大《おお》内《うち》は、ホテルの部屋で、今時珍しいような、サイズの小さなTVを見ていた。
別に見たい番組があったわけではない。ただ、時間がポカッと空いてしまったのである。
この町にいる客は、松永だけではない。来たからには、どの客にも顔を出して行く必要があった。特に高級車を買うような客は、勝手なもので、用はなくても、声をかけられないと腹を立てる。
今日中に、大内は三人の客に会うことになっていた。ちょうど、今は中途半端な時間だったのである。
それに、大内には、他《ほか》にも気になっていることがあった……。
ドアをノックする音に、ハッとした。
TVを見ながら、少しまどろみかけていたようだ。
「どなた?」
と、声をかけたが、返事はない。
警察か? すぐ反射的にそう考えてしまう。ドアの所まで行って、
「どなた?」
と、くり返した。
「あの——君原です」
思いがけない声だった。大内はドアを開けた。
君原小百合が、少し青白い顔をして、立っている。
「やあ」
と、大内は言った。
「突然ごめんなさい」
と、小百合は目を伏せて言った。
「いや……。入ったら?」
「構いませんか」
「僕はいいけど。——君、お昼は食べた?」
思い付いて、大内は誘った。
「いいえ、食べる気になれない」
と、小百合は言ってから、「あの——知ってるでしょ、私の——」
「ああ、ニュースは見たよ。馬《ば》鹿《か》げた話だ」
と、大内は即座に言った。「そんなことで君が体を悪くしたら、おじいさんも悲しむし、助けてもあげられないよ。——ちょうど何か食べに出ようとおもっていたんだ。一緒に行こう」
大内の、まるで同僚にでも話しかけるような口調は、小百合の緊張をほぐしてくれたらしい。
「はい」
と、答えた小百合は、大内が上《うわ》衣《ぎ》を取って来るのを待っている間、ドアにもたれて立っていた。
「じゃ、行こう。——気分でも悪いのか?」
「そうじゃないです。ただ——ゆうべ眠ってないし……お腹も空いてるし」
大内は笑って、小百合の肩を力をこめて抱いた。小百合は微笑んだ。——大内の胸は痛んだ。理不尽な出来事に、小さな体で堪えているこの少女に、どこか親しみさえ覚えたのだ……。
手近な中華料理の店に入った大内と小百合は、店の人が面食らうほど、よく食べた。
「——苦しい」
と、小百合は息をついて、ウーロン茶を飲んだ。
「食べ過ぎて倒れるなよ」
と、大内は笑って言った。
「こんなことしてて……。おじいさん、あんなひどい目にあってるのに」
と、小百合は言った。
「君が元気でいなきゃ、どうにもならないよ。——それにしても、困ったもんだ」
「ひどいわ、警察なんて。昔の事件まで、みんなおじいさんに押し付けようとしてる」
小百合の怒りは、元気が出た分のエネルギーを与えられて、爆発しそうだった。
「自白したのはまずかった」
と、大内は首を振って、「一《いつ》旦《たん》、犯人と決めたら、警察は絶対に意見を変えないよ」
「法子のおじいさんが……」
大内は、真顔になった。
「松永さんがどうかした?」
「え? いえ——弁護士を頼んであげる、って。ずっと家にいればいい、って言ってくれるの」
「ああ」
大内はホッとした。「——それは、恥ずかしいことじゃない。人間、一人じゃ何もできないよ」
「ええ、分ってるけど……」
「気が進まないのかね」
大内は、ウェイトレスを呼んで、「コーヒーはある? じゃ僕に」
「私も」
と、小百合が言った。
「——学校は休んだのか」
「それどころじゃないし」
「そうだね」
「私……。自分でも分ってるの。法子の世話になりたくない、っていう気持があるから。あの人を……」
「ボーイフレンドか」
「ええ。あの人を私からとったと思って、法子、気にしてるの。だから、私に親切にしてくれてるんだわ」
「君は、それがいやなんだね」
「本当は、おじいさんを助けなきゃいけないのに——つい、こだわっちゃう」
「それは当然さ。人間は一つだけの理由で行動するわけじゃない。君は大人じゃないんだ。そう自分に辛《つら》く当ることはないよ」
と、大内は言った。「しかし……どうして僕の所へ?」
小百合は、目を見開いて、
「そうだった! お昼、おごってもらったら忘れちゃってたわ」
と、笑った。
それは若い生命力の逞《たくま》しさだ。打ちのめされても、立ち上って来る、新鮮なば《ヽ》ね《ヽ》の力である。
「でも、はっきりどうしようっていう考えはなかったの。——ただ、何だかおじさんに会ったら、気が楽になるような気がして」
「気が楽に?」
「ええ。私の気持、分ってくれてるでしょ。だから……」
小百合は、大内を見ていた。大内は、その目の中に、「信頼」を見た。
俺を信じているのか? こんな男を? 何という皮肉だ!
