男は、茂みの奥から立ち上った。
激しく息を切らしていたが、汗はかいていなかった。かいていたとしても、ほんのわずかだった。
季節のせいばかりではなく、あまり汗をかかない体質で、男にとってはそれが幸いしたのだ。しかし、その点を除けば、とても男の様子はまともではなかった。
茂みを出て歩き出した時にも、膝《ひざ》はマッサージ機にでもかけられているようにガタガタ震えていたし、顔からは血の気がひいて、全く見知らぬ人間でも、すれ違いざまに、
「大丈夫ですか?」
と、声をかけたかもしれない。
ただ、幸いなことに、この昼下りの時間、たまたまその道は人通りが少なかった。男が、辛うじて、当り前の外見を取り戻すまで、誰《だれ》とも出会うことがなかったのである。
男は、大分歩いてから、やっとネクタイがひどく曲っていたことに気付いた。あわててきちんとしめ直し、それから初めて、ズボンの膝や、上《うわ》衣《ぎ》の肘《ひじ》のところに土がこびりついているのに目を止めた。
ハンカチでこすっても、完全には落ちなかったが、ダークグレーのスーツには、そう目立たなかった。
広い通りに出て、すぐタクシーが来るのを見た時、男は初めて安心した。——ツイてる。
俺《おれ》は幸運に恵まれている、と思った。
タクシーに乗って、目的地を告げた時、男は、絶対に捕まらない、と確信していた。それは理屈ではなく、直感だったが、むしろ信仰と呼んだ方がいいほど、抜きがたいものとなっていた。
男は、初めての町の様子を、のんびりと車の窓越しに眺め、遠くに、たった今自分がいた公園の緑を見ても、何も感じなかった。
あの茂みの奥にまだ横たわっているに違いない娘のことも、すでに「思い出」になりつつあった。自分が殺した娘に、同情の気持さえ——正直な気持だ——覚えていた。
そして……。
この日、君《きみ》原《はら》小百合《さゆり》は四歳になった。
前日の雪が、まだ大分残っていた。
その少女の肌は、雪以上のまぶしさで、男の目を捉《とら》えた。——もちろん、その肌が今のようなみずみずしさを止《とど》めているのは、あと何時間かのことに違いない。
もう、少女は心臓の鼓動を停《と》めていたのだから。
町は、建築ラッシュらしかった。——この空家も、遠からず、取り壊されることになっているのだろう。
寒いからね。この中に入ろうか。
男の言葉に、少女はごく簡単について来た。こんな寒い所で脱ぐの、いやだわ、と文句も言ったが、もう大丈夫だ。寒さも、暑さも感じないはずだった。
男は、今度はその空家を出る前に、何か手がかりを残していないかと見回すだけの余裕があった。それは賢明なことだったのだ。
少女の体に半ば隠れるようにして、いつ落としたのか、彼のく《ヽ》し《ヽ》があったからだ。
男はそれを拾ってポケットに入れると、空家を出て、歩き出した。道にはまだ雪が残っていて、歩き辛《づら》いので、あまり人も出ていなかった。
俺は運がいいんだ、と男は思った。その分、あの少女は運を失《な》くしたのかもしれない。
そして……。
この日、君原小百合は八歳になった。
町に入る少し手前で、男は車を停めた。
セーラー服の女の子が、鞄《かばん》を振り回しながら、歩いているのを目に止めたのだ。
車がすぐそばで停《とま》ったので、女の子は足を止めた。
男は窓を下ろして、
「何してるんだい?」
と、声をかけた。
「別に」
と、女の子は警戒するような視線を男に向けた。
「いいでしょ、何してたって」
「学校があるんじゃないの」
と、男は言った。「春休みにゃ少し早いよ」
「行っても面《おも》白《しろ》いことなんかないよ」
と、女の子は言い返した。「ドライブでもさせてくれるの? お説教したいのなら、私がいなくなってからにして」
「ドライブもいいね」
男がちょっと笑うと、女の子も「了解」したようだった。笑顔になる。——可愛《かわい》い笑顔だった。
俺はツイてる、と男は思った。
「歩いてちゃ寒いだろ。乗らないか」
「どこに行くの?」
「教えてくれよ、どこかいい所を」
女の子は、ためらいを振り切って、
「いいわ」
と、自分でドアを開けた。
死へつながるドアだとは、もちろん思っていなかったのである。
そして……。
この二日後に、君原小百合は、十二歳になった。
そして……。
一週間後、君原小百合は十六歳になる。