「もしもし」
と、せき込むような口調で、向うは電話口に出て来た。「水《みず》口《ぐち》です。誰?」
「林《はやし》田《だ》だがね」
「ああ。——どうも」
水口は、面倒くさそうに言った。
「いや、大変なことは分ってる。大事件だからね」
と、林田は言った。
「ええ、まあね。それで、何かご用ですか」
早く切ってしまいたい、という様子だった。
「うん。例の、君原という男だがね」
「あの男が何か?」
「間違いないかね、やったというのは」
少し間があった。
「どういう意味です?」
水口の口調は、はっきり迷惑がっている。「吐いたんですよ。充分でしょう」
「それは分ってる。しかし、私も知ってるが、君原というのは、優秀な刑事だったんだ。昔の事件まで、彼がやったというのは、どうも無理があるような気がする」
「僕はそう思いませんね」
と、水口は切り口上で言った。「他になければ、これで」
「ああ。ただ、慎重にやれ、と言いたかったのさ」
「ご忠告感謝しますよ」
水口の言い方は皮肉めいていた。「ま、せいぜい頑張って下さい」
ポン、と電話は切れてしまう。
林田は肩をすくめた。
電話ボックスを出ると、冷たい風が吹きつけて来て、首をすぼめる。——ため息をついた。
あの若い刑事は、はやり過ぎている。名を上げることに必死だ。
若いころはありがちなことだが、「犯人であってほしい」という気持が昂《こう》じて、「犯人に違いない」と決めつけてしまう。
しかも、怖いのは、厳しい訊問を続けたら、たいていの人間は参ってしまって、言われるままのことを認めてしまう、ということなのである。
水口の手柄にケチをつけるつもりは、林田にはない。今度の事件についてはともかく、過去のいくつかの事件まで、全部をあの君原という男に負わせようというのは、やりすぎだ。
水口は、少しでもこ《ヽ》と《ヽ》を大きくしたいのだ。——その誘惑に負けてしまいがちな刑事の心理を、林田はいやになるほど、よく知っている。
とんでもない間違いをしなければいいが……。
林田は、急ぎ足でやって来る娘に気付いた。小柄で、少し太り気味の——そう、確かにあの娘だ。
「ちょっと」
と、声をかけると、相手はギクリとした様子で、足を止めた。「いや、びっくりさせてごめん。君は、松永さんの所の——」
「あ……刑事さん」
と、マチ子は言った。「うちへ見えた」
「そう。林田だよ」
と、肯いて、「買物の帰りかい?」
「ええ」
「すまんね、呼び止めて。すぐ終るから」
「何ですか?」
と、マチ子は買物の袋を、左手に持ちかえた。「急ぐんです」
「分ってる。時間は取らせないよ」
と、林田は言った。「君は、松永さんの所に来て、どれくらいだね」
「私ですか」
マチ子はちょっと戸惑ったように、「三か月と少しです」
「三か月か。——働いてみて、どうだね」
「どう、って……」
「働きやすい?」
「別に……。そんなにあちこち知りませんから」
と、マチ子は首を振った。
「そうか。——いや、この前の腕時計のことだがね」
「旦那様の、ですか」
「うん。君が、あれを失くした時計じゃないかと言ったね」
「ええ」
「三か月しかたたない君に、よく分ったね、あの時計のことが」
マチ子は、ちょっとポカンとしていたが、
「どういう意味ですか」
「いいかね」
と、林田は言った。「若い女の子が殺された。知ってるだろ?」
「ええ、もちろん」
「犯人は捕まったが……。私は、あの男が本当にやったとは思っていないんだ」
マチ子はじっと林田を見て、
「——旦那様がやった、とでも?」
「それは分らん。しかし、あの腕時計のことが、引っかかっているんだ」
林田は、マチ子の反応をうかがうように、「君、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》、あの腕時計が失くなった、と聞いてたのかね?」
マチ子は、すぐには答えなかった。——答えが遅れるほど、林田の狙《ねら》いは当っていたことになる。
「もちろんです」
当り前の口調で、「変なこと言わないで下さい!」
と、腹立たしげに、マチ子は言った。
「もう行かないと」
「ああ、分った。——行ってくれ。すまないね、引き止めて」
「いいえ」
マチ子は、足早に立ち去った。
林田はその後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと首を振ると、歩き出した。——もちろん、マチ子とは反対の方向へと。
法子は、息を弾ませて、玄関を上った。
「お帰りなさいませ」
と、絹代が出て来て言った。
「あ、絹代さん。——おじいさんは?」
「ついさっきお帰りです」
「そう」
法子は、階段を上りかけて、「——小百合、いる?」
と、振り向いて訊いた。
「いいえ。出られて、それきり」
「どこに行ったの?」
「さあ。何も言って行きませんでした」
「ありがとう……」
法子は、階段を駆け上った。
部屋へ入り、ベッドの上に引っくり返る。
激しく息をして、汗がひくのを、待った。それほどの勢いで、走って来た。逃げて来たのか、それとも嬉しくて走ったのか。
そのどっちも、正しかった。