「——僕じゃ、大して役に立つことはないかもしれないね」
と、大内は言った。「僕はこの町の人間じゃないし」
「お仕事があるのは分ってるの」
と、小百合は言った。「ただ……おじさんと会ってると、気持が落ちつくから」
「そうか」
大内は肯いた。「どこか似たところがあるのかもしれないね」
小百合はポッと頬《ほお》を染めて、
「そう思う? 私も、そんな気がするの」
と、嬉《うれ》しそうに言った。「でも——変ね、こんな子供と」
「そんなことはない。年齢とは関係なく、似た人間っていうのはいるものなんだよ」
「そう? 私もそんな気がする」
コーヒーが来て、大内はブラックのまま、一口飲んだ。
「お砂糖とかミルクは?」
「いや、僕は入れない」
「じゃ、私もやめよう」
小百合は、ブラックのまま一口飲んで、キュッと口をへの字にした。大内は笑い出してしまった。
こんな風に笑ったのは、何年ぶりかと思うような、そんな笑いだった……。
「旦《だん》那《な》様!」
電話に出た神《かみ》山《やま》絹《きぬ》代《よ》が、大声を上げたので、松永はあわてて受話器を耳から離した。
「おい、落ちつけ。俺は何ともない」
と、絹代の、まくし立てるようなおしゃべりを、やっと遮った。「——心配させてすまん」
「警察へ届けようかって、マチ子さんと話していたんです」
「やめてくれ。今、会社の方へもかけたよ。途中で少し気分が悪くなったんだ。しかし、もう何ともない」
「今、どちらです? お迎えに参ります」
と、絹代は言った。
「いや、大丈夫。一人で帰れる」
と、松永はあわてて言った。「夕飯には帰るからな」
「かしこまりました。もしお戻りでなかったら、全国に指名手配いたしますから」
松永は苦笑して、
「おい、犯人じゃないぞ」
と、言った。「大内から連絡はあったか」
「特にございません」
「そうか。二十九日にはパーティをやる、と言っといてくれ。もし電話でもあったらな。ぜひ出るようにと」
「かしこまりました」
「それから——法子は?」
「まだお帰りではございません。クラブで少し遅くなるから、とお電話が」
「そうか。物騒だから、早く帰った方がいいのにな。あの子はどうしてる?」
「君原さんですか? 昼ごろに出かけましたけど」
「そうか。——今夜も泊めてやることになるだろう」
「ええ、もちろん、そのつもりで用意しております」
「頼むよ。じゃ、そうだな……あと二時間もしたら帰る」
「お待ちしております」
絹代も、やっと落ちついた様子だった。
——松永は電話を切った。
やれやれ……。足が棒のようだ。
こんなに歩き回ったのは、久しぶりのような気がする。
「用事、すんだの?」
席に戻ると、少女が大きなシェイクを飲んでいた。
「うん」
松永は椅《い》子《す》にかけて、「もう帰った方がいいだろう」
と、言った。
「そうね。——何か悪いみたい」
「いや、構わん。しかし、このところ危い事件が続いてるじゃないか。君も、あんまりああいうバイトはしない方がいい」
「ああ、女の子が殺されてね。——いやね、ああいうのって」
と、少女は首を振って、「犯人、捕まったでしょ」
「他にもあんなのがいるさ」
「おじさんも?」
「どうかな」
と、松永は苦笑いした。「しかし、こんな所が面《おも》白《しろ》いのか」
「今、みんな来てる。安くて、時間潰《つぶ》しにいいしね」
——巨大迷路、というやつである。
相当の広さの場所に、大規模な迷路が作ってある。平日だというのに、若い子たちがキャーキャー騒ぎながら、中を右へ左へ、と行き交っていた。
松永は、少女に引張られて仕方なく、中を歩いた。少女が前にも来ていて、大して迷わなかったのだが、それでも一時間近くも歩かされて、ヘトヘトになっているのである。
今は、迷路を見下せる、高い場所にあるレストランで、足を休めていた。
結局、松永はこの少女に、ちょっとしたアクセサリーを買ってやり、ここへ来たいと言うので、連れて来てやり……。何をしているのか、我ながら呆《あき》れてしまう。
