラペラとおしゃべりをしてしまった。
松江や、安中とでも、こんな風にしゃべったことはないのに。どうやら、この坂東という男には、相手をしゃべりやすくする雰《ふん》囲《い》気《き》があるようだ。
「ともかく、夏美をもしこっちの手に入れられないということになると、別の手を考えなくてはならん」
と、坂東はのんびりと言った。
「どうするんですか?」
「彼《かの》女《じよ》に消えてもらうのさ」
と、坂東は言った。
朱子は目を丸くした。
「ご迷《めい》惑《わく》をかけて申し訳ありません」
と、夏美は頭を下げた。
「いえ、そりゃまあ……私は構わないけどね……」
雅子は、克彦と千絵のほうへ目をやった。
「彼《かの》女《じよ》を置いてあげてよ。いいでしょ、お母さん?」
と千絵が言った。「今出て行っても、どうしようもないのよ、彼女」
「長くはありません」
と、夏美が言った。「一週間。それ以上にはなりませんから」
「一週間?」
「あ、そうか」
と、克彦が言った。「リサイタルがあるんだね」
「そんな呑《のん》気《き》なこと!」
と、千絵が呆《あき》れたように言った。「それどころじゃないんじゃない?」
「でも、きっとあの社長、やめないと思います」
と、夏美は言った。「今、うちのプロダクションは、とても苦しいの。あのリサイタルと、そのライブ盤《ばん》で息をつくことになっていたのよ」
「なるほど。そりゃ大変だ」
と、克彦は肯《うなず》いた。「でも君がもし逮《たい》捕《ほ》されたら——」
「ええ、だから、それまでは出て行くわけにいかないの」
「リサイタルをやるつもり?」
千絵に訊《き》かれて、夏美は、ちょっと間を置いて、
「やるわ」
と答えた。「あのリサイタルは、一万人のファンが集まるわ。その人たちのために、やめるわけにいかないもの」
「それはそうかもね……。でも、あなたは、プロダクションをやめたいんでしょう?」
「でも、潰《つぶ》してやめたくはないの。ちゃんと、会社が次のスターを育てられるくらいの、余《よ》裕《ゆう》を持ったところでやめたいと思ってるのよ」
「偉《えら》いわねえ」
と、母の雅子は感服の様子。「今の若い人で、そこまで考えてる人はなかなかいないわよ。あんたたちも見習いなさい」
と、変なところで、とばっちりが来る。
「ね、お母さん、だから——いいでしょ、彼《かの》女《じよ》にいてもらっても?」
千絵が念を押《お》す。
「どうぞ。大したもてなしはできませんよ、言っとくけど」
「ありがとうございます!」
と、夏美は頭をさげた。
「もう食事は済《す》んだの? じゃ、何か果《くだ》物《もの》でもむこうかしらね」
雅子が台所へ行くと、克彦と千絵は、ホッと胸を撫《な》でおろした。
「お兄さんが変なこと言い出すんじゃないかと思って、気が気じゃなかったわ」
「変なことって何だよ?」
「殺人事件の捜《そう》査《さ》、とか」
「そんなこと言ったら、目をむいて怒《ど》鳴《な》られるよ」
「お母さんには、ただ一週間、ここに隠《かく》れてる、ってことにしときましょう」
と千絵が言った。「どうせお母さん、よく出歩くから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」
「でも、やっぱりあなた方には危いわ。私が自分で——」
「これは君のためだけじゃないよ。人類のためだ」
いささか大げさだったかな、と克彦も、言ってから思った……。