関谷征人。関谷征人。——小百合のことをいくら考えようとしても、自然に法子は征人を呼んでいるのだった……。
仕方がない。小百合に悪いから、という理由で諦《あきら》めるには、あまりに征人が法子の心に入り込みすぎている。
別に、どうという仲になったわけではなかった。迷路で遊んで……人目が途切れた時に、ちょっとキスしたが、それはただ、唇が軽く触れたというだけのもので、「恋人同士」のキスじゃなかった。
でも、やっぱり思い出せば頬は焼けるように熱くなる。——恋人なんだ。私の恋人なんだ。
小百合には悪いけど、でも、自分の気持を殺すことはできない。
ドアを叩く音がした。
「——私よ」
「小百合。入って」
ドアを開けて、小百合が入って来た。
「遅かったのね」
と、小百合は言った。
「だって——小百合も出てたんでしょ?」
「うん」
「どこへ行ってたの?」
「ちょっと相談したい人があって」
「そう。——おじいさん、会えないの?」
「当分、だめみたい」
と、小百合は首を振った。
「元気出してね、その内、きっと——」
「いいの」
と、小百合は笑顔になって、「私がしっかりしてなきゃ、おじいさん、助けてもあげられないしね」
「そうよ」
「ここに——泊っててもいいの?」
「当り前じゃない……」
と、法子は言った。「でも、必要な物とかないの?」
「うん。取って来た」
と、小百合は肯いて、「あの大内さんって人に運んでもらったの。勉強道具とか。明日は学校にも行く」
「大内さんに?」
「あの人って、何となく私と似てるの」
と、小百合は楽しげに言った。
「そうかなあ」
「そうなの。——ともかく、いつもの通り、暮すの。それが一番いいと思う」
法子は、じっと小百合を見つめて、
「強いなあ、小百合って」
と、言った。
「そうでもないけど、強いふ《ヽ》り《ヽ》でもしなきゃ。ね?」
下から、マチ子が、
「お食事ですよ」
と、呼ぶのが聞こえて来た。
「パーティ?」
と、法子が戸惑ったように言った。
「そうだ。二月二十九日に。——四年に一度だしな」
と、松永は言った。「君の分も一緒に。いいだろう?」
小百合は、食事の手を休めて、
「でも……」
「こんな時だからこそ、いいんじゃないかね?」
松永は微笑みかけた。
「はい」
小百合は、素直に肯いた。「ありがとうございます」
「法子も、友だちとか招《よ》んで、楽しくやろうじゃないか。——仲のいい子は、大勢いるだろ?」
「うん。いいね」
法子も、小百合がこだわらずに承知して、ホッとしていた。
「——もちろん、会社の奴《やつ》らも来る。仕事関係の連中もな。しかし、ちゃんと場所を分けるから、心配するな」
「この家でやるの?」
「その方がいいだろう。酔い潰れても、その辺に放っときゃいい」
と、松永が笑って言った。
「大変でしょ、仕度が」
「ちゃんと人を雇うさ」
松永は、ワインを口にした。「——旨《うま》い。今日は大分運動したんで、食事が旨いよ」
「ゴルフでもやったの?」
と、法子は訊いた。
「いや、そうじゃない」
松永は、マチ子に、「おい、もう少し、よそってくれ」
「はい」
マチ子は、松永の茶碗を受け取って、台所へ行った。
「——そうだ」
と、松永は言った。「弁護士の件だが、私の知っている一番の腕ききが、今夜出張から戻る。ちゃんと話はするよ」
「お願いします」
と、小百合は頭を下げた。
「全く、警察ってのは、何を考えとるのかな」
と、松永は首を振って、「そんなことをしている内に、本当の犯人は逃げてしまうかもしれん」
「そうよね。本当にひどいわ」
と、法子が憤然として言った。
「ま、二十九日は、何もかも忘れて、楽しむことにしよう。そうだ、小百合君」
「はい」
「あの——何とかいう男の子。関谷といったかな」
小百合が、ちょっと胸をつかれたように、
「あの……あの人がどうかしましたか」
と、言った。
「いや、ぜひパーティに招ぼう。やっぱり男がいると、女の子はきれいになる。なあ、法子?」
法子は、少したってから、
「そうね。——そうよ」
と、肯いた。
「じゃ、ぜひ来てくれ、と声をかけよう。いいだろう?」
「でも——あんなことがあって、来るかなあ……」
と、小百合は言った。
「来るとも。なかなか良さそうな男の子だったじゃないか。きっと来るさ。誘ってごらん。いいね?」
「——はい」
と、小百合は肯いた。
「クラスの子も、大勢招ぼうね」
と、法子は笑顔で言った。「おいしいものが出るわよね」
「食べ切れないくらいね」
と、松永は笑って言った。
マチ子が、やって来た。
「ありがとう。——大内から連絡は?」
「ございました。車のことで、明日、お目にかかりたい、と」
「そうか。じゃ、朝、電話して来るだろう」
松永は、ほとんどはしゃいでいる感じだった。「一度、あいつに歌わせてやりたいんだがな。頑固なんだ」
と、笑う。
「旦那様」
と、マチ子が言った。「後で、ちょっとお話が」
「うん?——ああ、分った」
小百合と法子は、黙々と食事を続けていた。
二人とも、考えていたのは、征人のことだった。——一人は胸のときめきと共に。一人は、暗い絶望と共に。