しかし、一方ではホッとしていた。あの、押え切れない暗い衝動を、この少女に対しては感じなかったからだ。——不思議なものだった。
この少女なら、金さえ出せばホテルへでも連れて行けただろうが……。
「結構迷子がいる」
と、面白そうに少女が迷路を覗《のぞ》いている。
「俺だって、一人だったら一日かかっても無理だな」
と、松永は言った。
「方向感覚、いいんだ、私」
と、少女は得意げに言った。「初めての場所でもね、迷うことってないの。前にも——」
少女の声が突然、聞こえなくなった。
松永は、迷路の一角、袋小路になった場所で笑い合っている、一組のカップルに、目を奪われていた。
——法《ヽ》子《ヽ》。本当に、法子だった。
幻でも何でもない。法子が、男の子の腕を取って、笑っているのだ……。
「——どうかした?」
少女が、不思議そうに訊いている。
やっと、それに気付いて、松永は、
「いや……。何でもない」
と、首を振った。「ちょっと、知ってる子と似た子がいたんだ」
「そう。でも、珍しくないわよ、知ってる子に会っても。ここ、みんな来たがってるんだもの、今」
法子……。確かに法子に違いない。
そして、一緒にいた男の子は、あの君原小百合のボーイフレンドではないか。名前は何といったか、忘れてしまったが。
手をつないで、はしゃいでいる法子は、松永の目に別人のように映った。法子は、どっちかと言えば内気な子である。
もちろん、女の子同士では、はしゃぐこともあるのだろうが、男の子と、それも二人きりで……。
これだけ離れた場所から見ても、法子が頬を赤く染めて、浮き立つように楽しい気分でいるのはよく分った。——考えるまでもない、法子はあの男の子に恋しているのだ。
「じゃ、私、もう帰ろうかな」
と、少女が言って、松永は我に返った。
「ああ。それがいい。どこか駅まで送って行こう」
「いいわよ。ここからなら、バスと電車だって、すぐだし」
と、少女は言った。
「しかし……」
松永は、ためらった。本《ヽ》当《ヽ》に、少女のことを心配していたのだ。
「——どこかへ寄るの?」
少女が、問いかけた。その目は、松永の心の中を探っている。
「どこへ?」
「ホテルとか……」
少女は、少しためらって、「勝手に遊んじゃったし、悪いな、とは思ってるの。でも、できたらこのまま……。もし、どうしても、っていうんなら、それでもいいけど」
松永は、法子の姿を、その少女に重ねていた。——法子は、あの男の子と、これからどこへ行くのだろう?
「——いや、そんなことは考えてないよ」
と、松永は言った。「ただ、どうせタクシーでも拾うから、と思っただけだ」
「そう」
少女がホッとしたように、「いい気分で、さよならできるしね、その方が。私、本当にいいの。バスで行く。大して遠くないの」
「分った。——俺も出るよ」
松永は立ち上った。
法子たちも、迷路を出たらここへやって来るかもしれない。松永は、それが怖かったのである。
外はもう黄昏《たそが》れていた。松永はバス停の所まで、少女と一緒にやって来ると、
「バスが来たようだね」
と、言った。「気を付けて」
「ありがとう、おじさん」
少女は、ニッコリ笑った。
「いいかね」
松永は言った。「もうやめなさい、あんなことは。——その内、危い目に遭う」
「うん」
本気かどうか、少女は肯いて、やって来たバスの方へ駆けて行くと、もう一度振り向き、ちょっと手を振って見せてから、バスの中へ消えた。
少し離れたタクシー乗り場の方へと、松永は歩き出した。——夜になる。暗がりが広がると共に、松永は、不安と苛立ちが高まって来るのを感じていた……。
まるで決った時間になると熱が出る患者のようだ。——タクシーが停《とま》っていた。
運転手が中で居眠りしている。窓を叩くと、目を覚まし、ドアを開ける。
「——どちらへ?」
と、運転手が訊く。
あのバスの後をついて行け、と言おうか?
少し間があって、松永は自宅への道を説明し始めた。